24th
八月も残すところ一週間ほどになった。実家は友莉乃の結婚とアメリカへの引越しの準備で毎日ドタバタしているらしい。一方の私といえば、相変わらずの毎日を過ごし続けている。妹が先に結婚すると知って内心で焦ってはいるものの、結婚願望があるわけでもなく、彼氏がほしいわけでもない。結局、私は今のこの生活が性に合っているのだと自分を納得させてしまった。
ひとつイレギュラーな出来事を挙げるとすれば、久しぶりに香織と電話をした。
高校教員で、今年から料理部の顧問まで務めている香織は毎日が忙しいらしく、なかなか頻繁に連絡を取り合うことができていなかった。だけど、一応幼馴染なのだから妹の結婚くらいは報告するべきだろうと思い、ある夜に電話をかけた。
『うそ!あのゆりちゃんが結婚?うわー。先越された!』
「うん。しかも、夫婦でアメリカに引っ越すんだってさ」
『マジで?それは急展開』
「だよね。私もびっくりした」
『ご祝儀渡さないと。近々、実家にお邪魔しようかな』
「別にいいと思うよ?引越しまでの時間がないから、結婚式もやらないみたいだし」
『あ、そうなの?それは助かる』
「おい」
それから、香織の料理部についての話を聞いた。なんでも、料理部で考案した料理が東京都のコンクールで金賞を受賞して、全国大会に出場することになったらしい。そのおかげで、夏休みも毎日学校で部活があって大変らしい。「休みがない」と愚痴は言いつつも、「せっかくだから日本一になりたいよね」と全国大会への熱意を覗かせていた。
そして話題は、前に私が相談した「あの件」に移った。
『で、どうなったの?例の人とは』
「例の人って?」
『あんたが無理やりキスされたっていう人。ガツンと言ってやった?』
「ガツンと......ではないけど、あの後すぐに話した」
『それで?今は?』
「実は、今も会ってる。というか、毎週一緒に飲んでる」
『え?マジ?』
「うん。いや、普通に友達だよ」
『いやいや、友達って。キスされたってあんなに騒いでたのに。やっぱり、あんただって満更でもないんじゃない』
「満更でもないというか、そもそも......」
そこで私は、香織が未だに私が話しているその人が男であると思っていることに気がついた。
『そもそも、何さ』
「えーっと......」
別に隠すことでもないかもしれない。
何故かそう思ってしまった私は、真相を打ち明けることにした。
「あの、ちょっと言ってなかったことがあるんだけど」
『何?』
「実はその人、女の人なんだ」
『......え?』
「私にキスしてきたその人、女の人なの。言いそびれてたけど」
『......ああ、そうなの。確かに、そりゃあビビるのも無理はないか』
「でしょ?」
『というか、その人が女なら、尚更そんなことをされた人とよく友達付き合いできるね』
「私も最初は本当にこれでいいのかなと思ってたんだけど、実際気が合うし、話してて楽しいし」
『ふーん......まあ、仲良くしてるならいいんじゃん?』
「うん」
『もし付き合うことになったら教えてよ。別に私は応援するし』
「つ、付き合わないよ!」
『あっそ』
それから私がカシュの話をしたことをきっかけに、香織の実家で飼っていたミニチュア・ダックスフントのくーちゃんの思い出話で盛り上がった。
そして、時間ができたらいつか一緒に飲みに行こうと約束して電話を切り上げた。
幼馴染との久しぶりの会話を楽しんだ私だったけど、一方でまた、友莉乃の結婚を知ったときと同じような感覚を覚えた。香織は今でも、目指すべき目標に向かって頑張っている。
なんだか私だけ、行く先を見失っている気がする。
金曜日の夜。いつものように一緒に食事をしていた松木さんに、私はその思いを打ち明けた。
「なんだか、みんなに置いていかれている気がして......」
私がそう言うと、松木さんは一言「悪いことじゃないと思うよ」と言った。
「私は早川さんと一緒にお店に来て、お酒を飲む早川さんを見ながら会社の愚痴を聞いてもらって、家に帰ってカシュとたっぷり遊んで、その写真を早川さんに送る。そんな一日が最高に楽しいし、いつまでもこんな時間が続けばいいのになって思うよ」
「それは......私も同じですよ。松木さんと一緒にいるのは楽しいです」
「じゃあ、それでいいんだよ。別に人と比べる必要なんてないよ」
「そうですか......」
そんな会話を通して、私は「確かに、このままでいいのかな」なんて思ってしまった。
松木さんと会って話している間は、その悩みは忘れることができる。それほど、松木さんが私の日常にいて当たり前の存在になってしまっているということだ。
本当にこれでいいのか。そんな自問自答をする暇もなく、松木さんから「またドッグランに行こうよ」と誘われてしまった。そんな誘いをされてしまったら、「いいですよ」と言うしかない。結局、九月最初の土曜日にドッグランへ行こうと約束をしてしまった。そして相変わらず、その日が楽しみで待ちきれない自分に呆れるしかなかった。
その翌日の夜。私は、一人でテレビを観ながら松木さんからカシュの写真が送られてくるのを楽しみに待っていた。
しかし、いつもならとっくに送られてきている時間になっても、なかなか写真が届かない。今日は無いのかなと少し残念に思いながらテレビを消す。少し空腹感を覚え始めていたが、夕食よりも先にシャワーを浴びることにした。
カシュの写真が送られてこないだけで、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。もう既に私のスマホの中はカシュの写真でいっぱいで、かなり容量も限界まで切迫してきている。友人とはいえ、自分が飼っているわけではないペットに、どうしてここまで依存してしまっているのだろうか。
シャワーを浴びてからバスルームを出る。体を拭きながらスマホを確認すると、画面には松木さんの名前が浮かび上がっていた。しかし、いつもの写真が送られてくるときとは異なり、一分前に通話の着信があった。
松木さんが電話?
何か急な用でもあったのかと、半裸状態のままでこちらから電話を掛け直した。
呼び出し音の間にタオルで頭を拭こうとしていると、予想よりも早くその音が途切れた。
「もしもし、松木さん。どうかしました......」
『早川さん!あ、あの!』
いつもの松木さんとは違う、何か焦っているような声。
「ど、どうしたんですか?」
『か、カシュが......カシュが!』
その瞬間、これは只事ではないと理解した。
「え?カシュがどうしたんですか?」
『わ、私、わからなくて。不安で。だから......』
「落ち着いてください。どうしたんですか?」
『カシュが具合悪くて、病院に来たら......』
「病院?そ、それで?」
『今から手術だって......』
その声を聞いた私は、咄嗟に「病院はどこですか」と訊いていた。
松木さんから教えてもらった夜間動物病院へ駆けつけると、待合室に松木さんがたった一人で座っていた。私が来たことに気がつくと、松木さんは立ち上がってこちらへ駆け寄ってきた。
「早川さん!ご、ごめんね。いきなり電話なんかして。私、どうすればいいのかわからなくなって......呼ぶつもりはなかったの。ごめんなさい」
俯きながら不安を隠せない細い声で話す松木さんは髪の毛がいつもより乱れていて、おそらくメイクもしていない。よほど焦っていたのだろう。自分が着ているTシャツの裾を掴んでいる両手が少し震えているように見える。
「ここに来たのは私の判断ですから、気にしないでください。そんなことより、カシュは?」
「手術が始まったところ......」
「そうですか......」
「うん......」
「とにかく、座りましょう。待つしかないですから」
松木さんを座らせ、私もその隣に腰を下ろした。私たち以外には誰もいないこの待合室からは、手術室がどこにあるのかもわからず、カシュが今どのような状況にいるのかもわからない。不安がるのは当然だ。そこで私は、松木さんからカシュの詳しい病状を聞いた。
カシュは今朝、出されたご飯を少ししか食べなかったらしい。いつもよりも元気がないように見えたカシュを心配した松木さんが病院へ連れていくと、「明日になっても同じ症状が続いていたらもう一度病院へ来るように」と言われた。
しかし、夜になるとカシュはぐったりし始め、それから一時間ほどが経過した時にカシュは嘔吐してしまった。水を飲ませてもすぐに吐き出してしまうカシュを見てこれは普通ではないと判断した松木さんは、この夜間動物病院に駆け込んだのだという。
検査の結果、カシュのお腹の中にある腸管が隣の腸管の中に入り込んでしまっている可能性があることがわかった。このままでは食べ物を上手く消化できず、さらに腸管が圧迫されていることによって血液も上手く流れないため、すぐに手術をしないと危険な状態であることから、その場で緊急手術が決定したのだ。
「原因もいろんな可能性が考えられるけど、手術をしてもはっきりとは分からないことが多いって」
「そうなんですか......」
「もしかしたら私のせいかもしれない。私のお世話の仕方がよくなかったのかな......」
「そんなことないですよ。松木さんはちゃんとカシュのことを考えて、しっかりお世話をしていたじゃないですか。大丈夫ですよ。とにかく今は、待つしかないです」
「うん......」
今にも泣き出してしまいそうなほど不安がっている松木さん。
祈るように組んだ両手を膝の上に乗せている。
そんな松木さんの手の上に、私は自分の右手を重ねた。
自分でも理由はわからない。
ただ何故か、私がその手に触れれば、少しは落ち着いてくれるのではないかという不思議な考えがよぎったのだ。
松木さんは少し驚いたように一瞬だけ私の顔を見たけど、すぐに私の手が重なる自分の手に視線を落とした。
二時間ほどが経過した。その間、他の誰かが病院に入って来ることはなく、待合室にはずっと私たちだけだった。時折、看護師が待合室の中を慌ただしく通って行く度に、松木さんはそれを不安そうに目で追っていた。私も「大丈夫ですよ」と声をかけてはいたけど、内心ではすごく不安だった。それでも、松木さんの横で私が取り乱していてはいけないと自分に言い聞かせた。
「松木さん」
待合室の奥の廊下から、マスクをして手術帽を被った男の人が入って来て、松木さんに声をかけた。おそらく、手術を担当した先生だろう。呼ばれた松木さんはすぐに立ち上がり、先生の元へ駆け寄った。
「先生!どうでしたか?」
「大丈夫です。上手くいきましたよ」
「本当ですか?ありがとうございます!よかった......」
安心したのか、松木さんはその場でしゃがみ込んでしまった。少し困っている様子の先生を見て、代わりに私が話を聞く。
「えっと......すみません。私、松木さんの知人です。カシュはどんな状態だったのでしょうか」
「やはり検査結果通り腸重積といって、腸管が他の腸管に入り込んでしまっている状態でした。異物もなく、腸炎などを起こしていた様子もありませんでしたので、残念ながらはっきりとした原因は分かりませんでした。腸重積では原因不明のケースが多いんです」
「そうなんですか......」
その会話の途中、私の隣でしゃがみ込んでいた松木さんが立ちあがった。先生に「すみません。ありがとうございました」と言ってもう一度頭を下げたものの、それきり言葉を発することはなかった。
手術は成功したが、カシュは一週間の入院が必要だと言われ、私と松木さんはそのままタクシーに乗って松木さんのマンションまで戻ってきた。松木さんはまだ不安なようで、運転手に行き先を告げた以外はひと言も話さなかった。
マンションの前で停車して、松木さんの横のドアが開く。松木さんは「今日はありがとう。わざわざ来てくれて」と言って、自分の財布から一万円札を出して私に渡そうとしてきた。
「......なんですか?これ」
「これで、このまま家まで帰って。お釣りも返さなくてもいいから」
か細い声でそう言った松木さんは、運転手に礼を言ってタクシーから降りようとした。こちらに向いたその背中を見た瞬間、私の胸の奥で何かが込み上げた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
何かに突き動かされるように私は、松木さんに渡された一万円をそのまま運転手に渡して会計を済ませてもらい、そのまま私もタクシーを降りた。
「お家にお邪魔してもいいですか?」
「え?」
「というか、お邪魔しますね」
「で、でも......」
「ダメですか?」
「ダメじゃないけど......いいの?」
「はい。自分でもよくわからないんですけど......このまま松木さんを一人にしたらいけない気がするんです」
何を言ってるんだ私は。
何をやってるんだ私は。
自分でも混乱したまま、松木さんの家にお邪魔することになった。
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