緑社のむこう

北溜

緑社のむこう

 私はユウタの、命の恩人なんだから。

 それがカホの口癖だった。

 確かに僕にとってカホの存在は、僕が壊れてしまわないためのブレーキみたいなものではあったけれど、それは果たして、命を救う、になるんだろうか。

 わからない。

 わからないから僕は、カホのその口癖を否定できない。


 僕には父親がいない。

 死んじゃったのよ、と母は言う。

 死んじゃったの「し」を発音する前に、必ず母は、鼻から抜けるような息と一緒に、歪んだ笑みを浮かべる。

 だから僕は、母を信じていない。


 僕には父親であるべき人が、いる。

 母にカズキと呼ばれるその人は、僕を殴る。蹴るし、投げ飛ばしたりもする。

 ふざけるな、ふざけるな、と濁った声で呟きながら。

 だから僕は、なるべく家には寄りつかない。


 僕の家は、丘の上にある。

 南には野川という細く澄んだ川が流れていて、北には、深大寺がある。

 きつい勾配の坂を這うように境内の古路が走る、古い寺だ。

 僕はこの、深大寺が好きだ。

 境内のあちこちから湧き上がる水と、その水に支えられた深くて濃い樹々の緑が、その緑に包まれていることが、僕は、好きだ。

 カホもそうだ。

 僕もカホも家には寄り付きたくなくて、だから小学校の授業が終わると、お互いあちこち赤黒く腫れさせた身体を摩りながら、深沙堂の裏手を回った、延命観音の前にある石造りのベンチに、ふたりで丸まって座って、他愛もない話を延々と繰り返して、夜を過ごす。

 苔の青臭さと、夜と樹々の影が作り出す柔らかい闇に囲まれて、他愛もない日々の出来事を共有して、小さく笑う。

 それが、僕たちの日課だ。

 その日課が、確かに、僕を壊れさせない命綱みたいなものなのかもしれない。


 カホがその場所に姿を見せなくなったのは、中学に上がった頃だ。

 その頃僕の父親であるべき人は、カズキからナオヤに代わり、でもやはり僕は、カズキと同じようにナオヤに、殴られたし、蹴られたし、投げ飛ばされた。

 日常は何も変わらない。

 カホが姿を見せなくなっても、延命観音の前で丸く縮こまる日課も、続ける。

 そこにいないカホに、まるでそこにカホがいるかのように、僕はその日に起きた、他愛のないことを話す。

 やめられない。

 壊れてしまわないために。


 その男に会ったのは、中学を卒業してしばらく経った頃だ。

 ちょうど僕の父親であるべきひとが、ナオヤからタカヒロに変わった頃、でもある。

 タカヒロは、カズキやナオヤのように、僕を殴らない。カズキやナオヤのように、母と僕と一緒にこの家には住まない。カズキやナオヤと違って、いつも、スーツを着ている。

 僕は高校に通っていない。

 義務教育じゃないんだからと、母は僕を、高校に通わせない。

 その代わりに、母は僕を、タカヒロが経営すると言う、新宿のバーで働かせる。

 僕と同い年くらいの男ばかりが、カウンターに立つ店だ。

 客は殆どが、カズキやナオヤと違ってきちんとした身なりの、カズキやナオヤよりもかなり年上の、男たちだ。

 夜、僕は店にいる。

 あるいは、客の男たちに連れられて、ホテルにいる。

 夜通し、ずっと。

 だから自ずと夜にこなされていた僕の日課は、店から帰る帰路の、朝方にこなされるようになる。

 男にあったのは、その頃だ。


 その日、延命観音の前のベンチで日課をこなす僕の横に、男は突然、朝靄から湧いて出るように現れて、腰掛けた。

 僅かに波打つ黒い長髪。少し色のついた丸眼鏡。黒いシャツと、黒いズボン。顔の肌の白だけが、やけに浮いて見える、男。

 突然のことにびくつく僕を気遣うように、男は笑む。

 その怪しい風貌には似合わない、柔らかく、穏やかな笑みだ。なぜか僅かに、悲しみを携えた笑み、でもある。

 男は言う。

 おまえたちには、申し訳ないと思っている。これは本来、私の因果なのだ。氏康がここまで、後生まで、執着するとは思っていなかった。

 男の声は、低く、ぞっとするほど澄んだ響きで、僕の耳にするりと入ってくる。

 言っていることの意味は、わからない。

 ただ、男の言うおまえたちの「たち」だけが、耳の奥の方で溶けずに引っかかっている。

 意味が、わからないだろう?

 見透かすように、男が言う。

 僕は怖くなって、俯いて、何も答えられない。

 カホが、おまえに会いたがっている。

 次に男が発した言葉に、僕はびくりと身体を震わす。引っかかっていたおまえたちの「たち」が、耳の奥でじゅわりと溶けて、頭の中で輪郭を象る。男を見る。男も僕を、見据える。

 私はカホに大きな貸しがあるから、カホの願いは出来るだけ、叶えてやりたい。でもそれは、きっとおまえを不幸にする。それでもおまえは、カホに会いたいか?

 僕に迷いはない。頷く。強く。

 男が僕の眉間に、人差し指を翳す。

 意識が、飛ぶ。


 夢を見た。

 たぶん夢、だと思う。

 古風な座敷の中央に布団が敷かれていて、僕はそこに横たわっている。

 脇腹が焼けるように熱い。傷を負っている。それも相当な、絶望的な。何故かそれが、わかる。

 まなざしを、窓辺へ傾ける。

 夜だ。

 窓枠に貼られた障子の向こう側から、淡い月明かりが差し込んでいる。

 その窓の傍に、人影がある。

 女だ。

 着物を着ている。

 着物を着ている、ということが、なぜか不自然に思えない。

 大丈夫。この城は忘れ去られているのですから、北条氏の手がここにかかる事は、たぶん、ないはずです。

 言いながら、着物を着た女が振り向く。

 カホだった。

 それを認めた瞬間、頭の中になだれ込むように、さまざまな映像が、次々とフラッシュバックする。

 齢13での世継ぎ。

 川越城での敗戦。

 山内上杉家との和睦。

 古河公方との密約と、川越城の包囲網。

 北条氏康と綱成の突然の夜襲。

 そして、北武蔵から南武蔵への、敗走。

 これは記憶だ。

 これは、僕が僕である前の、記憶だ。


 僕は、僕の名は、扇谷上杉家当主、上杉朝定だった。

 カホは、きよ、と呼ばれていた。

 綱成が川越城侵攻の折に反故として通り過ぎ、忘れ去られた深大寺城の増築に携わった、番匠の娘。

 そしてその増築を命じた僕と、きよは、身分違いの、許されない恋仲だった。

 川越で敗れたのち、居城松山城ではなく、南武蔵の深大寺城に逃げ込んだのも、きよの面影を追って、なんだろう、きっと。

 僕の枕元に座り、僕の顔を覗き込み、きよは言った。

 大丈夫です。また、深沙大将にお願いしますから。わたしはあの方に、大きな貸しがありますから。だから、また、来世で。

 ああ、また、来世で。

 切れ切れに、僕は答えた。

 とはいえ心に、僅かに、しこりが残っていた。

 薄らぐ意識の中で、怨敵、北条氏康の顔が、脳裏に浮かんだ。

 それがタカヒロの顔と重なった刹那、夢が弾けた。


 延命観音の前にいた。

 横に、あの男の代わりに、カホが腰掛けていた。

 微笑んで、僕を見ていた。

 抱きしめたいという衝動が沸いた。

 それは膨らんで、膨らんで、止められなかった。

 腕を伸ばした。

 でも、僕の腕はそこにいるカホを、するりと、素通りした。

 笑んだままのカホの頬に、涙が伝った。

 わたしは、お父さんに殺されたの。借金がいっぱいあって、追い込まれて、お父さんはわたしを殺して、お母さんを殺して、自分を殺したの。

 カホの声は、幕に覆われたような、ぼやけた輪郭で響いた。

 お父さんを追い込んだのは、ホウジョウタカヒロと言う人。

 言いながら、カホの姿は薄らいでいく。

 あの人の執着を、断ち切って。

 朝靄に溶け込んでいくように、カホは消えた。


 タカヒロはいつも、深夜の1時をすぎる頃、店に顔を出す習慣があった。

 僕はタカヒロを待った。

 カウンターの下に、店の中では一番大きい、調理用のナイフを忍ばせていた。

 いつも通り、タカヒロは店を訪れた。

 常連客の何人かに声をかけて、笑みをこぼしながら、カウンター奥の事務室に入っていった。

 ナイフを手に取り、その後を追った。

 狭い事務室のデスクに腰掛けた、タカヒロの背中があった。僕はそこに、ナイフを突き立てた。

 抜いて、もう一度、さらに抜いて、もう一度。

 繰り返した。

 何度も。

 タカヒロの声が、僕に届いた。

 でもそれは分厚いガラスの向こうで放たれたように、くぐもって、言葉を象らないただの音、だった。

 タカヒロが振り向いた。

 手に、黒い塊のようなものが握られていた。

 光。

 それは乾いた短い音とともに、星のように瞬いて、僕の視界は闇に包まれた。


 深沙堂。

 朝靄に覆われたその社の前に、僕は立っている。

 僕は男と、深沙大将と、向き合っている。

 男は、口を開く。

 おまえが果てた後、きよの父は、腕のたつ職人を集めていた氏康に、小田原に呼ばれた。きよのおまえへの気持ちを知っていたきよの父は、それを断り、一族もろとも命を絶たれた。

 その声は、やはり、恐ろしいほどに澄んでいる。

 きよに、きよはカホでもあり、その前の、ねね、でもあるのだが、とにかくその魂に、私は大きな貸しがあった。だからきよの無念に報いようと、氏康に呪いをかけた。体が痺れ、ろれつはまわらず、ただ視界と意識だけがくっきりとしていて、自分の体が朽ちていくのを待つ事しかできない、という類のものだ。氏康の執着は強いおまえへの念を発していたきよの魂に取り憑いて、私が今生でカホとおまえを再び引き合わせたことを妬み、カホと、そして、おまえを苦しめたのだ。

 男の背後の、社の戸が開く。

 開かれた戸の向こうは、淡い虹色の光で満たされている。

 借りって、カホの貸しって、何?

 僕が尋ねると、男が笑む。

 それはまた、来世で。

 言って、男は戸の向こうの光の中に消える。

 その時、誰かが僕の背から、僕を追い抜く。

 その誰かは、社の光の前で振り返る。

 カホだ。

 また、来世で。

 カホも、光の中へ消えていく。

 僕も後を追う。

 戸の光の前に立ったところで、振り返る。

 慣れ親しんだ深大寺の参道を、緑が包んでいる。

 僕が、カホが、縋った濃い緑に向けて、僕は呟く。


 また、来世で。

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