第参の告白・残夢

 まさに、夢幻泡影。夢人でしかなかった貴方が、突如として私の目の前に現れたとなると、私のこの想いは、内に秘めたままでいることが難しくなったように思います。

期待はずれの明日が来るのを待ちながら、貴方という夢に溺れていた毎日。

その、崩壊。

今はまだ、なんの問題もありません。いつまで、貴方の前で自我を保っていられるか。いつまで、自分を制御していられるか。抱える問題が増えてしまいました。これも全て、全て貴方のせいです。




 鳥が囀り、空が白み、朝焼けが顔を出す時間。

鏡を見れば、やつれた双眸、不揃いな前髪にぼさぼさで管理の届いていない髪をした不純な男がいました。


眠ることができなかった。


その一言に尽きます。

夜の帳が下りた頃、いつもなら自然と落ちてくる瞼はまだその気配がなく、今夜は眠ることができないと悟った私は夜が明けるまでずっと、庭に出て拱手をしていましたが、寒い冬の空です。星の一つや二つ、天に輝いていることもあるでしょう。私は、星を見るつもりでこのように真夜中のただ寒い庭へ出たのだと自分に言い聞かせ、もはやその輝きに縋る思いで空を見上げました。

頭上いっぱいに広がる空の雲容烟態の様を見ていると、なんだか今私が悩んでいることなんてとても小さなことでしかなくて、そんなことにうじうじと頭を働かせている自分が急に馬鹿らしく思えてきてしょうがなく、たった一人の庭で目に涙を浮かべ、なんの悲しいこともないのに泣きじゃくりました。

涙も乾いた頃には朝日を受けて的皪と輝く植物たちが私を取り囲んでいて、なんだか目の赤らみを見られているようで恥ずかしくて仕方ありませんでした。

このままでは貴方に顔向けができない。どれほど帽子を深く被ろうと、貴方はきっと見透かすことでしょう。それでももう朝です。朝が来てしまいました。解決策はもう、帽子しかないように思います。

私は帽子を顔が見えなくなるほど深く被り、昨日の川へ向かいました。


貴方はもう、そこにいました。まだ夜が明けたばかりの、人なんて起きてなどいない時間。それなのに貴方は川辺に凛と立っていました。

貴方は、自分の背後からのこのことやって来た私を見つけると、「早いな」と、ただ一言言いました。

「ご用件は」

「なに、話がしたいだけさ」

左手の人差し指に自分の髪を絡め、右手でついている杖を肩に担ぐ姿は病人のようには見えず、そこらで集って騒ぐ若い男たちとなんら変わらぬように思えました。

「杖をそのようにしては体を支えられないのではないですか」

「こんなもんは飾りだ。ついていれば大抵の人間は気を遣うから便利なのさ」

貴方もお人が悪い。口には出しませんでしたが、貴方も清廉潔白ではなかったのだと、どこか安堵する思いでした。

「あんた、なぜ自殺を止めた」

貴方からの思いがけない問いに、へっなんていう情けない声が漏れてしまい、なんとか誤魔化そうと私は言葉を紡ごうとしました。しかし、ここで問題。

貴方に、本当のことを言うわけにはいかないのです。

毎晩毎晩貴方を夢に見て、恋に落ち、偶然出会って見惚れ、そこでただならぬ状況に声をかけました、などとは絶対に。

「あんた、ひょっとして知り合いか」

「どう言うことでございますか」

「いや、知り合いか物好きでもない限り他人の自殺なんぞ止めんだろうと思ってな」

「他人でございます。現に私は、貴方様のことをなに一つとして存じ上げておりません。それは貴方様も同じでございましょう」

「そうだな。俺はあんたのことをなにも知らん。だがそれも今日までだ」

「と、言いますと」

「友にならんか。俺とあんた」

私はきっとこの一言を聞いた時、目を思い切り見開いたことでしょう。

幸福すぎる幸福。友人。友。私と、貴方が。

「昨日、ここで会ったのもなにかの縁だ。それを無駄にするのは良くねぇ」

「よろしいのですか。お互い、何者かも知れませんのに」

「だからこそだろう」

そんな夢にまで見たような貴方との関係がこんなにいとも容易く、とんとん拍子で進んでいくことに吃驚してしまった私は、つい「幸福すぎる幸福にございます」と、頭の中と口から出る言葉が一致してしまいました。

「俺と友になっただけだというのに大袈裟だな」

貴方は笑う。目の前の貴方が、私の発言をその耳で聞き、反応し、笑いを浮かべたと思うと嬉しくてしょうがなく、胸が高鳴る思いでした。

「それが嬉しいのです」

私は自然と口角が上がり、頬が緩みました。

それは、自分でも今までの生涯で一番の笑顔なんじゃないかしらと思うほどに。

そんな小さな、それでいて大きすぎるほどの幸せを噛み締めているうちに、目の前の貴方は背を丸め、大きく咳き込みました。

咄嗟にその痩せ細った背中をさするも、貴方の口からは紅くてどす黒いものが溢れ出し、驚いてしまった私は貴方の背から手を離し、動けなくなってしまいました。そんな情けない私を見て、貴方ははっと吐き捨てるように笑い、背中を大きく上下させながら呼吸をして、

「これでもれっきとした病人なのさ。病院を抜け出して来ちまったからな。無理をしすぎたようだ」

と言ったものだから私はなんだか悲しくなってしまって、「入院されていらしたのですか」と聞いてしまいました。

私に会うためだけに病院を抜け出し、今ここで吐血させてしまったことが心から申し訳なく、どうお詫びしたらよいか分からずに混乱してしまい、泣きそうになりました。

「そうさ。退院の目処もついてねぇし、これからも病院生活だ」

そう焦点の合っていない目をしながら笑う貴方がとても悲しく見えてしょうがなく、「病院までお送りします」なんて大それたことを言ってしまい、後で考えれば恥ずかしくて赤面する思いでした。


少しふらついている貴方を支えながら歩いていると、淡く優しい香りが鼻をかすめ、ふと横を見ると真っ白な山茶花が咲いていました。その花弁の何一つ濁りのない白は、すぐにどんな色にでも染まり、薄汚れてしまいます。

まるで貴方のようだと思いながら、隣で必死に呼吸する貴方を見つめました。

美しい貴方は、簡単に汚せてしまう。

貴方は骨董品だ。簡単に壊せてしまう。

この私の手でさえも。

私がこの手で壊した貴方はどんな顔をして、どんな姿を晒すのでしょうか。

歪んでいる。自分でもとっくに気づいています。

この愛は。純粋で可憐な愛の色、鮮やかな赤なんかではない、先程貴方が吐き出したどす黒い血の色です。

貴方の唇を濡らし、口元を伝う血を舐め取ることだってできる。

それが私の愛を彩るのだから。

貴方を離したくない。

この腕の中に閉じ込めていたい。

この願いが贅沢で傲慢すぎることは分かっていたけれども止めることはできませんでした。私の思考はどんどんと叶わぬ欲望を吐き出し続け、病院なんていう隔離された狭い部屋なんかではなく、私の元で療養されたらいいのに。なんていう馬鹿げた考えを巡らせながら、光が差しやっと目覚めた街に溶けるように。また新しく始まっていく一日を嘲笑うように。貴方の髪に唇を這わせました。

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栄華ノ夢は一秒間。 緋川ミカゲ @akagawamikage

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