君の笑顔が見たいから
モグラ研二
恋愛3部作その1
《ブッチッパ。この音にどれくらい救われただろうか。あたしはあの日のこと、あの人のことは一生忘れないと思う……。》
リョータが、あたしの作った夕飯のカレーが臭いし不味い俺を殺そうとしているのかお前は、と怒鳴ってきた。
あたしは、普通に市販のカレールーの箱に書いてある通りに作ったし自分でも食べたけど臭くないし美味しいよ、と言った。
それでもリョータは激怒していて、あたしが大事にしているカエルの置き時計を思い切り床にぶつけて破壊した。
そのカエルの置き時計はあたしのパパがまだ元気なときに海外出張先のミュンヘンで買ってきてくれたものだった。
パパはミュンヘンから帰ってきてしばらくして向こうの女から移された悪い病気になって死んだ。
大好きだったパパ。最後は全身の皮膚が赤黒く変色して白目を剥いて黄色い液体を吐いていたパパ。
あたしが、パパ!パパ!と呼びかけても、パパは白目を剥いて、アガアアアアアアアア!と黄色い臭い液体を吐きながら叫ぶばかりで、意思疎通など不可能だった
最終的にパパは全身が膨らみ始め、顔も胴体も手足もパンパンに膨らんで、最後はアガアアアアアアアアア!!!と絶叫して、水風船が破裂するように、弾け飛んで死んだ。
もう、体なんてものはなかった。
ぐちゃぐちゃの肉塊、ミンチ、臓物のぐちゃぐちゃ、皮膚の切れ端、そんなものが、病室の壁、床、天井、いたるところにへばりついていた。
ママは何も言わず、パパが弾けて死ぬ様子を、じっと見ていた。目を見開き、微動だにしなかった。
「ママ……」
あたしがママの手を握ると、ママは微動だにしない状態のまま、手だけ、握り返してくれた。
リョータは市販のカレールーとか使う女はクズだ、ちゃんとスパイスから手作りすべきだしお前の味覚は完全に狂っているからお前みたいな奴はガスバーナーで舌を焼かれて死んだ方がいいんだ、と顔を真っ赤にし目を充血させて怒鳴った。
次の日に朝起きるとテーブルの上にリョータからの置き手紙があって、お前はおかしい、もう付き合いきれない、頭が狂っている奴とは無理だから、バイバイ、と書いてあった。
あたしはそれで自分がリョータに凄く酷く残酷なことをしてしまったと知って慌ててリョータの母親であるミホコさんに電話した。
リョータなら部屋でセックスしているわ、とミホコさんが言ってあたしはとてもショックでそれはあたしがけっこう古風な人間で浮気があまり好きじゃないからなのだった。
ミホコさん、あたし泣きそう、とあたしが言うとミホコさんは優しい声で、泣いていい、好きなだけ泣いて、それでも傷ついているなら人生を諦めなさい、あなたに希望はない、そのことを直視しなさい、と言っていた。
ミホコさんは地域で悩める若者たちに、この世界には希望なんて最初からなくてお釈迦様も人生とはすなわち苦しみでしかないのだと言っていてだから期待するだけ無駄なのだ、というこの世界の摂理を丁寧に語る仕事をしていた。
その仕事は概ね好評で、地方局のテレビ番組にミニコーナーを持ったりしていたし、大手新聞紙の朝刊にたまにコラムを書いたりもしていた。
ミホコさんは、リョータは部屋で私が用意した女とセックスして子供を作っているの、私はもう老い先短いわけだから、早く孫の顔が見たい、だから、リョータは部屋でセックスするの、生で入れて中出しするように指示してあるのよ、あら、凄いわ、リョータも女も叫んでいて、盛り上がっているみたいよ、と高いテンションで早口で言った。
浮気ダメ!と、あたしが叫ぶとミホコさんは煩いから電話切る、あんた煩いから嫌いだわ、と宣言して通話を終了させた。スマートフォンを持つ手が震えた。
あたしは部屋で泣いた。リョータが浮気して他の女と生でセックスしているなんて。
あたしは、リョータとはセックスしていない。理由は、リョータのチンポコが真性包茎でチンカスが大量に固まりこびり付いて滅茶苦茶臭くて、あんな臭いものを、あたしは体に入れたくなかった。だから、リョータとのセックスは拒絶してきた。
リョータはそれでもいい、ありのままの君さえいればそれでいい、愛してるんだ、と言ってあたしを抱きしめた。
あたしも、リョータが大好きだった、愛していた。
あたしとリョータは朝まで、裸で、セックスしないで、ただ抱き合って、互いの体温や匂いを感じながら過ごした。
リョータに会いたい。
あたしはリョータの脇の下の酸っぱいにおいを思い出す。
腐ったレモンと腐った酢飯をミキサーにかけて一週間置いといた、みたいな、あのにおい。
身体が震えた。会いたすぎて身体が痙攣した。
会いたいのに会えなくて、あたしは激しく身体を痙攣させながら、白目を剥いて路上を歩いていた。
あたしは、リョータ。リョータ。と、何度も呟いていた。
その様子を近所の子供たちに目撃されて、しばらくあたしは不審な目で近隣住民から見られた。
町内会長のエノモトとかいう禿げたおっさんが声を掛けてきて、近隣住民を不安にさせるな、怖がらせるな、常識がないのか、と路上で説教してきた。
エノモトは禿げていて脂ぎっていて眉毛が濃く目は細く鼻が潰れていて唇が異様に分厚い。唾を飛ばしながら甲高い声で叫んでいた。
「ちょっと来なさい!」
エノモトが毛深い手であたしの二の腕を掴んだ。
「嫌!変態!」
あたしはリョータに買ってもらった偽皮のハンドバッグでエノモトの側頭部を殴りつけた。グエ、と言って、エノモトは倒れた。
エノモトは仰向けで、白目を剥いて口を開けて舌をだらりと垂らしている。
「あたし、知らない!」
あたしは部屋に戻って布団を被って震えた。リョータに会いたい。こんな時にリョータに抱きしめて欲しかった。
布団を被って震えるのにも飽きて、あたしはキッチンに行き、余ったカレーを温めて食べた。やっぱり、普通に美味しい。あたしはリョータに、もう一度これを食べて欲しいと思った。
それで、リョータの家に行った。リョータの母親であるミホコさんは不在で、玄関扉は鍵がかかっていなくてあたしは許可なくリョータの家に侵入。
パンッパンッパンッ!!
激しい音が、二階から聞こえた。
リョータが、セックスしているんだ!
あたしは階段を駆け上り、リョータの部屋のドアを開けようとしたけど鍵がかかっていたので仕方なくドアをガンガン叩いた。
「リョータ!セックスダメ!浮気ダメ!!リョータ!!あなたを愛してるの!!」
あたしは叫んだ。でも、パンッパンッパンッという音は止まない。
雄叫びみたいなものも聞こえた。
《ヴォオオオオオオオオ!!!》みたいな感じの声。
リョータが出している声だ。
「リョータ!!お願い!!セックスダメ!!……お願い……お願いよ……リョータ……なんで……なんでなの……」
ドアの前で膝を折り、蹲って、あたしは泣いていた。涙が止まらなかった。リョータが子供を作るためにこのなかで生でセックスしている。雄叫びをあげている。もう、あたしにはどうしようもない。
無力なあたし。
「リョータ、どうして……ああ……リョータ……」
パンッパンッパンッ!!!
激しい音、そして《ヴォオオオオオオオオ!!!!》という雄叫び。
あたしは、項垂れながら、暗い階段を降り、リョータの家を後にした。玄関から出て行くとちょうどミホコさんが帰って来るところだった。
「あら、あなた来てたの?反省した?ドーナッツ買ってきたけど食べる?」
あたしはミホコさんの思いやりある言葉を無視して、涙を拭いながら走った。コンクリートの路上。原付バイクが横切った。ヘルメットも被っていないおっさんだった。坊主頭で、目が虚ろで、涎を垂らしていた。
「あれ、大丈夫なのかしら。心配だわ……。」
荒井イクちゃん4歳が横断歩道を渡っているときに原付バイクに撥ねられて死んだ。
色白でくりくりした大きな目、スタイルも良く、フリルの付いたピンクのスカートを穿き、お姫様のようだった。
そんな荒井イクちゃんは原付バイクに撥ねられて吹っ飛び、コンクリート道路の上を何十回も転がり激しく損傷した。
手脚が千切れたし、目玉も飛び出し、顔は半分潰れた。腹も切れて臓物が飛び出していた。
そんな荒井イクちゃんを見て、路傍でゲロを吐く人もいた。
荒井イクちゃんのお葬式には荒井イクちゃんのお友達とその両親、荒井イクちゃんの両親のお友達や親類縁者など、総勢50人以上が参列した。
荒井イクちゃんの死体が霊柩車によって出棺される際に、参列した人々が一斉に、大きな声で、イクちゃーーん!さよならーー!と叫んだ。
「イクちゃん!イクイク!」
そのように叫ぶ者も数人いたが、特定は不可能だった。
「イク!イクイク!イクちゃんだからイク!」
まだ言っていた。それは呟きのような音量であった。
あまりにも不謹慎すぎる。
みんな憤りを隠さない。怒りの形相で犯人を探すが、特定は不可能だった。名乗り出る者もいなかった。
「誰だよ!あんな不謹慎なこと言ったのは!」
荒井イクちゃん4歳の最も親しいお友達である甲斐田コウタくんの父親である甲斐田たかしは怒りをぶちまけた。
「あなた、そんなに怒らないで。」
そのように、妻の甲斐田かな子が言ったが、甲斐田たかしの怒りは収まらない。それどころか怒りは高まる。
「かな子!お前が言ったのか!イクちゃんの葬式で!イクイクって言ったのか!」
「違う!違うわよ!」
「じゃあなぜそんなことを言うか!」
「あなたが怒るから、コウタが怖がるでしょ!」
「嘘だ!コウタが怖がるわけない!嘘だ!」
「怖がってるじゃないの!」
甲斐田コウタは、部屋の隅の方で背を向けて、体育すわりをしている。身体を震わせている。グス、グス、と泣いているような声を出している。
「怖がってない!俺の子だぞ!!俺のチンポコから発射された精子から出来た子だぞ!そんな弱虫なわけがない!!」
「とにかく違う!あたしじゃないわ!!」
「うっせえぞ!かな子!!!」
甲斐田たかしは甲斐田かな子の髪を引っ張り引きずる。痛い!痛い!痛い!と甲斐田かな子は泣き叫ぶ。
「痛いとか言うな!荒井イクちゃんの方がお前の数百、数千倍は痛かったんだ!それをなんだ!お前は外道だ!外道!外道だ!」
甲斐田たかしは顔を真っ赤にして手には金属バットを持っていた。
「これからお前の脳漿をぶちまける!お前には生きるのをやめてもらう!」
激高して怒鳴りつけながら、甲斐田たかしは金属バットを持った方の手を振り上げた。
生きるのを止めたいと思うことは、正直何回でもある。今も、もしかしたらそうかも知れない。ここ数年、心から晴れやかな気持ちになったことはない。常に、どんよりとした厭世的な感情に包まれている。笑いたい。ヨッシャ!とか叫んでガッツポーズを決めたい。でも、無理だった。笑い合い楽しそうにしている、特に自分より若い人たちを見ると、絶望感が込み上げる。そういう時に、特に、生きるのを止めたいと思う。人生には楽しいことが一つとしてなく、延々と苦しみだけが続き、苦しみを与えてくる人しか周りにはいないから、人を好きになるということはありえない。楽しそうな勝ち組を刺殺。そんなことを供述する犯人の気持ちが、痛いほどによくわかる。常に自分に価値がなく自殺すべきだと考える人たちにも、共感しかない。苦しみから抜け出す道はなく、なぜ、みんなは楽しそうに笑えるのだろうと、疑問ばかりが積み重なる。瓦礫の山。私自身の部屋は荒れ果てている。私の精神状態そのものだ。風邪薬や睡眠導入剤を大量に服用することを、今は考えている。だが、腐乱死体になり、ここの大家さんに迷惑をかけるのは嫌だった。瓦礫の真ん中に仰向けになり、天井付近を飛び交うハエたちを見ていた。時間が曖昧になり、苦しみの感情、止まない厭世的な感情だけが、ゆるやかでごく静かな音楽のように、私のなかに生起していた。
晴れ渡った青空の下、原付バイクが川沿いの道を走る。乗っているのは坊主頭、目が虚ろで涎を垂らしている人物。物凄いスピードで走っていく原付バイクは道に置かれた大きな石を踏むとバランスを崩して川の方へ突っ込んでいく。そのまま原付バイクは川のなかで転倒、乗っていた坊主頭の男は虚ろな目をして、涎を垂らした状態でしばらく犬かきをしていたが、全然前に進まない。次第に犬かきをする力は弱まっていき、結局沈んでいった。最後まで表情はなく、虚ろな目をして、涎を垂らしていた。
川は水深が2メートルほどだが、さほど流れは強くなかった。中学生でも余裕で泳ぐことができる程度の川だった。
あたしの涙が川に落ちて波紋を作る。あたしは川べりにしゃがんでいた。うっ、ううっとかあたしが言っていると大丈夫なのかなと男に声を掛けられて振り返ってみるとそこにはグレーの仕立ての良いスーツを着た40代後半に見えるスラっとした男が立っていた。
男は髪の毛をオールバックにしていて彫りが深い顔立ちでなかなかハンサムに見えた。大丈夫なのかなとまた言いながら男はあたしの隣に腰を下ろして一緒に川の表面を見ていた。あたしは、あんまり大丈夫ではないと言って涙を拭って鼻汁を啜った。グレースーツのハンサム男は優しい声で、そうか、とだけ言うと立ち上がって、元気になるものを見せてあげるからおいでよ、と言った。
あたしとグレースーツは川沿いの道を歩いた。男は名前を岸田敏夫と言って、都内に数十店舗あるカレー専門店を経営しているのだといった。店はインドカレーではなくネパールカレーであってかなり珍しいために大人気で予約を取ることも今では難しいのだという。失恋してネパールの村に行ってそこで汚い恰好をした老人からカレーを食べさせてもらって僕の人生は変わったんだ、とグレースーツは言っていてあたしはカレーで人生が変わるなんてすごいと思った。
さぞかし高級な住宅に住んでいるかと思ったが岸田敏夫の家は比較的質素な、しかし清潔感のある4階建てのマンションであたしたちは部屋に入った。
「いいかい?どんなことが起こっても、これから、絶対に目を逸らしてはいけない。いいね?」
岸田敏夫が真剣な顔をして言ってきたので、あたしは、うん、と頷いてリビングに設置されているふかふかのソファに座った。
小さな音で、アフリカの民族楽器かなにか、打楽器のリズムが鳴り始めた。
室内照明が少し暗くなった。
ソファの前には小さなステージのような台が置いてある。
「始めるよ」
バスルームのドアを開けて、全裸になった岸田敏夫が現れた。
髪はオールバックで、彫りの深い顔立ちで、胸板がけっこうあって、腹筋が割れていて、陰毛が濃くて、チンポコは萎えていた。興奮はしていないらしい。
「始めるよ」
岸田敏夫はあたしが座っているソファの前に置いてあるステージの台のようなものの上にやってくると、四つん這いになり、あたしの方にケツを突き出した。
「見るんだ。目を、逸らすな……」
岸田敏夫の肛門の周りにはびっしりと毛が生えていて、肛門はひくひくと動いている。岸田敏夫がくぐもった声で、うぐぐ、ぐぐ、うぐぐ、と唸り始めると、肛門のひくひくは早くなる。そのうちに、ぶぶっ、ぶ、ぶぶっ、ぶぶぶ、と肛門から音が始まった。部屋の空気が屁の臭いになる。あたしは不愉快になってきた。でも、目は逸らさない。
「で、でる、でるでる、でるううううううううう」
岸田敏夫が叫ぶ。
《ぶっちっぱ!!》
ひくひくしていた肛門から一気に、茶色い半固形の糞便がドバドバと放出され、床に落ちる。
ボトボトボト……山盛りになる糞便。
糞便にまみれた岸田敏夫の肛門がひくひくしている。
部屋中に糞便の臭いが漂う。
アフリカの民族楽器みたいな打楽器のリズムが満ち溢れている。
岸田敏夫は立ち上がり、こちらを向く。すごく良い笑顔をしている。充実した仕事を成し終えたあとのような、笑顔である。
「元気になったかい?」
不思議な気持ちだった。こんな変態じみた行いを見れば不愉快になり、嫌悪感に満ち溢れるはずであるのに、あたしはそんな気持ちになっていなかった。アフリカのリズム、糞便の臭い、岸田敏夫の笑顔、これらが絶妙なハーモニーを奏でて、あたしに不愉快な気持ちではない、しかし、必ずしも心地いいとは言えない、なんとも言い難い印象をもたらしている。
「君の笑顔が見たいから、僕はなんだってできるんだ」
岸田敏夫は全裸の状態で笑顔を浮かべ、手を、差し出した。
あたしたちは握手した。
あたしたちの足元には、今さっき、岸田敏夫が肛門から放出した糞便がまき散らされていた。
あたしたちは笑顔だった。
あたしは笑顔になっていたんだ。
また川沿いの道を歩いた。もうかなり暗くなっていた。お腹が空いていた。あたしは駆け足で部屋に帰った。キッチンに行く。鍋のなかにはカレーがまだ余っていた。カレーは、岸田敏夫の糞便と同じ色をしていたけど、嫌悪感はなかった。
カレーを温めて食べた。やはり美味しかった。
もしかしてリョータの味覚がおかしいだけだったのではないか、という当然の疑問が今更ながら湧いてきた。
後で電話してあげよう。さすがにセックスも終わっているだろうし、とあたしは思いながら、岸田敏夫の糞便と同じ色をしたカレーをスプーンですくい、口の中に入れた。
君の笑顔が見たいから モグラ研二 @murokimegumii
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