【5】

 ぎゅ、と足元の草むらを踏みしめる。使い古しの革靴の中はすでにじっとりと湿っていた。もう随分前からいくつも穴が開いているのだ。けれど、頬にかかる雨はさほど冷たくない。すぐに戻ればひどく身体が冷えることはないだろう。

 振り返ると、遠く村が見える。中にいると大きく感じたものだが、こうして眺めてみると、灰色の空の下いかにも頼りない。まるで鼠の家族が身を潜めている巣穴のようだった。 

 村の中央には麦畑。数刻前に見た時には小穂が目立ち始め、花もちらほらと咲いていた。この時期の雨は麦にとって芳しくないのだけど、収穫はだいじょうぶだろうか――そんな考えがよぎり、ノッドは頭を振った。そんなことより、今は自分の心配をしなければ。

 前方へ顔を向ける。森はすぐそこまで迫っていた。

 切り立った崖。それがひと目の印象だった。

 荒れた原っぱに、何の前触れもなく屹立する壁。うねりながら木々が天に伸び、それらが乱暴に編んだ毛織物のように絡まり合って、どこまでも巨大に、どす黒く広がっていた。

 ごくり、唾を呑み込む。

 なぜ、こんなことをしているのか。自分にも分からなかった。

 ノアルに会いたい――たしかにそう思ったし、願った。けれど、それは願ってはならないことだ。すでにノアルは村からはじき出されているのだ。村の決定の下で。それを追いかけること自体、村の意志に逆らう行為と見做されてもおかしくはない。

 いや、きっとそうだ。

 あらぬ容疑を掛けられた時の記憶がよぎる。ちょっと体つきがふっくらしているというだけで、盗み食いの疑いを持たれた、あの日。

 冷たい視線。厳しい追及。けっきょくは証拠がなく(もちろんそんなものはあるはずがない)、処罰されずに済んだ。けれど集会でその決議が下るまで、彼は村の外れの小屋に十日も軟禁された。

 今度は、濡れ衣ではない。彼は自分の意志でノアルに会おうとしている。露見すれば、ひどい目に遭うのは間違いない。最悪、村を追い出されるかもしれない。

 たった七日――ノアルと過ごしたのは、たった七日だ。ノッドが無実の判決を受けるまでにかかった時間よりも短い。情が移ったにしても、村の決定を無視してまで会いにいくなんて、心底馬鹿げている。

 だが。

 ここまで来てしまった。

 時間はない。行くか戻るか、一刻も早く決断しなければならない。

 と、背後で何かが動く気配がした。音からして、おそらく野兎か鼠の類だろう。けれど、ノッドは思わず森の中へ駆け込んでいた。

 息を潜めて、背後を窺う。雨にけぶる草っ原には何者の影もありはしなかった。ほっと安堵の息をついたのもつかの間、自分がいる場所に気づいた少年は後悔に顔をゆがめた。

 生い茂る葉に遮られ雨は降りかからなくなったものの、森の中はあまりにも暗く、見通しが悪かった。鼻を突くべったりとした濃緑の匂い。じっとりと湿った空気が重い。

 泣きたくなった。なぜ、こんなことになってしまったのだろう。絶対にもう戻った方がいい。

 そう思う一方、村に戻るのにも躊躇があった。もしかして、村を抜けてきたことがばれてしまっているんじゃ? それどころか、この森へ向かっているところを目撃されてしまっているのでは?

 冷たい大人たちの視線が思い起こされる。村の外で生きていくことがいかに難しいか、村のどんな小さな子どもでも理解している。

 頭の中が真っ白になった。泣くこともできず、ノッドはただただ立ち尽くした。

 どれだけ時間が経ったのかは分からない。身体は冷え、つま先の感覚はとうになくなっていた。

 がさり、と音がした。

 心臓が大きく鼓動を打つ。耳から雨の音が消える。

 木々の陰に少女がひとり、浮かび上がるように立っていた。 

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リトルウィッチ・ガーデン 君野 新汰 @tabanga

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