わたしのあなた

軒下ツバメ

わたしのあなた

 大人は昔の方が良かったと不満を言ったりするけれど、はじめから明治に生まれた私には幕府がどうとか武士の魂がどうとか言われてもさっぱり分からない。

 私はどうやったって今から江戸時代に生まれ直すことは出来ないし、十五歳の私にとってそんなことはちっとも大事じゃない。

 華族女学校で華やぐ話題はファッションや殿方のことだ。

 十五歳にもなれば結婚出来るようになるので、縁談がまとまる子が増える。そのため私たちにとってはいかに自分を美しく装うかが重大な問題だった。

 十六歳には女学校を中退し結婚したり、もう相手は決まっていて卒業を待ってすぐ結婚する子が多数派になる。

 容姿の美しい者。良妻賢母と呼ばれるに相応しい振る舞いの者から卒業を待たずに結婚していくので、卒業までに縁談が決まらない者は卒業面と呼ばれる。それはとても不名誉なことだ。

 お前は誰にも選ばれない程醜いのだと遠回しに言われているようなものなのだから。

 けれど私はそれでもいいと思っていた。

 卒業面と笑われてもいい。出来るだけ長く時間が欲しかった。

 例えばそれが一ヶ月でも一週間でも一日でもいい。

 女学校にいる内はまだ許される。

 卒業してしまえば絶対に私達は結婚しなければならない。

 望んでオールドミスになることは出来ないのだ。働く道もない。そこに自分の意思は存在しない。

 今だけ。今だけだ。

 この心だけは私のものだから。


 海老茶色の袴を翻して自転車を降りる。

 私は袴も自転車も大好きだ。女学生のステータスというだけではなく、動きやすい袴や、徒歩よりもずっと速く進む自転車は、どこまででも行けそうな気持ちにさせてくれる。

 高く結った髪を風になびかせながら革靴を履いた足で力強くペダルを漕ぐと、最高だ。あれほどの爽快感は他に味わったことがない。

 自分の足で、自分の力で、自分の想像以上の世界を見る。

 空はどこまでも青く。頬を撫でる風はやわらかい。日は眩しくも私を暖かく照らす。私は世界から肯定されている。そんな錯覚をするほどの力を貰える。

「お嬢様、お帰りなさい」

 玄関の引き戸を開ける音にかぶせて、落ち着いた男性の声音が私を迎え入れた。

「ただいま春臣。わざわざ出迎えに来てくれたの?」

 いつもは玄関で出迎えてくれるわけでもないので、ついつい笑顔になってしまう。

「たまたまですよ。今日は学校はいかがでしたか?」

「お父様と同じことを言わないで。いつも通りよ」

「それはよろしゅうございました」

 表情がちっとも動かない。笑い返すくらいしてくれてもいいのにと少し不満に思ったが、いつの頃からか春臣はずっとこうだ。今更気にしても仕方ない。

 春臣は私の――有馬家に使えている家令の息子で、幼い頃から遊び相手も兼ねて私の側付きのようなことをしている。

 本来であればそれは女中がするべき仕事なのだが、幼い私が春臣がいいと駄々をこねたため、女中ではなく春臣が私の世話を焼いていた。勿論、女性でなくては問題になる場合は女中の手を借りるが、それ以外は春臣が私の担当だ。

「春臣は? 今日はどんな一日だった?」

「特に変わりありませんよ」

「もう! そんなことが聞きたいわけじゃないわ」

「ご期待に添えずすみません」

「たまには私のために話題を仕入れておこうとか考えないのかしら?」

「残念ながらそのような暇はありませんね」

 もう! と私が春臣に怒る様子を他の使用人が微笑ましそうに眺めている。まるで兄妹のような気安いやり取り。けれどそれ以上のことは絶対に許されていない。

 性別を感じさせるような振る舞いは絶対に出来ない。

 私は春臣の手に触れることすら出来ないし、春臣は私の名前を呼ばなくなった。

 春臣と私の間には四歳の年の差があって、物心がつく頃にはすでに私の隣に彼がいた。

 自分の隣に彼がいるのが私にとっては息をするくらいに当たり前で、家族のような存在だったけど、私が春臣に抱く感情は年の離れた実の兄に対するものとは明確に違っていた。

 無邪気な子供の時からすでに気付いていた、この気持ちは許されない。

 許されないことが分かっていたから私は慎重に行動した。距離を間違えないように振る舞った。何も理解していない子供のように、特別な感情など存在していないように、笑った。

 もしも私の気持ちがばれてしまえば彼から引き離されてしまう。それは絶対に嫌だった。そのためならなんだってする。

 有馬美桜、十五歳。咲かない花を守るために生きていた。


 女学校は良妻賢母をつくるための学校だ。国語や外国語。数学などの授業もあるが、家事に裁縫、手芸、礼式。習字。図画。勉学よりも実技が多い。

 この学校に在籍しているのは良家の子女だけだ。そのため皆が皆同じ話題で盛り上がることが出来るし、悩みだって共有出来る。

 良家とはいっても、その中で格差は存在しているため見えないところで派閥や暗黙の了解はあるが、皆もうそんなことは子供の頃に慣れているので滅多に問題は起きない。

 私が生まれた有馬の家は男爵家で、華族といえども天上人に比べれば普通の家柄だ。なので学校でも例外を除けば同じくらいの家柄の子と行動を共にしていた。

「美桜さん見て下さい。とっておきのお着物を着て参りましたの」

 淡い鶯色の着物を自慢するように同級生の紘子さんはくるっとその場で一回転した。その様子は本当に嬉しそうで、嫌味がない。

「素敵ですね。紘子さんの可憐さが引き立つお色。でもどうされました?」

 とっておきの着物を着てくるほどの予定はなかったはずだ。

 伯爵や子爵、裕福な家の者ならともかく、一般的な男爵家の子では日常的に高価な着物を新調することは出来ない。

「忘れてしまったの? 今日は参観人がいらっしゃる日ですよ」

 すっかり忘れていた。どうしよう。今日の私はすこぶる元気だ。

 女学校の授業は申し入れをすれば、参観することが出来る。

 私たちの父母と同世代か少し上くらいの男女が授業を参観人として見学していくのだが、その方たちは私たちの親でもなければ親戚でもなく、これから女学校に子女を預けようという父母でもない。

 分かりやすくいうならば、参観人の目的は彼ら彼女らの息子の嫁探しだ。

 探す側からすれば女学校はとても便利な場所だろう。

 在籍しているのは確実に華族の子女であるし、直接顔も見られる。

 いちいち一人一人順々に身元や容姿や人間性を精査しなくても、女学校に来さえすれば一定の水準を満たす嫁候補が集合しているのだ。

 参観人は皇族、華族、政府高官などに限られていたが、その中での需要はとても高く、ほとんどの子女がここでみそめられて結婚していった。

 私は特別容姿が優れているわけではないが、目も当てられないような不細工というわけでもない。

 授業内容ならわざと失敗したりすれば、結婚する熱意がある令嬢に隠れることが出来る。けれど万が一、たまたまその方の好みの容姿だったという理由で候補にあげられる可能性を減らすために、私は体調不良をでっちあげて度々授業を休んでいた。

 しかし参観人がいる日だけ授業を休んでいては怪しまれてしまうのでそれ以外の時でも体調が崩れた振りを私はしていた。月のものが重いのだとでもいえば定期的に休む口実になる。

 それに良家の子女というものは、往々にして病弱なものだから問題ないのだ。

 両親や春臣に心配をかけるのは申し訳なかったが、これくらいの無駄な抵抗ならきっと許してくれるだろう。

「本日は顔色もよろしいようで良かったわ。せっかくこの間は鍋島候爵がいらっしゃっていたのに、美桜さん体調を崩されていたから」

 紘子さんにそのような意図がまったくないのは分かっていたが、後ろめたい部分もあるので皮肉を言われているような気持ちになった。

「美桜さん。ちょっとよろしいかしら」

 内心焦りながら愛想笑いをしていると、涼やかな声が廊下から私を呼びつけた。

 廊下から私のいる教室を覗いているのは、艶やかな黒髪。整った顔立ち。聡明さが立ち居振る舞いからも見て取れる良家中の良家の子女。

「しず子さん。どうなさいました」

 紘子さんに断り、しず子さんの待っている教室の出入り口まで移動するが、その間に部屋中の視線を集めているのが分かる。しず子さんは同学年ながらも皆の憧れの的なのだ。

 学校中に支持者がいるというしず子さんだが、普段は男爵令嬢としか関わりがない私が唯一交流のある伯爵令嬢だ。

「あら、今日はお元気なのね」

「幸運なことにそうなんです……」

「私は体調が優れないので医務室で休ませてもらおうと思ったのだけれど美桜さんは大丈夫そうね」

「ご足労かけてすみません。どうぞお大事になさってください」

 ありがとう。と言って立ち去ったしず子さんだが、足取りに危うい様子はない。が、それも当然である。彼女は私の仮病仲間だ。

 彼女とは医務室で度々顔を合わせることでお互いに仮病で休んでいるのが分かり、友人になった。

 しず子さんは美人だ。家格も良ければ外面も良い。

 本来であればすぐに縁談が決まり、学校を立ち去っていたはずだ。だが彼女もまた私と同じで限界まで女学校に在籍していたいのだと言った。

 周囲はしず子さんがまだお相手が決まっていないことに対して不思議そうにしていたが、釣り合いのとれるような方がいないのだと勝手に理由を作りだして納得している。

 家のものに煩く言われることはないのかと本人に聞いたことがあるが、そこは上手く立ち回っているそうだ。あくまでも本人談だが。

 私がまだ女学校にいたい理由は人に話せるようなものではないが、しず子さんは学ぶことが好きだからまだ結婚したくないらしい。

 結婚すれば女が勉強をすることは出来ない。

 女学校で国語や外国語や数学。歴史、地理、理科。それらを教養のために学ばせてはもらえるが、学校側からしてもそこに重きを置かれていない。

 そもそもが、女に学は求められていないのだ。

 しず子さんもそれはよくよく理解している。だから私も彼女もやっていることは同じだ。叶わないと分かっているからこそ少しでも長くと、悪足掻きをしている。

 理由は違えど、私と彼女は同じだ。

 他の多くの同級生とは共有出来ない悩みを抱えている。だから立場を超えて友人になった。

 私も彼女も一日一日を惜しむように過ごした。

 しず子さんは実技の授業は休んでも座学は絶対に休まない。座っているだけなら問題ないのですと微笑んで熱心に授業を受けている。

 私は彼女と机を並べる機会はこれまでなかったが、見なくてもその姿は簡単に想像出来た。医務室で休んでいる時ですら、しず子さんは持ち込んだ本を読んでいるのだ。

 彼女の熱意を思うと、女というだけで許されない。それをひどく理不尽に感じる。

 理不尽と憤れるような自由は始めから私たちにはないのに、そう思ってしまう。

 生まれてから死ぬまで私たちの人生は他人から決められている。

 子供の頃から結婚するために習いごとをして、結婚した時のための家事の腕を磨き、結婚するために女学校に通う。

 結婚すれば嫁いだ先の家のために生きる。

 親同士が決めた好きでもない方のために生きる。そして子を産み育て家を守ることに残りの人生のほとんどを費やす。

 疑問を持たずにいられればきっとそれでも幸せになれるが、私は春臣を見つけてしまった。しず子さんは学問を見つけてしまった。

 望みを持てば後は地獄だ。それは絶対に叶わない。

 女というだけで。


 女というだけで。


 桜の花が満開に咲き誇った日に、しず子さんの退学が決まった。

 あと一年あるはずの時間が彼女に与えられることはなかった。

 退学の日、彼女は学友に囲まれながら「素晴らしいお相手で羨ましい」だの「また会える日が来るのを祈っております」だのと声をかけられていた。

 最近、本当に体調が悪く学校を休みがちだったせいで私は彼女と話せていない。

 今も医務室に行くために彼女の教室の前を通りかかったから見ることが出来ただけだ。

 結婚が決まった彼女はもう医務室に来ない。これまでが嘘のように真面目に全ての授業に出席している。

 遠くから見た彼女はとても幸せそうに見えた。

 内心とどれだけかけ離れていても女は幸せを装うことが出来るのだ。

 私の番も、近い内に回ってくる。

 私はその時、一番の頬笑みを浮かべてみせるだろう。笑みを向けるのは結婚相手にじゃない。

 私は幸せなのだと見栄を叩きつけるために、春臣に向けて笑ってみせる。

 しず子さんだけではない、私もまた縁談が決まった。相手は同じ男爵家の方だ。

 縁談が決まった日。心はとても凪いでいた。いつか来る日が今来ただけだと。

 しかし「おめでとうございます」と、縁談が決まったことを伝えた春臣に平然と言われた時だけは泣きたかった。

 春臣が私のことをどう思っているか私は知らない。知っても意味がないからだ。けれど少しでも、それが例え妹へ向けるような感情だとしても、私と離れることを寂しいと思ってほしかった。

 ずっと、ずっとずっとずっと隣にいて毎日他愛もない話をして、嬉しいことがあった日も、悲しいことがあった日も、お父様に叱られた日も、初めて自転車に乗った日も、春臣のお母様が亡くなった日も、一緒にいた。

 これからだって一緒にいたかった。

 この気持ちは一方的なものなのだと決定的に分かってしまったことが、たまらなく悲しかった。

 もしも私の生まれが華族でさえなければ、叶う望みが無くても告げることだけは出来たのかもしれない。でもそれはしず子さんが女に生まれてしまったようにどうしようもないことだ。

 私が私である以上それは出来ない。

 私が嫁いだ後も春臣は有馬家に仕え続ける。禍根を残すような軽率な真似は出来ない。

 私は春臣のことが大事だ。だから言えない。一生言わない。

 絶対に。

「美桜さん」

 一人きりで静まり返っていた医務室の扉をしず子さんが開け部屋に入って来た。

「しず子さん。どうされたのですか」

 横にはなっていたが、眠ってはいなかったのですぐに気付いて起き上がる。もう彼女が医務室に来ることはないと思っていたので素直に驚きが表に出た。

「あなた、最後なのに会いに来てくれないのだもの。薄情なのね」

「すみません」

 私は勝手に、私と彼女の同盟はもう失われていたと思っていた。

「少し疲れてしまったわ」

 そう言ってしず子さんは、私が横たわっていたベッドに腰かけた。

「さすが人気者は違いますね」

「皮肉かしら?」

「本心ですよ」

 医務室の窓から中庭が見える。

 満開だった桜はもうほとんど散っていて葉桜に程近い。雨でも降れば全ての花弁が散ってしまうだろう。

「羨ましいと、言われたわ」

「噂ではお相手は格好良い方だそうですね。それだけでなくお人柄も良いと聞きましたよ」

「そうね。私には不相応なくらい素晴らしい方だわ」

「ご不満ですか?」

「そうじゃないわ。分かっているでしょう」

 しず子さんが浮かべた笑みは、今にも儚くなってしまいそうに淡かった。

「私もっと学びたかったわ」

 彼女は決して泣いたりしない。どんな時でも凛と背筋を伸ばす美しい人だ。

「彼女たちからすれば贅沢な悩みね。けれど私もっと学びたかった。学問は面白いわ。知らないことを知ることは面白い。私の狭い世界を広げてくれるもの……。ああ、何故女はこうも不自由なんでしょう。どうして私は男に生まれなかったのでしょう。兄よりも弟よりも私の方がきっと学ぶ意欲は有り余るほどあるはずなのに。男でさえあれば、私だって」

 しず子さんは言葉を止め、悔いるように苦笑した。

「愚痴をこぼしてしまったわね。ごめんなさい」

「謝らないでください」

 滅多に聞けない彼女の本音だった。貴重だ。きっとこれから先も彼女のこんな愚痴を聞いたことがあるのは私くらいだろう。

「美桜さん、どうかお元気で」

「ええ。……しず子さんもどうかお元気で」

 きっと私の人生にここまで分かり合える女性はもう現れないだろう。

 家格の違う私たちはこの先二度と会えない可能性が高いと知っていながらも、お互いにそれを言及しなかった。

 知らない振りをして気持ちよく旅立ちを見送ろう。そう思った。

 しかし、しず子さんを見送るためにベッドから降りようとした時、床を踏みしめるはずだった私の足は、私を立ち上がらせてくれなかった。

 まるでぬかるんだ土を踏んでいるように感覚が鈍い。膝からかくんと力が抜ける。

 最近、身体のだるさは確かに感じていた。でも大したことないと思っていた。風邪のなごりくらいに思っていた。

 頬が床に触れたせいで冷たい。しず子さんが私の名前を呼ぶ声がとても遠くから聞こえたが、返事をすることは出来なかった。

 春臣は動揺してくれるかしら。そんな不謹慎なことを考えながら意識が落ちた。

 その日の夜に降った雨で桜は全て散ってしまった。


 髪を綺麗に結いあげる。目の下の隈を隠すために白粉をはたき、血色の悪さをごまかすために頬紅をさす。そうしてやっと鏡に映る自分が見慣れた姿に変わった。

 少しでも美しい姿でいたかった。今日はきっと勝負の日だから。

「お嬢様、失礼します!」

 私が了承する前に春臣は部屋に入って来た。どこか焦った様子だったが、鏡台の前に座っている私を見つけると眉間に皺を寄せる。

「どうして起き上がっているんですか! まだ体調が良くはなっていないでしょう。寝ていてください」

「大丈夫よ。心配性ね」

 あの日しず子さんの前で倒れて以来、壊れ物を扱うように春臣は私に接していたからお小言を言われるのは久しぶりだった。

 季節はもうすっかり夏で部屋の外からはうっすらと蝉時雨が聞こえる。窓から射す光は暴力的に強く眩しい。

「いいから横になってください」

「仕方ないわね」

 このままでは話が進まないので、疲れたら横になれるようにと敷きっぱなしにしていた布団に入る。けれどせっかく結った髪が乱れるのは嫌なので横になるのは勘弁してほしい。

「これでいいでしょう?」

「お嬢様」

「疲れたらちゃんと横になるわ」

 座っているくらいはまだ大丈夫なのだ。夏だというのに足にはちゃんと布団をかけて温かくしているのだから譲歩してもらいたい。

「絶対ですよ」

 念押ししながら春臣は私が手を伸ばしてもぎりぎり届かない位置に腰を下ろした。

「分かりました。……それで、春臣はどうしたの急に」

 そう私に聞かれた春臣は、なんだか変な顔をしていた。

「ええ、はい、そうです、そうでした。そのために来ました。……旦那様より、伺ったのですが、その」

「ああ聞いたのね。そうよ、結婚は取り止めになったわ」

「どうしてですか」

 なるべくなんでもない風を装った。そうしないと自分の口から言葉にすることは出来なかったから。

「私、死ぬんですって」

「…………何を」

「冗談なんかじゃないわ。私、死ぬの。あと季節を何度越せるのかも分からないそうよ」

 結婚したところで一ヶ月後には死んでいるかもしれない女をそれでも娶るような男はいない。だから自然に縁談は立ち消えた。

 罰なのだろうか、これは。仮病を繰り返し嘘をつき続けた因果応報なのだろうか。

「そんな、そんな馬鹿なことがありますか。あなたはこれから立派な方に嫁いで、不自由なく暮らし、誰からも羨まれるような人生を送るのです。そうでなくてはならない。そうでなくては、そうでなくてはなんのために、私がこれまで……」

「春臣。顔をあげて」

 俯いていた春臣が緩慢に顔をあげる。私はやっと誰にはばかることもなく、いくらでも彼と向き合える。

 目には心が乗ってしまうから、ずっとまじまじと見ることが出来なかった。

 久しぶりに目を合わすことが出来た彼はもう昔と全然違う。さっぱりした短髪は昔からだけど顔立ちにあったあどけなさが残っていない。

 仏頂面の春臣の中で唯一可愛げのあるところだったのに少し残念だ。

 死ぬのは怖い。恐ろしくて昨日も一昨日も眠れない長い夜を過ごした。それでも今、そのおかげで春臣と一緒にいられる。

 私はそれが嬉しい。

 たった一つのことすら自分では選べない人生だった。けれど命と引き換えにすることでやっと私は一つ手に入れることが出来る。

「ねえ、春臣。あなたの手に触れてもいい?」

「……どうぞ」

 私の手が届くところまで春臣は少し距離を詰めて、手を差し出した。

「手、荒れてるわね。痛くはない?」

「これくらい普通ですよ」

 無骨な手だった。大きな手だった。もう触れられないはずの手だった。私よりも体温が高いのか触れた私の手にも熱が伝わる。

「春臣」

「はい」

「春臣」

「……はい」

「すきよ」

 言葉と共に私の目から大粒の涙がこぼれた。

 私はしず子さんのように恰好良くいられなかった。

 絶対に言わないはずの言葉だった。絶対に見せないはずの涙だった。

 泣かないためにも化粧をしたはずなのに、我慢出来なかった。

 ――春臣が好き。

 嘘がつけないところが好き。子供や女性に優しいところが好き。仕事が丁寧なところが好き。私が自転車で怪我をした時にいつもの無表情を崩して全速力で駆けつけてくれたところが好き。癖字を気にしているところが好き。夕餉に好物がある日は少し嬉しそうにしているところが好き。私が間違ったことをした時にはきちんと叱ってくれるところが好き。子供の頃から歩く速度を私に合わせてくれていたところが好き。

 どんな時も私とずっと一緒にいてくれた、あなたのことが好き。

 春臣のお母様が亡くなった日、泣くのを我慢していたあなたを抱きしめたかった。でもそれは出来ないから、一日でも長く私に出来る全てを尽くしてあなたと一緒にいると決めた。

 一日でも長く、あなたの側で生きたかった。誰よりもあなたが大切だった。

 あいしているの。

「春臣。ねえ春臣。恋人になって、なんて言わないわ。だってあなた私と一緒に死んではくれないでしょう?」

「……本当はそんなこと望んでいないくせにひどいことを言いますね」

 春臣の指摘は正解だったけれど、私の言葉には一匙分だけ本気が混ざっていた。

 彼の全てが欲しい。

 心も、身体も、命も私のものにしたい。

 際限がないな。と思った。本当だったら嫁いでいく身であったのに、こんな欲が出るなんて想像もしていなかった。

 彼が欲しい。共に生きたい。生きたい。たまらなく生きたくなった。

 やっとあなたと一緒にいられるのに、遠くない日にあなたを残して私は死んでしまう。この人を置いて逝きたくない。生きたい。けれど、あなたと離れて生き続けるはずだった現実を思えば、私は死すら堪えてみせる。

「ごめんなさい……。一緒に死んでくれなくていいから、その代わりに一つだけ我儘を聞いてくれる?」

「いいですよ」

 即答だった。無茶なことを言われる可能性だってあるのだからもう少し悩んだ方がいいと思う。

「本当?」

「なんだって叶えて差し上げます」

 大きく出たわねと茶化すのは止めてあげた。私も緊張していたので軽口をたたくことは出来なかったのだ。

 勇気を振り絞るために、触れていた春臣の大きな手を今私が出せる精一杯の強さで握る。

「あなたを私にちょうだい」

 春臣が息を呑む音が、聞こえた。

「いつか恋人をつくってもいい、結婚したっていい。でも、私が息を引き取るその日まで、あなたの時間を私にちょうだい」

 死の間際だとしてもあなたが私の手を取ってくれていたなら、きっと私は大丈夫。それだけで残りの時間を生きられるだろう。

 両手で春臣が私の手を強く握った。痛いくらいに強い力だった。

「美桜。あなたが産まれたその日から、私はあなたのものです」


 有馬美桜。十六歳。命の期限を知ることで、全てを燃やすように恋をした。

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