まっさらに近づけた夜
しほ
第1話 まっさらに近づけた夜
それは突然やって来た。
首都圏で深夜未明に最大震度五強を観測した。
最近では数年に一度、これくらいの規模の地震が起こるためか、都民はすぐに目を閉じた。
しかし地震は鉄道や水道などのインフラを直撃。それに都民が気付くのは、数時間後の各々のアラームが鳴る頃だった。
既存の図書館を今の時代に合わせつつ、自然との調和をテーマとしたものだったが、これがなかなか難しい。
その時だ、下から突き上げるような大きな衝撃が走った。
地震には慣れていたが、咄嗟にコーヒーカップを押さえた。
揺れが収まると恐る恐るベランダへ出て街の様子を伺った。
信号が消えているところもあったが、さほど被害はなさそうだ。
かなりの揺れだったが深夜の住宅街は静まり返っていた。
匠は安心してふと空に目を移した。
東の空から瞬きながら、ゆっくりと落ちてゆく何かが見えた。目を凝らしもう一度見た。
(流れ星? なんかじゃない!)
光輝くものが、ある一点をめがけ、ゆっくりと落ちてゆく。
(井の頭公園か?いや、もっと北寄りな感じがする)
気が付くと匠の手には車の鍵が握られていた。
(オレ何しに行くんだろう)
自分のことなのによくわからないまま、匠はパーカーを羽織り、車のエンジンをかけた。
落下物の正体は分からないが、とにかくゆっくりと落ちている。
車を止めては方向を確認しながら徐々にそれに近づいた。
同じ頃、夜空を見上げた者たちがいた。
彼らも光に導かれるように方々から集まり始めた。
信号は停電のせいか所々点灯していたが、深夜と言うこともあり、さほど迷わず匠は落下物の真下に着くことができた。
そこは武蔵野八幡宮
武蔵野屈指の古い
匠は車から降りると、まだ上空にある光輝く落下物を目指し、境内へ向かった。
ゆっくりとたなびきながら天から舞い降りたものは、子どもの頃に絵本で目にした、天女の羽衣のように見えた。
薄紅色の羽衣は何かを探し、地表を漂っている。
武蔵野八幡宮の境内は都会にしては広く、多くの木々に囲まれている。
暗いはずの境内は羽衣からのまばゆい光で、昼間のような明るさだ。
匠はどうすることもできずに、ただ羽衣の行方を目で追うばかりだった。
気が付くとか羽衣を囲うようにして人が集まり始めた。
十人くらいはいるのだろうか。皆、何もできずに立っているだけだった。
その時だ。
本殿の上に人影が見えた。
辺りはざわつき後ずさりする者もいた。
その影は勇ましく弓を構え、何の躊躇もせず、人の輪をめがけ矢を射った。
矢は羽衣を捕らえ、光は徐々に失われていった。
「沈めたまえ。時間は大陸に朝日が照らすまでじゃ」
よく通る男の声が境内に響いた。
地面には亀裂が走り、辺りの木々が傾き始めた。
「えっ、何をしたらいいの?」
集まった人々から声が漏れた。
誰かが答えるように話し出す。
「塩か?お清めの塩じゃないか?」
「お経を唱えよう」
「ここは神社だぞ!」
「検索してみよう」
「歌じゃないかしら、ねんねんころりよ~おころりよ~」
集まった者たちはそれぞれ知恵を振り絞った。
匠は何もできなかったが焦る気持ちから、本殿から矢を射った正体を探し回った。
時間だけが過ぎてゆく。
夜空からは星が消え、朝を迎える準備が整い始めた。
亀裂は東西に伸び、人々は焦りの色を見せた。
矢で射貫かれた羽衣は光こそ弱くなったものの、ゆらめきながら、なおも優しく人々を照らす。
「またやって来たんだねぇ」
白髪の初老の女性は羽衣に近づき話しかけた。
「前にも羽衣が落ちて来たんですか?」
若い女性の声に白髪の女性は答えた。
「そうねぇ、私があなたぐらいの頃かしら」
白髪の女性はお重に詰めた炊き立ての塩むすびを羽衣と矢の傍らへ供えた。
「静かに手を合せるんだ。何も考えなくていい」
時が経ち、朝日が境内を照らした。
誰一人微動だにせず、無心に手を合せる姿に匠は心を奪われた。
気が付くと薄紅色の羽衣もそれを射貫いた矢も消えていた。
亀裂は怒りが治まったかのように元へ戻ってゆく。
匠は車に戻ると長いため息をついた。
車をゆっくりと発進させ、数時間前に焦ってたどり着いた鳥居を見上げた。
(あれは…)
一瞬であったが、鳥居の上に人影が見えた気がした。
「神様…。かもしれないな…」
匠は
来た時と同じように何が起きているのか分からなかったが、納得している自分がいるのが不思議だった。
窓を開けると、今まで感じたことのないほど清らかな朝の風が体を包んだ。
家に着きテレビの電源をつけた。
どの局も未明に起きた地震のニュースが大半を占めていた。
交通機関は運行を見合わせているらしい。
パソコンを開きプレゼンのための図面を確認した。
(違う、こんなんじゃない)
匠は冷え切った手をパーカーのポケットへ忍ばせた。
温かい何かに触れた。
「塩むすび」
帰り際に白髪の女性からもらったものだった。
人肌ほどの温かさだったが、噛みしめるごとに涙があふれた。
例えようがなく、只々美味しい。
(こういうのいいなぁ)
匠は秋晴れの中、スケッチブックを抱え外へ飛び出した。
まっさらに近づけた夜 しほ @sihoho
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