自殺許可証未発行

佐伯僚佑

第1話 自殺許可証未発行

 ワインレッドのドレスを身に纏った老婆が、深紅の薔薇に囲まれて棺の中でピースサインをしている。


「いきますよ。はい、チーズ」


 声に合わせてデジタル一眼レフカメラのシャッターを続けざまに三回切った。老婆はシャッターのたびに手つきをかえ、最後は気取ったポーズを決めて挑発的に笑っていた。


 いい表情をしている。これほど生き生きと棺に収まる人も珍しい。


「どうだい、撮れたかい」

「ばっちりです」

「見せてみろ」


 老婆は棺から這い出てカメラの画面を覗き込んだ。僕は撮った写真を再生してカメラごと渡す。操作方法を教えるまでもなく、今日撮影したデータをじっくり再生してまわっていた。


「いいねえ。この写真、こいつを遺影にする」


 カメラを返されると、そこにはドレス姿で立ち、顔を半分仮面で隠した彼女が写っていた。


「これでいいんですか。顔、隠れていますよ」

「それが粋なんだろ。左右に似たり寄ったりの遺影が並ぶんだ。顔なんかより、こっちの方がよっぽど私らしさが伝わるってもんさ」

「そいつはごもっともです」


 彼女はケケケと笑った。


 彼女のオーダーは、できるだけ格好良く死ぬこと、だった。死ぬ直前までモデルばりにキメた写真を撮影し、その勢いのまま潔く今生に別れを告げることを望んだ。


「昔から、ままごとみたいに大勢に見送られる葬式が嫌いだったんだよ。娘も息子も、私に似て我が強くっていけない。この歳になっても親子喧嘩の最中さ。最期だけ仲直りというのは、私は気に入らないね。喧嘩してきた親子なんだ。死んでもいがみ合ってやるってもんよ」


 自分に似ていると言ったし、意地を張っている自覚はあるようだ。きっと、喧嘩と言いつつ、憎しみ合っているわけではないのだろう。喧嘩には喧嘩のコミュニケーションがある。似た者同士なら、もしかしたら理解者なのかもしれない。


「佐野さん、何度も聞くが、後始末は頼んでいいんだよね」

「ええ、ええ。お客様に後顧の憂い無く旅立っていただくのも我々の使命ですから」

「調子のいいことを言いやがる。あと三十歳若ければ抱いてやったところだ」

「それは光栄です。今からでも、お相手しましょうか」


 俺の冗談返しに、彼女は大笑いした。


「あんたみたいな道化に見送ってもらえるなんて、私の最期も悪くない」


 彼女はそう言って、テーブルの上の錠剤を口に放り込んだ。次いでコップの水で流し込む。


 写真のように挑発的に笑った。


 次いで、無針式の注射器を手に取り、腕に押し付けてトリガーを引いた。プシュッと吹き出す音がした後、彼女は腕をプラプラ動かした。


「思ったより痛くないんだね。最近の技術はたいしたもんだ。最期まで学びってのはあるもんだね」


 薔薇の中に身を横たえ、目を閉じた。


「なんで薔薇か、言ったっけ」

「いえ。聞いていません」

「私の旧姓はキバラっていうんだ。バラちゃんってのが子供の頃のあだ名でね。ま、可愛くて棘があるあたり、私にぴったりだろ。結婚して苗字が変わってからはそう呼ばれることもなくなったが、じいさんも死んだしね。旧姓に戻っても……いい……」


 言葉は途中で終わった。注射した薬に含まれる即効性の麻酔薬のせいだ。そして、経口で服用した錠剤に含まれている毒が速やかに、苦しむことなく命を終わらせる。


 ご臨終だ。


「ご苦労様でした。よい眠りを」


 俺は彼女に笑顔で一礼した。






 遺骨を乗せたまま、事務所の駐車場に社用車を停めた。雑居ビルの一階に俺の職場はある。窓には「津久井クロージングコンサル 理想の最期をお手伝い」と、派手な色とポップなフォントで宣伝文句が並んでいる。


「ただいま戻りました」

「おかえり。問題なかったか」


 俺の上司であり社長、津久井みこと。長身をパンツスーツに包み、ショートカットに高いヒール。今日もスタイル抜群で、活動的な女性の代表的サンプルのごとく、足を組んでデスクに座っている。


「全く。面白くて礼儀正しい人でしたし、楽しい現場でしたよ」


 津久井はファイルをパラパラと捲った。


「ひっそりと逝きたいという依頼は多いが、ひっそりと、でも写真撮影しながら死にたいという依頼は珍しいな。打ち合わせを見ていても偏屈者だとはっきりわかったぞ」

「ひねくれ者ではありましたが、無礼ではありませんでした。気前も良かったですしね」


 あの子供たちに遺産を遺すくらいなら自分のために使う、と息巻いて、高い死に装束をオーダーメイドして自分と一緒に火葬した。刹那的にもほどがある。死に行く者だからこそ、そんなお金の使い方ができる。


「チップも弾んでもらえました」


 親指と人差し指で輪を作ると、津久井が目の色を変えた。


「あ、ずるい!非課税じゃないか。言え、いくら貰った。所得に含めてやるから来年の住民税で持っていかれろ」

「ほっほっほ」


 そのとき電話が鳴った。俺はまだ鞄を下ろそうとしていたので、津久井が明るい声で出た。


「お電話ありがとうございます。津久井クロージングコンサルでございます」

「くたばれ、死の商人!」


 電話口から一言の罵倒が流れ、すぐにツーツーと空しい音となった。


 津久井と俺は肩を竦め、にやりと笑い、大仰な身振りで嘆いた。ひとしきり遊んでから、俺は抽斗の書類を引っ張り出す。


「それじゃ、裁判所行ってきます。相続手続きの代行に」

「行ってらっしゃい」


 俺たちの仕事はクロージングコンサルタント。別名、自殺コーディネーター。蔑称は死の商人。


 経営状態はすこぶる良好。おかげでいい物件を借りられている。






日本皇国憲法第二十五条一項

 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。


日本皇国憲法第二十六条一項

 すべて国民は、自己の生殺与奪を決定する権利を有し、その決定を尊重されなければならない。


 第二次世界大戦終結後、日本はGHQによって体制を変革させられた。


 だが、日本を作り変えるとしても安定してもらわなければいつまでも紛争の火種を抱え、最悪、テロリストの根城となりかねない。そこでGHQは、国民感情の拠り所とするために、天皇の存在を国家の象徴として残す戦略を取った。結果から言ってそれは成功した。


 正式な国名は日本皇国と改められ、日本皇国憲法が新たに制定された。それは国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を掲げた、戦後間もない世界では画期的なものであった。


 国民には広く受け入れられた。皇国という国名は天皇の存在を前提としていることから日本国民の精神性と合致したためだ。特に好意的に受け入れられたのは、日本皇国憲法第二十五条、通称、生存権と対をなす、第二十六条、通称、死亡権と呼ばれる条文である。生きることを保証する生存権に対し、自らの意思で死ぬことを認めたのが死亡権だ。生殺与奪権と呼ばれることもあるその法は、武士の切腹を美徳とする日本男子に歓迎された。


 当時の世界には明確に死亡権を認めた国は無く、その点でも画期的だった。GHQが持っていたキリスト教的価値観とそぐわない面はあるものの、日本皇国を宗教的に支配するつもりはなかったために認められたと言われている。かくして歴史的にも珍しい、生きることを保証し、自分で死に方を決められる国が生まれた。


 以後、日本皇国はアメリカ合衆国の支援を受け、世界が目を見張る速度で復興と経済成長を成し遂げていくこととなる。その過程で、理想の死に様を請け負う奇妙な職業が生まれた。


 彼らをクロージングコンサルタントと呼ぶ。






 遺骨を遺族に届け、相続手続きを代行した俺は、そのまま直帰することにした。


 遺族からはブーブーと文句を言われた。勝手に相続手続きを進められたことによる不満はわからないでもないが、こちらは裁判所にも認められた正規の手続きを取っている。訴えられることはない。慣れた笑顔で聞き流してきた。しかし、遺骨と遺影を引き渡すと、娘さんは大粒の涙を零した。やはり、喧嘩していても憎んでいるわけではなかったのだ。


 意地を張らなければよかった、などと娘さんが思う必要はない。死期を今と定めたということは、老婆は和解を望んでいなかったのだ。個人的には、最初から仲違いしていると感じていなかったのだと思う。好きなように最期を決めただけだ。


 そんなことを言うと、娘さんは声を出せず、何度も頷いていた。やはり、彼女らはわかり合っている。


 きっと、格好つけたかったのだ。弱って動けなくなる自分や、死ぬ前の、過剰に気取ったり、ひょっとしたら取り乱したりする自分を我が子に見せるのが恥ずかしかったのだと思う。


 死に方を決めることは、最後のメッセージを遺族に遺す。少なくとも、この世に未練を残した非業の死ではないと伝えることができる。


 最寄りの駅から歩いていると、軽く雨が降ってきた。傘は持っていないが、家まではすぐだ。小走りで夜道を駆ける。


 息が上がると、肺の痛みで自分の老いを感じると同時に、生きていることを実感する。ひろかが死んだ後も、俺はこうして生きている。段々と衰えていく体を引き摺って、毎日起床し、出社し、上司と冗談を飛ばしながら、ひろかのいない嘘みたいな世界を走っている。


 自宅に着くと、軒先で息を整えた。雨は今にも上がりそうで、屋根の下にいると雨粒の感触はない。鞄から煙草を取り出して火を点けた。半透明な煙を吐き出して、ようやく一息つく。


 世界は禁煙の流れで動いている。害があることは昔からわかっていたことだが、これほどまで露骨に嫌煙されるとは思わなかった。死亡権が認められている日本では、喫煙も、広義の、自分の死に方を決める行為であるとして咎められていない。ただし、副流煙による周囲への害に関しては別で、喫煙所はどんどん減っている。自宅の庭は貴重な場所なのだ。


 仕事終わりに一服するこの時間が、何よりの安らぎだと言っていい。


 今日の晩飯はどうしようか。キャベツと豚肉があるから野菜炒めにするか。運動部に所属する美咲のことを考えると、もう少しタンパク質を入れてあげたい。豆腐が冷蔵庫に入っていた。晩飯に味噌汁があって悪いこともないだろう。


 なんとなくレシピが決まったとき、自転車のブレーキ音が聞こえた。


 そのまま煙草を咥えていると、セーラー服姿の美咲が現れた。


「おかえり」


 美咲は一度舌打ちし、ぼそぼそと言った。


「ただいま」


 美咲は煙草の匂いを嫌っている。家の中では吸わないことにしているが、それでも俺の口臭は匂うらしい。


 いつか禁煙しないといけないと思いつつ、そのときはまだ来ていない。


「臭い」

「ごめん」


 俺は携帯灰皿で火を消した。常習的に吸っているが、吸わなくても禁断症状でおかしくなるほどではない。娘の機嫌の方が遥かに大切だ。


「今日は何人殺したの」

「……一人。殺したんじゃないよ。最期を迎える手伝いをしたんだ」

「ふうん」


 軽蔑の視線が刺さる。その言い訳は聞き飽きた、と言われることもなくなった。


「ご飯、作るよ。今日は俺の当番だからな」


 俺が言い終わるより早く、美咲は家の中に入って荒々しく戸を閉めた。


 心の底から溜息を吐き出して、頭を掻いた。仕方ない、仕方ないと呟いて煙草とライターをポケットの中で弄ぶ。






「社長、聞いてくださいよ」

「どうした、どうした」


 俺は椅子に座ったままキャスターを転がして、椅子ごと津久井の席に近寄った。


「娘が反抗期なんです」

「ああ、娘さん、高校生だったか。早いもんだな」

「本当に成長が早いです。それでね、ここんとこ、私の仕事を軽蔑しているんですよ」

「死の商人、てか」


 津久井はにやりと笑った。普段から言われ慣れている言葉だが、身内、それも娘からの言葉は胸に刺さる。


「別に、お天道様に顔向けできないことはしていないんだがな」

「そうなんですけどね。どういうわけか西洋かぶれてきたんですよ」


 欧米で死亡権は認められていない。アジアやアフリカでは憲法に盛り込んだ国がいくつかあるが、キリスト教が根強いエリアでは全く賛同を得られない。


 キリスト教の教義いわく、命は神が与えたものだから、自分の意志で終わらせていいものではないのだとか。俺なんかは、命は親が与えたもので、貰った以上は自分の好きにすべきと思うのだが。


 グローバル社会となり、日本と欧米を比較する議論は数限りなく耳に入る。当然、死亡権反対派から、日本人は異常だと批判する声も多い。若い年代には、それらに影響されて死亡権の撤廃を求める層もいるそうだ。そういった声が数年に一度、ブームのように大きくなる。


「でも、死亡権が無くなったら、私たちは仕事を失う。娘さんがご飯を食べられているのも、学校に通えているのも、金銭を気にせず部活に打ち込めるのも、佐野が稼いでいるからじゃないか」

「本人もわかっているんですよ。それが余計に恨めしいんだと思います。自分が汚れているように感じるんじゃないですかね」

「お金に貴賤はないんだがな」

「大人の論理なのでしょうか」


 安楽死制度をとっている国と同様、日本皇国にも死亡権を行使する条件がある。そのうちの一つが、借金がないこと。借りるだけ借りて逃げる、という手段を取らせないためだ。また、死亡権を行使した場合、生命保険金は払われない。これも、金銭目的の自殺を防ぐため。他にも、役所で悩み相談や生活保護などのセーフティネットについて説明を受け、その上でなお、死を選んだ人にのみ自殺許可証が発行される。


 つまり、金銭的に余裕があり、死なない選択肢を選ぶことができる人間にのみ、死を選ぶ権利が行使できる。生存権が保証されている以上、この国で野垂れ死ぬことはない。充分に人道的である。


 そもそも、自殺が悪いことだというのなら、それを罪として法に明記すべきだ。諸外国だって法で禁じていないのだから、実質、合法だと認めているに等しい。俺たちを非難する前に、自国の立法機関を非難した方がいい。その後で、ちゃんと勉強して出直してこいと言いたい。


 自分で考える分には迷いなく論理が立つのだが、美咲を納得させることはできない。外国人どころか、自分の娘さえ納得させられないなんて、親として不甲斐ない。


 人の死を食い物にしている。あまつさえ、人の死を積極的に生み出している。クロージングコンサルタントがいなければ、死亡権がなければ、人はもっと生きるための努力をするのだと、美咲は実に冷静に、ダイニングテーブルを挟んで俺に言った。


「子供には、親の職業なんて気にせずのびのび育ってほしい、というのが私の気持ちだよ」

「ですよね」


 津久井は苦笑を、俺は溜息を漏らした。


 俺がここに勤め始めてから約十年。社員数の増減はあれど、津久井とは長い付き合いになった。俺がクロージングコンサルタントになった理由も知っている。


 俺がそれまでのメーカー営業を辞めてクロージングコンサルタントになったきっかけは、妻の佐野ひろかの死だった。交通事故で、ある日突然この世を去った。病院に駆けつけたときには冷たくなっていて、遅れて到着した、当時小学生の美咲と共に、呆然と涙を流してリノリウムの床に座り込んだことを覚えている。


 人の死について考えが変わった。


 それまでは、なぜ死亡権が存在するのか、真面目に考えたことがなかった。歳を取れば自然と考え始めるものだと気楽に考えていたが、現実は違った。死はすぐそこにあり、人間の意志など関係なく押し流していく濁流、それが死なのだ。


 ならばせめて、遺す者との別れを済ませた上で、その濁流に飛び込む時を自分で決められたら良い。ひろかが俺たちに何を望むのか、俺は一生知ることができない。せめて言葉の一つでもあれば、俺はそれを街灯にして、天国に胸を張って生きていけたのに。


 突然の死は悲しすぎる。逝く者も、遺される者も、悲しみしか残らない。そんな風に死ぬことが仕方のないことだと、俺には諦められなかった。


 無論、交通事故のような突然死に対して、クロージングコンサルタントは無力だ。だが、そうではない誰かに、望んだ形の最期を与えられたなら、一つでも悲しみをこの世から減らすことができるはずだと、俺はこの仕事を信じている。


 と、俺も美咲に持論を展開したが、一日でも長く生きることの価値には及ばないと一蹴された。


 美咲の言うことは一つの真理で、海外では一般的な意見だ。俺が持っている死亡権の正当性についての意見は、突然の別れが怖いから、それに怯えるよりも自分で終わらせてしまおう、とも解釈できる。逃げの考え方なのだそうだ。


 社会や現実はときに残酷で、それが救いとなることもあるのだと、十代の子供に押し付けたくはなかった。それを知るのはもっと後でいい。


 そう思って、やってきた。


「美咲ちゃんっていったか。多分、死が別の形に見えているんだろうな。お母さんが死んだことを、佐野とは別の形で受け止めたんだ」

「別の形、ですか」

「もっと強く、ポジティブにな。ま、思春期の娘にとっちゃ、父親との二人暮らしというだけでストレスフルさ。第二次性徴では親父を嫌うように、遺伝子にプログラミングされているからな。その上西洋にかぶれて生殺与奪権反対派の影響を受けているなんて、佐野も苦しいだろうが、娘さんも相当悩んでいると思うぞ」


 娘のためを思えば転職するべきなのかもしれないが、俺は俺でこの仕事にやりがいと理由を持っている。キャリアを積んだので稼ぎもいい。美咲が大学を卒業するまでは辞めるわけにいかない。


「誰でも、思春期に一度は考えるもんさ。死とは、生とは、我々はどこから来てどこへ行くのか、てな。遠からず、娘さんもわかってくれるよ」

「そうですかね。ちなみに社長は、我々はどこから来て、どこへ行くんだと思いますか」


 津久井は髪をかき上げた。香水かシャンプーの匂いがふわりと届く。


「肝要なものは目的地ではなく、理由だ」

「理由?」

「生まれた時は、親や保護者の理由で生まれ、育てられる。大人になると自分の理由で人生を決め始める。最期には自分か、自分が守るもののために、生きたり死んだりする。人生のステージで理由が変わるんだ。

 親の理由でこの世に来て、自分の理由であの世へ逝くのさ。自分で決められない、正常に理由を定められないことを不幸と呼ぶ」

「さっすが社長。本出せますよ」

「そうだろう、そうだろう。もっと褒めよ」

「いよっ、日本一」

「はっはっは」


 机に置いていた団扇で社長の髪を扇ぐ。紙吹雪でもあれば三流コメディのような演出ができたのだが、あいにく近所のピザ屋の広告しかない。


 さてさて、そろそろ予約のお客様が来る時間だ。






「どうも、いらっしゃいませ。津久井クロージングコンサルへようこそ。さ、どうぞどうぞお入りください。クロージングコンサルタントの佐野稔と申します。あ、そちらにお座りください。荷物は隣の椅子を使ってくださいね。喉、渇いていませんか。今、お茶出しますので」


 今日のお客は色白の女性だった。長い黒髪と相まって、肌の白さがより際立っている。年齢は三十歳とメールに書かれていた。人生を閉じるには若いが、稀有というほどでもない。


「柊瑞穂と申します。よろしくお願いいたします」

「こちらこそよろしくお願いします」


 社員の俺よりも礼儀正しくお辞儀して柊は座った。その所作一つ一つが繊細で、ガラス細工が動いているような印象を受ける。お互いに座って目を合わせた瞬間、ピリッとくるものがあった。


 接客業をしてもう二十年が近い。大勢の人間と会ってきた。第一印象から相手の性質を窺うことはもはや職業病であり、ライフワークでもある。


 柊の第一印象は、鋭く脆い、だった。ガラス細工でも、所々割れているような危うさが感じられる。尤も、うちのクライアントはほとんどが壊れかけなのだが。


 そして、何かが気になる。容姿が好みというわけではないのだが。


「予めメールでは伺っていますが、その内容の確認から参りましょう。希望日は来月の十四日。場所は自宅で、弊社社員の立ち合いの元。自殺方法は服薬。これで間違いありませんか」

「はい、相違ありません」


 柊は静かな目であっさりと頷いた。


 心は決まっているようだ。


「形式的な確認ですが、あなたはいつでも引き返すことができます。死ぬことを選べるように、死なないことを選べます。こちらも商売なので、途中からコンサルタント料をいただく必要はございますが、生きていたいとお思いになった際は遠慮なく言ってください。できる限りの返金をいたします」

「お気遣いありがとうございます。でも、私にはもう迷いはありません」

「それは重畳」


 俺は頷き、慣れた笑顔を向ける。何だかんだ言って、最後の最後で中止されるのが最も手続き的に面倒なのだ。その点、この客は腹が決まっている。好ましい。


 商売的なことを言うと、ぎりぎりでキャンセルされると手続きに工数がかかるし実入りも減る。そんなとき、強行するような所業はさすがにしないが、もっと早く迷いに気付いてあげられたら良かったな、とは思う。


 柊がまず指定したのは日付だった。来月、十月十四日が自殺日であること。自殺は今生で最後のイベントとなる。日程は最も重要で、基本的なことだ。


 一般的なプランを安めに用意してはいるが、死んだ後の財産を心配しても仕方ないので、大抵はオーダーメイドで計画を立てる。


「水曜日ですか。時間はどうしますか」

「時間ですか、ええっと……」

「決めておられないのなら、今は保留にしておきましょう。次回の打ち合わせで教えてください」

「わかりました」


 急いで決めさせない。これは俺が入社したときから徹底して教育されたことの一つだ。死に方を決められるのが死亡権行使の利点だが、それは一度きりしかチャンスが無い。反省を生かして次に繋げる、ということができないのだ。


 自分が決めたという実感を持ってもらうことが重要だ。面倒で他人に任せるとしても、顧客から言い出すまで待つのが基本のスタンス。後悔なく最期を迎えてもらうために。


「あの、花ですが、大丈夫ですか」


 柊からメールでもらった事前情報によると、備考欄に「花にこだわりたい」と記載されていた。クロージングコンサルタントの業務には、葬儀から納骨までも含まれる。葬儀場を飾る花の種類や供花の配置、納棺時に遺体と共に納める別れ花まで、要望があれば応える。


「もちろん、お客様のご希望をできる限り叶えさせていただきます。お聞かせ願えますか」

「葬儀の際、こちらの花を飾って欲しいのです」


 柊が鞄からA4用紙を取り出した。そこにはいくつかの花の名前と、その配置が書かれている。見覚えがあるものから、無いものまであった。後で調べておこう。花には赤いチェックがついた物と、ついていない物がある。


「それと、こちらも」


 もう一枚差し出されたメモ用紙には「フラワーショップ ランサス」という店名と住所、電話番号が書かれていた。


「これは?」

「赤いチェックがついている花は、こちらの店から取り寄せて欲しいのです」

「……なるほど?」


 花を指定されたことは多々あれど、花屋を指定されたことはない。


 頭の中で少しシミュレートする。どういった花屋かはわからないが、プロの花屋ならばこちらのオーダーをこなしてくれるだろう。イレギュラーではあるが、それくらいならばカバーできる。伊達にこの仕事を長くやっているわけではない。


「花についてはもう少しお話したいのですが、まずは御社で、この要望が通るのかお聞きしたかったのです」


 俺は得心したと言わんばかりの余裕の微笑を浮かべる。


「ご安心を。お客様のこだわりにどこまでも寄り添えるのが、大手にはない弊社の強みでございます。このくらいは我儘のうちには全然入りませんよ。ただ、先方と話してみないことには保証しかねますので、次回の打ち合わせまでにこの店に行って聞いてみます」

「ありがとうございます」


 過剰なほど礼儀正しい柊とその後もいくつかの話をして、次回までの宿題をお互いに持ち帰った。


 さてさて、早速件の花屋へ行ってみよう。






 ウェブページの情報を頼りに電車を乗り継いで行ったその店は、あにはからんや普通の花屋だった。葬儀には供花や飾りつけがつきものなので、実はクロージングコンサルタントと花屋は縁がある。店先には所狭しと色とりどりの花がディスプレイされ、丸っこい手書きの字で品種名と値段が表示されている。店の外観も、蔦を模した装飾が入口を覆い、秘密の庭園のような雰囲気を醸し出している。


 煩雑だが、それがかえって洒落ている。土が多いのに清潔感がある。店主はいいバランス感覚を持っているらしい。


「ごめんください。お電話しました、佐野と申します」


 俺が声を掛けると、レジで何かを書いていた男が顔を上げた。


「あ、どうも。『ランサス』の森嶋です」


 一見して人が良いとわかる、垂れ目のひょろっとした男だった。ただし身長はかなり高く、俺よりも頭一つ分大きい。ヒールを履いて巨大化したときの津久井よりもさらに高い。


 俺たちは冗長に名刺交換をして、事務所に入った。小さなテーブルを挟んで座り、森嶋は「依頼詳細書」と題されたテンプレート用紙を机に置いた。さらさらと流れるような文字で俺の社名を書いていく。


「葬儀への供花はもちろんしたことがありますが、クロージングコンサルタントさんからの依頼は初めてです。どういった経緯でしょうか」

「弊社への依頼人が、御社から花を調達してくれとのご希望だったものですから」

「それはまた、どうしてでしょうか」

「それは伺っていません。このお店を贔屓にしている方なのかと、私は思っていますが」


 森嶋は腕を組んだ。


「そういう方はいらっしゃいますが、どなたでしょう」

「それは、私からはお教えできません。守秘義務がありまして」


 今はまだ正式に契約もスタートしていないが、個人情報取り扱いに関しては真っ先にサインしてもらった。人の生死に関することなので、当然トップシークレットだ。


「ところで、店先に奥様を呼ばなくていいのですか」

「え……。どうして、妻がいると」


 森嶋の目が見開かれた。


 しまった、警戒させてしまったかもしれない。


「いえ、店頭のポップの文字とあなたの文字を比べると、かなり印象が違うので。あっちは丸い字で、あなたはどちらかというと直線的で、画を繋げる方のようだ。もう一人いらっしゃると思っただけです。

 そして、店頭には誰もいませんでした。事務スペースにも私たちだけ。となると、もっと奥、多分、住居スペースに人がいて、私たちの動きがわかる場所にいるから、あなたは気にせず店先を空けてきたのかな、と。字の癖から、女性のような印象を受けたものですから、一番しっくりきたのが奥様です」


 言い訳のように早口で補足した。省略しすぎてわからないことがあると、ひろかにも指摘された悪い癖だ。


 森嶋は手を膝の上に置いた。僅かに身を引いている。威圧するつもりで言ったのではないのだが。


「正解です。三か月前に結婚しました。指輪をしていないので、わからないと思っていました」

「土いじりをするなら、指輪は汚れますもんね」


 パタパタとサンダルの足音が店から聞こえてきた。俺の声が聞こえていたのかどうかわからないが、奥さんが店に出たようだ。


「話を戻しましょう。このオーダー、大丈夫ですか」


 森嶋はハッとしたように手をテーブルの上に戻した。


「ええ、菊、百合、胡蝶蘭、デンファレ、メジャーな葬儀の花ですね。一か月先ならば、量の確保も問題ありません」

「現場の飾りつけもしていただけますか」

「ええ、追加費用になりますが」


 俺は花の扱いに関しては素人だ。飾りつけのセンスは最低限以下しかない。プロを頼れるのであれば頼った方がいい。


「お見積りいただけますか。依頼人にも見ていただく必要がありまして」

「もちろん」


 森嶋は和やかな表情で条件をメモしていく。警戒は解けたようだ。


 帰り際、会釈だけをした奥さんは、浅く日焼けした、スリムで小柄な人だった。Tシャツがよく似合っている。丸い目と柔らかい笑顔で俺を送り出してくれた。


 割れかけたガラス細工のような柊と、猫の毛を撫でたような森嶋の妻。


「男って、誰かれ構わず、女を見るとまずは恋愛対象として検討するんだから、下衆よね」


 生前のひろかの言葉が蘇った。俺はそんな風にあの二人を見ていないよ、と言い訳しながら、次の行動について考える。






「佐野君、この注文は何」

「今さらだけどさ、俺らって敬語使わなくていいのかな」


 津久井クロージングコンサル御用達の花屋、その名も『花屋の香車』に来ていた。香車という変わった名字の一家が三代営業しているからこの屋号である。


「マジで今さらね。十年前に言いなさいよ」


 その店主、香車花子は津久井の旧知で、俺と同い年だ。いつの間にやら敬語が外れ、同級生のような口調で話す仲になった。


「そうだな。今から香と敬語で話すと、なんか変だな」


 こいつは花子という名を嫌っている。「花屋の花子なんてギャグだろ。だから香と呼べ」とのご意向なので、その呼び名で通っている。


「で、この注文は何」


 なぜか俺の周りにはガサツな女が多い。昔からしとやかな女性に縁がない。ひろかも、清楚な風貌でズバズバ言うし、フレアスカートで回し蹴りするような女だった。念のため言っておくとこれは比喩で、実際に蹴るところは見たことがない。


「難しいか」

「いや、別に。注文としては珍しいけど、無理ってほどじゃないよ。聞きたいのは、普段と随分様子が違う注文じゃないか、ってこと」

「今回の依頼人は花屋を指定してきたんだよ」

「どういうこと」

「さあね。花の種類も、俺が知らないものが混ざっているし、並々ならぬこだわりがあるんでしょうよ」

「ウチで買えって?有難い話だけど、どこの誰よ」

「いや、この花は普段の調達先から買えって依頼」

「あ、そう。理由は聞いていないの」

「まだ、ね」

「聞く予定はあるわけね」

「あー。まだ、ね」

「なんだそりゃ」


 依頼人が言いたいのであれば聞くし、聞かれたくないのであれば聞かない。それが俺の基本的な方針だ。柊については、まだ意図が読めないので保留している。


「ふと思ったんだけど、香って俺以外の客と話すときもその喋り方してんの?」

「そんなわけないでしょ。お電話ありがとうございます。花屋の香車でございます」


 声が一オクターブ上がった。


「うわ」

「うわって……、地味に傷つくんですけど」


 そういえば、最初はこんな声だった。昔過ぎて忘れていた。


「もう一個ふと思ったんだけどさ、香って葬式の花をウチに卸してくれているじゃん。それ、人の死で儲けている、みたいな罪悪感ある?」

「まず、うわって言ったことを謝れ」

「ごめん」


 香はレジカウンターにもたれた。


「そうだな……。ウチは昔から地元の葬式の供花や飾りつけを請けてきたから、それが当たり前だったんだよね。人の死をきっかけに仕事が生まれていることを特別だと思ったのは、高校を卒業してからだったかな」


 香の目線が宙を浮き、両手はエプロンのポケットに入った。


「不幸を食べているみたいで罪悪感を覚えたことも、たしかにあったよ。でもある日、近くで顔と名前を知っているおじいさんが死んだんだけど、気づけば私は頭の中で算盤弾いていたのね。供花はどれくらい、枕花、別れ花、全部でいくらくらい、チャリンチャリーンってさ。そのとき、ああ、そういうことかって思った」

「どういうこと?」

「葬儀は必要で、それを手伝って対価を貰っている。これが悪いことなら、最期を悼むこと自体が悪だなって。つまり、自分が殺したのでもない限り、人の死で儲けて悪いわけじゃない。論理じゃなく、感情で納得したんだよ、私は」


 以上、と香は締めくくり、ふっと唇を緩めた。


「どうせ美咲ちゃんのことでしょ」

「……ご名答」


 さすがに付き合いが長いだけある。


「あの子もね、真面目すぎて不安になるよ。佐野君くらい適当でいいのに」

「俺は適当か」

「人の死を茶化せるくらいにはね」


 言い返せない。クロージングコンサルタントをやっていると、人の死が身近すぎて、重大事として扱うことに疲れる。津久井と一緒に、社外で言ったら不謹慎だと咎められるようなジョークを飛ばしながら仕事をしていることもしょっちゅうだ。


 例えば、


「社長、立てこもり事件ですって」

「へえ。自殺許可証を発行してやればいい」

「どうしてですか」

「将来に希望が持てなくてやぶれかぶれなんだろ。じゃあ、公然と死なせてやろう。ただし許可証の有効期限は当日中だ。本人のサインが必須だから、慌てて飛び出してくるに違いない。そこを逮捕するんだ」

「さっすが社長。警視総監やれますよ」

「そうだろう、そうだろう、もっと褒めろ」

「いよっ、空前絶後」

「はっはっは」


 という具合に。


 自分では平気で言うが、もしも美咲が学校でそんなことを言っていたら嫌だなあ。


「津久井さんも大概頭のネジ緩んでいる人だからね。医者でもないのに、そう頻繁に人が死ぬ瞬間に立ち会いたくはないよ、私は」

「社長の受け売りだけど、死について、俺たちより真剣に考えているのは医者くらいだ。宗教家は空想に、芸術家は表現に、政治家は税金に考えがずれていく。純粋に死を見つめている点で、医者とクロージングコンサルタントは二強なんだそうだ」


 真剣に考えているから、死が怖いものではないと知っている。怖いのは、死に至る苦しみや、大切な人と会えなくなる寂しさ、そして遺族に残った後悔だ。


「本能的に死を忌避することは否定しないけど、俺たちには理性がある。本能を理屈で解していけば、感じ方も変わってくるってもんよ」

「美咲ちゃんにもそう言ってやりなよ」

「言ったよ。小癪だって返された」


 香は大声で笑った。


「その通りだね。いやあ、辛辣なことを言う子に育ったもんだ」

「ひろかにそっくりだよ」


 そのうち、セーラー服で回し蹴りでもしそうだ。はしたないのでやめて欲しい。


「それで、この注文、香としてはどう思う」


 香は鼻で笑った。


「しゃらくさい」


 分厚い新書サイズの本が顔面目掛けて飛んできた。






 人が死ぬことに対して何も感じない人間はクロージングコンサルタントに向いていない。


 死への恐怖をわかった上で、あえて死ぬことを選んだ人の気持ちに寄り添えないと、良いサービスは提供できないからだ。自殺という非常にデリケートなイベントを扱うわけだから、人の心の機微に敏感でなければたちまち衝突する。


 大勢の同僚が、くたくたに疲労して退職していく様を見送ってきた。顧客の自殺願望に引っ張られて精神が不安定になったり、価値観が揺らいで自信を喪失したりした者が鬱病の一歩手前になっていた。


 津久井クロージングコンサルでは、契約している精神科医に、一か月に一度診察を受けることになっている。不調を来たすと、早めに休職を促される。たいがい、そのまま退職する。


 かようにハードな職種で、十年間、特に不調なく勤続できている俺は、たしかに適性があるのだろう。


 そんなことを思いながら、柊瑞穂の葬儀を眺めていた。


 葬儀は仏教式。切腹という武士の死に方があったくらいなので当然だが、日本皇国の仏教には自死を悪だとする決まりはない。


 順番に焼香が進んでいく。


 棺の手前には、百合、デンファレ、胡蝶蘭で飾り付けられた横長のポットがある。棺の頭側にはガザニアの黄色が、足側はアセビの控えめな白が彩っている。棺の奥は親族、友人から贈られた供花の菊がスタンドに収まり、二段に分かれて十個ほど並んでいる。


 柊と打ち合わせた通りの形になった。この仕事の性質上、依頼をこなした顧客から口コミで評判が広がるようなことは期待できないのが残念だ。


 焼香の列に森嶋がいた。夫の方のみ。柊と俺で招待状を作って送ったので驚きはしないが、ちゃんと来てくれたようだ。


 森嶋と目が合った。俺は会釈したが、向こうはすぐに伏せた。招待状を送ったのは二週間前。そのとき初めて、花をオーダーし、死ぬ予定である人物が柊瑞穂であると彼にもわかった。だが、柊の真意については、まさに今考えている最中だろう。


 葬儀中、俺は特にやることがないので、会場の外の喫煙スペースで煙草を吹かした。半透明の煙を見るたび、火葬を連想する。俺の体を少しずつ燃やしているイメージだ。燃え尽きるまで、あと何本必要なのだろう。


 短くなったので消す。箱は空になっていたが、鞄の中の次の箱に手を付ける気にはなれなかった。


「佐野さん、ちょっといいですか」


 なんとなく、来るような気がしていた。


「どうも、森嶋さん」


 俺はゆっくり立ち上がり、喫煙スペースから出た。それを待って、森嶋は話し始める。


「柊が死ぬと聞いて、正直、驚きました。佐野さんはどこまで知っているのですか」

「まあ、だいたい全部ですかね」


 そうですか、と森嶋が言ったところで、葬儀場のスタッフが通り抜けたので、俺たちは口を閉じて壁際に寄った。


 そのまま、廊下の壁に寄りかかった体勢で話を続ける。


「柊とは、少し前から付き合いがありました」


 誰かに聞かれることを気にしてか、森嶋はぼかした表現で柊との関係を示した。


「最近、ここ数か月は連絡も取っていませんでしたが」

「六、七か月くらいでしょう」


 森嶋は少し驚いたが、すぐに頷き、静かな顔になった。


 わかっているから、察してやる。そう伝えたかった。


「悪いことをしました。僕が情けないせいで傷つけてしまった。柊に、もう会えないと告げたのは結婚を決めたからです。それまで、僕は中途半端でした。いろいろと」


 中途半端であること自体は悪いことだと思わないが、浮気は良くない。俺はひろか一筋だ。この十年も変わらず。


 廊下の飾り気ない白い壁に、森嶋の声が勢いなくバウンドして落ちる。


「恨まれても仕方ないし、少なくとも嫌われていると思っていました。二度と顔も見たくないほどに。だから、驚きました。柊が死を選んだことよりも、葬儀の花を僕に頼んだことにです。絶対に無いと思っていました」

「でも、柊さんはあなたを指定した」


 何故俺に言うのか、そう問うてもよかったが、森嶋の話を聞き届けることも仕事のうちだ。俺は多分、柊の代理としてここに立たされている。


「許してくれたのかと、少し期待しました。でも、ここに来て、それは違うと思いました」

「どうして」

「僕が用意しなかった花があったからです。ガザニアとアセビ、棺の両横に置かれた花は注文書にありませんでした。あれは、あの場にいる人間では、僕にしか気づけない。つまり、僕に向けた、柊のダイイングメッセージですね」


 ダイイングメッセージとは、殺人事件で、被害者が死に際に残す犯人の手掛かりを指す。実際なら、自分が助かろうと必死なので、救急車を呼ぼうとするのがせいぜいで、ダイイングメッセージは実在しないと言われている。


 だが今回のこれは、珍しく本物のダイイングメッセージだ。


「言い得て妙ですね。それで、あなたはダイイングメッセージを読み解けましたか」


 森嶋はスマートフォンを抜いて画面に目を落とした。


「ガザニアの花言葉は、きらびやか、潔白、あなたを誇りに思う。アセビは、犠牲、献身、あなたと二人で旅をしましょう。

 柊が言いたかったことは、自分は潔白だが、僕の犠牲になった」


 沈痛な表情で言う森嶋を視界の端に収め、俺は頭を掻いた。


「花言葉の暗号だと、すぐにわかりましたか」

「そこは、花屋なので、一応」

「素晴らしい。私はヒントを貰うまで何のことやらさっぱりでした。ああ、でも、ヒントをくれた人もすぐ当たりがついていましたね。その人も花屋でした」


 やっぱりその道のプロは鋭い。香がくれたヒントが無ければ、下手したら最後までわからなかったかもしれない。


「僕はどうしたらいいのでしょうか」

「どう、とは?」

「柊は僕を許していなかった。まさに、僕の身勝手さの犠牲になったんです。でも、僕に何ができるのでしょうか。何ができたのでしょうか。僕には家族があって、裏切れないものがある。冷徹に優先順位をつけるなら、僕は絶対に柊よりも家族を選びます。例え過去に戻れたとしても、同じ結末になったでしょう。

 それに、柊は死んでしまった。今さら謝ることすらできない。僕に何を望んでいるのですか」


 荒く呼吸する森嶋の方を向き、俺は柔和な顔で首を振った。


「さあ、わかりません」


 森嶋は呆気に取られ、次の言葉が出てこなかった。数秒待っても声を出さないので、仕方なく俺が喋る。


「死者は何も望みません。生者を恨むことも祟ることもありません。何も喋らないし、こちらが何を言っても届きません。あなたがどうしたいのか、それが全てです」

「佐野さん、あなたは柊のクロージングコンサルタントでしょう。まるで、死んだらただの物みたいに言うんですね」


 嫌悪か、怒りか、戸惑いか。態度を決めかねた複雑な表情で、半開きの腕で身振りしながら森嶋は言った。


「死んだらタンパク質の塊ですよ。もしも霊魂が存在するのなら、ひろか、私の妻が現れないわけがありません。必ず、私か娘か、どちらかに何かを伝えるはずです」


 泣いて暮らしたあの頃、目を皿のように、針の落ちる音すら聞き取れるように、ギラギラと周囲に神経を張り巡らせた。しかし、待てど暮らせど、俺の感覚器は何一つとしてひろかの気配を捉えられなかった。


「死者の無念は生者の中にあるものです。例えば、柊さんがあなたに何も伝えることなく死んだなら、あなたは、許されたのかどうか、何の手がかりもなく残りの人生を過ごすことになったでしょう。今は、それを示すメッセージが残っています。少なくとも、あなたの中の柊さんは泣いて逝ったわけではないはずだ」

 

 森嶋は、自嘲するように息を吐いた。


「冷たく笑っていますね。戸惑う僕を嘲笑って。いや、からかっているのかな。たまに、笑えない冗談を言う人でしたから」

「そうでしょう?その笑顔を遺すことが、私の仕事です」


 死者が無念であろうと思うのは、生者の考えだ。死者は何も感じない。死者の表情は、生者の脳の中にある。


 力を抜いた手をひらひら振った。


「難しく考えることはありません。あなたができることは、忘れないでいてあげることですよ。柊瑞穂という、あなたを想う女性がいて、最期に花言葉でメッセージを残し、死んでいった。その記憶を、ずっと抱えてあげてください」

「それが僕への罰ですか」

「まさか」


 罰するなんて、俺の仕事じゃない。他人を罰せるような、大した人間でもない。柊にだってそんなつもりはないはずだ。


「供養ですよ」


 死人の記憶は厄介だ。思い出は美化され、綺麗な記憶だけが残る。一人の女性と暮らしていれば、嫌が応にも合わない部分、苛つく瞬間が現れる。その度に、森嶋の脳裏には柊の姿が浮かぶ。そして、柊はいない、今の家族を大切にするのだと言い聞かせてその幻影を掻き消すことだろう。


 何度も何度も。


 俺はひろかの死から十年経っても、記憶の中のひろかに匹敵する女性に出会えない。再婚する気がないわけではないが、イメージできない。それほどまでに、死者は美しい。


 それを供養と呼ぶか罰と呼ぶか、はたまた、胸の中に生きていると呼ぶか、それは自由だ。もちろん俺にとって、ひろかを忘れずにいられることは幸福に決まっている。


「実はね、森嶋さん。柊さんからもう一つ預かっているものがあります。あなた宛てに」

「何ですか」

「これです」


 俺は鞄から、潰れないよう慎重にしまっておいた薄いピンク色の箱を取り出して渡した。


 森嶋が開け、中の物を慎重に摘まみ出す。


「花ですか。これは、リンドウですね」


 森嶋の手の平には、リンドウの花が置かれていた。青紫の小さな一輪。


「リンドウの花言葉は」

「悲しんでいるあなたを愛する」


 説明しようとしたら先回りされた。


「さすが、ご存知でしたか」

「僕に、忘れるな、と言いたいのですね。やっぱり」


 森嶋は手の上の小さな花を、泣きそうな顔で見つめていた。


「忘れません、僕の罪を。世間からは些細なことに見えるでしょうが、これは間違いなく、僕が殺した命だ」


 俺は軽くなった鞄を持ち直す。いやあ、重い預かりものだった。


「どうでしょうね。あなたが生かしていた命かもしれませんよ。それと、元気なお子さんが生まれるといいですね」

「それ、どういう。ていうか、なんで子供のことを……」


 そろそろ焼香が終わる。俺は手をヒラヒラと振って、森嶋を置いて葬儀会場に向かって歩き出した。






「おい、佐野。チップ弾んでもらったから奢ってやる。焼肉行くぞ、焼肉」


 とある富豪相手の仕事をしていた津久井が、元気に事務所に帰ってきた。


「相続手続きの代行はいいんですか」

「専属の弁護士がいるから、私の出る幕は終わりだ。お金持ちっていいねえ。私もあと一千万円くらい、年収上げたいもんだな」

「そんな余裕があったら私の給料上げてくださいよ。それか、社用車買い替えましょうよ」


 中古で買った車両なので、走行距離は二十万キロをゆうに超え、そろそろ三十万キロだ。


「それはいいかもな。車種は何がいい」

「RX—8!」

「なんだ、それ」

「美咲が格好いいって言っていたんですよ。それで学校に迎えに行きます」


 珍しく、本当に珍しく、美咲が俺の前で本音をこぼしたのだ。CMを見て「この車格好いい」と。


 津久井がインターネットで検索し、何度かクリックした後で叫んだ。


「馬鹿野郎、スポーツカーじゃねえか。こんなもん、買うわけねえだろう」

「絶対、粋ですって。これが社用車だったら目立ちますよ。宣伝効果ありますよ」

「燃費悪そうだな……。つうか、車体には社名をプリントして走るんだぞ。それで学校に行ったら、美咲ちゃん、この上なく嫌がるだろ」

「……たしかに」


 最悪、無視されるかもしれない。


「ていうか、社長、聞いてくださいよ」

「どうした、どうした」


 俺は椅子を反対向きに座り、背もたれを抱えたままキャスターを転がして津久井の席に近寄った。


「美咲が、家に男を連れて来るんです」

「へえ」


 津久井の目が細められる。口はいかにも楽しそうに釣り上がる。


「彼氏か」

「いや、部活というか、研究会の先輩らしいのですが、あれは惚れています。お父さんにはわかります」

「子育ての醍醐味じゃないか。どうする、とりあえず一回殴っとく?」

「そんなに野蛮じゃありませんよ。昭和じゃあるまいし」


 顎を背もたれに乗せて睨んでやる。


「部活じゃなくて研究会とは。何をする活動やってんの」

「死亡権撤廃のための勉強と活動をする集まりだそうです」

「……!」


 津久井が腹を抱えて床に転がった。あまりにうけたのか声が出せず、腹筋の痛みに転げ回る。朝、掃除しておいてよかった。


「……息が……!ちょっと待ってお前、どんな針のむしろで暮らしてんの……やばい、腹痛いよお……!」


 正直、途方に暮れている。俺はどんな顔をして美咲の先輩を招けばいいのだ。何を話せばいい。美咲が惚れている男子高校生と、本気で死亡権の是非をディベートするのか。


 勘弁してくれ。勝っても負けても地獄しか見えない。美咲が絶対零度の舌打ちをする様子が目に浮かぶ。本当に回し蹴りくらいは喰らうかもしれない。


「まあまあ、子供あっての悩みじゃないか。うちの子は全員巣立っちまってつまらんもんよ」


 巣立った。その内一人はあの世へ巣立ったらしい。


「ようし、そのときのために練習だ。想定問答をしてやろう。お父さん、死亡権に賛成するならば、あなたはいつまで生きるつもりですか。いつ死亡権を行使するのですか」

「君にお父さんと呼ばれる筋合いはない」


 頭をはたかれた。


「うるせえ。質問に答えろ。美咲さんのお父さん、じゃ長いから省略したに決まっているだろうが。揚げ足を取るな」


 ううむ、真面目に答えたのだが。懇切丁寧に反撃された。


「とりあえず、今じゃないですね。美咲が独り立ちするまでは生きていないといけないし、お金も稼ぎたいですし。美咲を支えてくれる人が現れるまでは、少なくとも死ねません」


 でも、そうなったら孫が見たくなる。次は孫を可愛がりたくなる。キリがない。


「ひろかに顔向けできると思ったら、ですかね。そのときはきっと言えると思います。いい人生だったと」


 俺は何が何でもひろかの元に帰る。そのとき、笑顔で迎えてほしいものだ。そのために今を努力していると言っても過言ではない。


 俺が死なない理由は、高校生に聞かせるには、少々格好悪い、とても陳腐なものなのだ。


「さて、練習もしたいですが、香車に行ってきます。ボロ車使いますよ」

「ボロ車って言ってもスポーツカーは買わないからな」


 津久井が投げたキーを受け取って、俺は『花屋の香車』に向かった。






「あなたは森嶋の元恋人ですか」

「それは、クロージングコンサルタントとしての質問ですか」


 事務所に俺しかいない日の柊との打ち合わせ。俺は自分なりに整理したことを確かめることにした。


「半々ですかね。個人的な興味もあります。ただ、柊さんが聞かれたくないのであれば諦めます」


 柊はしばらく考えていたが、俺は答えてもらえると思っていた。こんなに思わせぶりな死に方をするのだから、誰かにわかってもらいたいはずだ。狙いは森嶋一人だとしても、人間には共感されたい欲がある。


「恋人なんて、そんな上等なものではありませんよ。せいぜい浮気相手です。でも、どうしてそう思ったのですか」

「棺を飾る花が変だったからです。頭側は綺麗で派手なガザニアなのに、足側は地味なアセビの花です。それに、アセビなんて、葬儀で好まれる花ではありません。何かの意図があると思いました。

 注文票からも読み取れます。アセビとガザニア、それにリンドウはフラワーショップ『ランサス』以外で調達するなんて、後にも先にも、こんな不思議な注文をする方はいないでしょうね。私もこの仕事に就いて長いですが、……そういえば何年だろう。

 おっと、話が逸れました。

 森嶋に、自分が死ぬことを予め伝える。だが一方で、アセビとガザニアは葬儀の場で見つけさせたいのでしょう?ランサスに注文した花は葬儀の飾りつけとして一般的なものばかりですからね。森嶋は、それで全てだと思うはずです。

 ところが当日来てみれば、覚えのない花が棺の両横を飾っていることになる。驚くでしょうね。そして、それが何かを示していると、嫌でも想像する」


 他の参加者には、その特殊性がわからない。あくまで森嶋にだけ、その二つの花が浮かび上がって見える。


「単に私の趣味、とは思ってもらえませんよね。それなら『ランサス』でまとめて注文してもいいし、花屋にこだわる意味もありませんから」

「そうですね」


 柊は、ふうっ、と息を吐いた。


「それで、元恋人だと思った理由は何ですか」


 まだ自分では話してくれないらしい。それとも、俺に話させたいのだろうか。試験の答え合わせのように。


 まあ、いいだろう。間違えていたら盛大に笑ってもらえばいい。


「馴染みの花屋から、これを投げつけられました」


 抽斗から香の本を出す。柊は、ああ、と頷いた。


「花言葉一覧ですね。なるほど。それにしても、投げつけられたとは、何をしたんですか」

「それは……企業秘密です」

「絶対違いますよね」


 本を投げつけられた理由は、香のガサツさと、柊の計画が香にとって「しゃらくさい」と感じるものだったからなのだが、それは言うまい。これでも一応、接客業なのだ。


「まあ、それはともかく、アセビには毒があります。花言葉は犠牲、献身、あなたと二人で旅をしましょう。どことなく不穏です」


 茶化して言うと、柊も小さく声を出して笑った。


「ガザニアの花言葉は、きらびやか、あなたを誇りに思う、潔白。花屋なら、花にメッセージを込めるとしたら花言葉だとすぐに思いつくのでしょうね、きっと。

 頭側にガザニアが置かれる予定なので、意味は、あなたを誇りに思う献身、ですかね。もっと読み解いていきましょう。死ぬことが献身ならば、それで森嶋さんに何かが与えられることになる。私は、結婚生活かな、と思いました。あなたが身を退くことで、彼は幸せになる。

 つまり、あなたは森嶋さんの妻に負けた。だから身を退きます。お幸せに。

 そういう意図ではありませんか」


 葬儀とセットにすることで好きな男に最期のメッセージを印象付ける。意地は悪いが、本人が命を使うに値すると思ったのなら文句は無い。


「間違いではありませんが、三十点です」

「おっと、思ったより手厳しいですね」


 柊は嬉しそうに顔を綻ばせた。


「言ったでしょう。私は恋人なんて上等なものではなかった、と。二年前のことです。私は一度自殺許可証を発行しました。もう充分に生きたと感じたもので。そんなとき出会ったのが森嶋さんでした。年甲斐もなく恋して、舞い上がってしまって、自殺許可証も返却してしまいましたよ。

 森嶋さんは当時、すでに今の奥さんと交際していて、私はいわゆる浮気相手でした。でも、それで一向に構いませんでした。私にとっては、人生を延長する理由として、充分すぎるくらいでしたから」


 俺の記憶にある森嶋の妻は、柊とは全くタイプが違う。本命と真逆の女性を求めるのは、男の悲しい性の一つだ。結婚直前、ひろかは「浮気したら片目の視力を失うと思いな。それで、何が何でも私の元に帰って来させてやる」と言った。殺す、よりも怖い脅し文句があると知った瞬間だった。


「ですが、半年前、もう会えないと言われました。結婚する。ちゃんと家庭を大事にしたい、と。それ以降、会っていないし、一言も話していません」

「身勝手な男ですね」

「本当ですよね」


 俺たちは、ふふふ、と笑い合う。柊の表情に、責める気持ちは見えなかった。


「でも、わかっていたことです。最初から、私は本命になり得ませんでした。もう充分生きたから死ぬ、なんて言う女と、結婚なんてできませんよね。私は、森嶋さんと一緒になる資格が最初から無かったのです」

「それは、たしかに」

「否定しないのですね」


 こめかみをぽりぽり掻いた。その条件で結婚するという男がいたら、確実に何か企んでいる。


「まあ、少なくとも死にたい気持ちを否定はしません。そういう仕事ですから。結婚することが幸せだと言い切れるほど人生に通じてもいませんし」

「あなたも既婚者でしょう」

「先立たれましたが」

「ご愁傷様です」

「いえいえ」


 ふう、と二人で同時に息をつく。


 柊は人差し指を立て、得意気に話す。


「ガザニアの花言葉を先に持ってきて文章にしたところまでは良かったのですが、順番で言うと、私の死体が間にありますよね。

 あなたを誇りに思う。死んだら、あなたと二人で旅をしましょう。意味は、生きている間は奥さんにあげます。死後は私のものになってくださいね。これが正解です」


 今まで人形のように楚々とした笑顔を見せていた柊が、そのとき初めて、少女のように、照れ臭そうに、顔を赤らめて笑った。


「ええ。難しすぎますよ」


 俺は肩をすくめて文句をつけた。


「それはそうです。あの人にだけわかるように、過去の会話にヒントを忍ばせておきましたから。佐野さんには絞り込むための情報が足りません。それに、あの人はこれから何十年も考える時間があります。すぐにはわからなくても、いつかきっと気づきます」

「何十年もあなたのことを忘れずいてくれると?」

「そのために『ランサス』で花を注文し、葬儀に招待し、解釈に迷う思わせぶりなメッセージを遺すのです」

「なるほどねえ」


 俺は唇の端を釣り上げて、少々態度は悪いが、頭の後ろで手を組んで背を反った。


「少なくとも、私にとっては忘れられない仕事になりそうですよ」

「あなたに覚えてもらっても意味がありません」


 柊の表情はまたガラス細工に戻っていた。


「卒業する先輩を想う後輩女子みたいですね」

「卒業するのは私ですが」

「上手い。一本取られました」

「うるさいです」


 デリカシーがない、とひろかが叱る声が聞こえた気がした。


「日程にはどういう意味があるのですか」

「初デートが十月十四日だったからです。私が生まれ変わった日に、私は死ぬのです。洒落が効いているでしょう」

「ええ、素敵です」


 どうやら柊とはセンスが合う。いいクロージングコンサルタントになれた未来もあったかもしれない。


「リンドウの花、これはどこに置きますか。一輪だけということは、別れ花?」

「いえ、これに入れて森嶋さんに渡してください。できれば手渡しで」


 柊は薄桃色の箱を机に出した。


「それは構いませんが」


 俺は香の本を捲ってリンドウを探し出した。花言葉は、正義、誠実、悲しんでいるあなたを愛する。


「ははあ。森嶋が忘れないようにですか」


 悲しんでいるあなたを愛する。つまり、私の死を悲しんでくれ。そういう意図を込めるわけか。


「でも、ガザニアとアセビ、それに柊さんの死体で作るメッセージとは微妙に噛み合いませんね」

「当然です。フェイクですから」


 柊は平然と茶を啜った。俺は唖然としてしまった。


「フェイク?どうしてそんなことを」

「この箱はシキュウです」


 柊はそれだけ言って、澄ました顔で湯飲みの模様を検分し始めた。


 シキュウ?


 どうやら問題を吹っ掛けられているようだ。面白い。ちょくちょく感じていたが、この人はあまり性格がよろしくない。好ましくないわけではないが。


 シキュウ。至急、支給、四球、子宮。……子宮?


 薄桃色の箱。子宮か。ならばリンドウは。……待て、何かが不自然だ。


 俺は指を組んで額を押し付けた。


「柊さん、どうして森嶋さんの奥さんが妊娠していると知っているのですか」


 森嶋とは半年間話していないと言った。『ランサス』で見た森嶋の妻は、小柄でスリムだった。美咲のときを思い返せば、あの体型は妊娠していてもせいぜい二、三か月。


 リンドウがお腹の中の子を表しているならば、その確証はどこから得たのか。


「知っていますか。男の子なら、リント。女の子なら、リン。そう名付けるつもりだそうです」


 これは参った。俺と気が合うわけだ。柊はひろかと似ている。


「本音を言うと、花言葉のメッセージも、死後の話も、どうでもいいんです。あの人がずっと覚えていてくれれば、それで」


 柊は、へへ、とはにかんで髪を触った。


 こっちまで微笑んでしまうような、今までで一番可愛い笑顔だった。


 リンドウのメッセージは、「見ているぞ」だ。






「え、どういうこと」


 香はレジカウンターの向こう側で目をしばたいた。


「その柊さんは、森嶋の子供のことをどうして知っていたの」

「盗聴でもしていたんだろ」

「あ。え、怖……」


 香は一度手を叩き、すぐに自分の体を抱いた。


「いやあ、さすがの俺も鳥肌もんだった。リンドウの箱を渡すまで、鞄の中が気持ち悪くて仕方なかったっつの」


 薄桃色の箱が目に入るたび、憂鬱な気分になったものだ。


「それ、ほとんど呪いじゃないの」


 この何重にもわたる、回りくどく仕掛けられたメッセージを、森嶋はいつ、どこまで気づくだろうか。


 死人の記憶は美化されるが、リンドウの意味に気付いたらそれどころではないだろう。そうして自分への思いを断ち切るところまで含めて柊の愛だとは、さすがの俺も頷けない。


「呪いほど害意があるものじゃない。せいぜい、一世一代の悪戯じゃないか」

「悪趣味すぎる」

「まったくだ」

「好きな人に気持ち悪がられて何が嬉しいんだか」


 微笑ましくなるほどに普通の意見だった。


 だが、俺たちの仕事は、その「普通」からはみ出してしまった人間たちのためにある。


「わざわざ領収書を受け取りに来るなんて言うから何かと思ったら、この話をするためだったのね。たしかに気にはなっていたけど、知りたくなかったかも」

「社長は手を叩いて大笑いしていたんだけど」

「津久井さんが普通なわけがないじゃない。普通は死にたくないし、死に関することは怖いんだから」


 香なら、言いたいことがあれば本人に叩きつけてさっぱり忘れることだろう。その方が人生を楽しく暮らせる。


 だが、世の中には、本人に文句を言うだけでは満足しない人間もいるし、その後の人生に意味を見出せない人間もいる。


 柊は森嶋を愛していた。自分の命の最後の使い方を、愛する人間の中に刻むことに決めたのだ。それが罪悪感でも、恐怖でも、解かれない謎のメッセージという形でも。


 もしもクロージングコンサルタントがいなかったら、もしも死亡権がなかったら、柊の思いはどこにも行けなかった。愛する男は他の女のものになり、理由のない人生を、喪失感を抱えたまま幽霊のように生きていくことになったかもしれない。


 柊は本懐を遂げて、満足して死んでいった。森嶋を奪うことで誰かが不幸になる道ではなく、自死を選ぶことで、全員が笑顔でいられる道を選び取った。


 その選択が間違っていると決めつける権利が誰にあるだろう。


 現実は優しくない。どれだけ望んでも全員がプロ野球選手になれないように、どうしたって手に入れられない人が生まれる。夢は叶うと言う人間は、叶わなかった夢を抱える人間に何と言うのだろう。望みを勝ち取れと言う人は、敗者にどんな価値を与えるのだろう。


 甘え?努力が足りなかった?次は上手くいく?


 子供には言わない。夢を諦め、望みを妥協し、自分の限界を目減りさせて、替わりに少しずつ絶望を加算することが人生だ、などとは。


 いつ終わるとも知れない悠久の時間の先に訪れる人生のゴール。圧し掛かる絶望を背負って走るその果てないマラソンをリタイアすることで救われる人がいる。


 柊の魅力的な笑顔を思い出す。あと数年すれば絶望で失われたかもしれないあの笑顔を、彼女は守り抜いた。


「それじゃ、俺は戻る。そろそろ予約のお客様が来るんでな」


 香が嫌らしい目つきになった。


「人を殺しに?」


 美咲の言い分を真似るとは、こいつもいい性格をしている。


「救いにだよ」


 俺たちの仕事はクロージングコンサルタント。別名、自殺コーディネーター。蔑称は死の商人。


 心の中ではこっそり、死の証人と名乗っている。


 経営状態はすこぶる良好だ。

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自殺許可証未発行 佐伯僚佑 @SaeQ

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