今の若者の「親ガチャ」って甘すぎないか?

カイ艦長

第1話 「親ガチャ」は誰のせい?

 昨今のテレビニュースで「親ガチャ」という言葉が流行っている、と伝えられています。


 「親ガチャ」とは?


 生まれながらの親や経済や環境を子どもは選べない。

 つまり生まれたときから親や経済や環境が定まってしまうのです。


 それがまるで「カプセルトイ」の商標名「ガチャガチャ」のようだから。

 それで「親をガチャガチャで選ぶ」ようなもの。

 つまり「親ガチャ」という言葉が生まれました。


 では「親ガチャ」は概念として正しいのか。

 正しいのです。


 誰もが生まれたときに親や経済や環境を選べません。

 どんな親に生まれたかによって、その後の人生は大違いです。


 私は中学一年で月1,000円のお小遣いをもらっていました。

 中学三年の兄は5,000円をもらっていました。

 では私が中学三年になれば5,000円もらえたのか。


 もらえませんでした。


 私は姉、兄、弟と、四兄弟の三子でした。

 そして上の兄弟が金を注ぎ込まれて、下の私と弟はその余りを分け与えられていたにすぎないのです。

 しかも私が二歳の頃に兄弟揃って養護施設に入れられ、私が小学校に上がるタイミングで母親に全員引き取られて東京に出てきました。

 なぜ母に引き取られたのか。

 父が病死したからです。

 父が家庭内暴力今で言う「DV」ドメスティック・バイオレンスの家庭だったのです。

 しかし私は物心のついて三歳からは養護施設にいましたから、父や母の愛情をまったく知りません。


 この状況。「親ガチャ」に成功したのでしょうか?


 これで成功したと思った方は少ないと思います。


 そもそもたいていの「親ガチャ」負け組は、養護施設には入れられた経験などないでしょう。

 家族の愛情をまったく知らずに育ったわけでもないはずです。


 家族の愛情はありながらも、今の自分より勝ち組がいるのだから「親ガチャ」に負けた。

 その程度でしかありません。


 ちなみに母親に引き取られたら愛情をかけられたのでは。と思いますよね。

 かけられていないのです。


 私が母に引き取られたとき、弟はまだ保育園児であり、保育園には母が付き添って送り迎えしていました。

 引き取られたばかりの小学一年の頃から、すでに愛情は与えられていません。


 だからでしょうか。

 私には「愛情」という感覚がありません。


 親から愛情をかけられたこともありません。

 愛情というものがわからないのですから、誰かを愛した経験もないのです。

 愛情がそもそもわからないので、誰かを好きになることもないですし、誰かから好きになられた経験もない。

 これで恋愛小説など書けるわけがありません。


 今「親ガチャ」がどうのこうの言う人の大半は、私よりは勝ち組なのです。


 中学校の弁当は毎日おにぎり一個のみ。

 弁当箱で食べた経験もありません。

 学級では豪華な弁当を持参して食べている方がほとんどです。

 私は急いでおにぎり一個を食べて、晴れていたら外でアクロバットの練習をひとりでしていました。


 今の中学生、高校生でお昼ごはんが「おにぎり一個」という方、他にいらっしゃいますか?

 しかも姉と兄と弟は弁当箱でお昼ごはんを食べていたんですよ。


 そんな人生を経験していないのに、「親ガチャ」などと簡単に言わないでもらいたい。


 今の学生生徒の言う「親ガチャ」なんて、甘すぎるのです。

 あなたの何倍も負け組の人はいます。



 では「親ガチャ」は誰に責任があるのでしょうか?


 誰にも責任はないのです。

 あなたの前世が徳を積んでいなかったからではありません。

 親だって好き好んで貧しくなりたかったわけでもないでしょう。


 誰かに責任を転嫁したいから「親ガチャ」という言葉が流行っているのです。



 私の持論ですが「貧しい親の子どもは貧しくなる」のが当たり前です。

 お金をかけられないのですから、勝ち組との格差は開く一方です。


 進学校を選ぶ場合も、「親ガチャ」勝ち組は自分の頭脳に従って進学校を選ぶことになります。

 しかし「親ガチャ」負け組は自分の才能いかんに関わらず、授業料の安い学校にしか進めないのです。

 しかも進めたらよいほうで、いかな天才でも中卒で就職する方だっていらっしゃいます。

 私は家計の都合上、定時制高校に進みました。

 「現役で東京大学合格の逸材」と学校からみなされていましたが、家庭にお金がないことがわかると、学校は私に期待しなくなります。

 しても意味がないからです。時間を割いても東京大学へ進むだけの家計がなかった。

 本当に「頑張れば報われる」のであれば、私は東京大学に入学していたはずです。

 ですが、うちの家計では東京大学へ学費が払えなかったのです。

 その少ない家計で、兄は大学へ進みます。大学に入ったらアルバイトをして学費を返す、という約束で。

 しかもその約束は果たされませんでした。

 だから私が大学進学しようにも一円たりとも残っていなかったのです。


 こんな状況にまで落ち込んだ人生を、今の若者は味わったことがあるのでしょうか。

 自身の才能がどれだけあり、どれだけ頑張っても報われない環境。というものがあります。


 こういう苦汁をなめたことのない人たちが、安易に「親ガチャ」などと言って欲しくはありません。


 親が貧しければ、子はどんなに頑張っても勝ち組にはなれないのです。


 そんな私でも、アルバイトをしていて書店の店長を任されることになりました。

 単にコンピュータのスキルが高かったがためです。

 当時はまだインターネット発展期で、将来的には通信販売部門の責任者へ、という流れでした。


 しかし店長で実績を出したにもかかわらず、通信販売部門の責任者の役職が店長の下の本社係長でした。

 しかも私に責任ばかりがくる割に、私の上には部長と、のちに課長が配属されます。

 つまり責任だけが私にかかり、手柄は部長と課長にかっさらわれる。


 もし私が「親ガチャ」の勝ち組であれば、書店も最初から社員では入れましたし、部長にだってなれたでしょう。

 しかし大卒ではない私は、書店の店長までしかいけませんでした。


 「親ガチャ」負け組とは、私のような境遇の人しか使ってはならないのです。


 単に「あの子は私より小遣いをもらっている」だとか「あの子はスポーツ万能」だとか。

 そんなせせこましいものを「親ガチャ」と呼ばないでください。



 「親ガチャ」は誰のせいなのか。


 誰のせいでもありません。

 私たちは今の親や経済や環境で生まれてきたのです。

 それは変えようがありません。

 だから「親ガチャ」と喚いて現実逃避をしているにすぎないのです。


 「人に愛される」ことも「人を愛する」こともできない。

 学歴を高めたくても、挫折せざるをえない。

 就職だって高卒では大卒に勝てない。


 さまざまな逆境を味わって、その結論として「親ガチャ」という言葉が湧いてくる。


 「親ガチャ」の本質とはそういうものだと思います。


 誰のせいでもない。

 でも誰かのせいにしたい。

 いちばん身近で言葉をぶつけやすい親をなじっているにすぎないのです。


 それは「親に甘えたい」心の表れにすぎません。


 「親ガチャ」の本質は「親への甘え」なのです。


 私は「親に甘える」ことさえできません。

 母親は私が社会へ出るまでの食い扶持を稼いでくれた人であって、尊敬することはあっても甘える対象ではないのです。

 私が交通事故に遭って障害者となりましたが、障害年金は家計に預けてあります。

 母親の老齢年金と合わせて、倹しく余生を送っています。


 親に甘えることもないので、私は「親ガチャ」とすら考えません。

 親は今の自分になるまで養ってくれた偉い人であって、なじる相手ではないからです。


 本当に「親ガチャ」の立場になった人は「親ガチャ」とは言いません。

 甘える親がいる子どもが「親ガチャ」と言って甘えているだけです。


 そう考えると、「親ガチャ」は誰が悪いのか、が見えてきます。


 もうおわかりですね。


 親に甘えたい子どもが悪いのです。



 まぁこれは悲惨な私の家庭環境から見た場合なので、恵まれた家庭で育った方にはわからないかもしれません。

 ですが「親ガチャ」負け組に分類される私からすれば、今のほとんどの子どもは「親に甘えたい」だけに映ります。


 私は誰かに甘える日が来るのでしょうか。


 「甘える」「愛される」「愛する」という感情が欠落していて、それでいて誰かから愛されるはずもない。

 まぁ小説でも恋愛ものを書かなければよいだけなのですが、困ったことに、売れる小説のほとんどは恋愛が鍵を握っているのです。


 現在人気が爆発している「ラブコメ」だって恋愛が鍵を握っています。そのうえで笑える要素を詰め込んだもの。それが「ラブコメ」です。渡航氏『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』だって恋愛要素があったから、あれだけのビッグヒットになったのです。

 VRMMORPGの川原礫氏『ソードアート・オンライン』だって、主人公とヒロインの恋愛で読ませています。


 物語を面白くする要素として「恋愛」「友情」「生死」があり、その中で「恋愛」と「友情」はわかりません。

 「生死」も哲学として知っているにすぎないのです。


 そんな私が小説で成り上がろうとすれば、よほど誰かから愛され、誰かを愛する経験をしなければならないでしょう。

 ですが、そんな人は終ぞ現れず。

 当たり前です。なにが「恋愛」なのかを知らないのですから。

 自分に好意を寄せられるのがどういうものなのか、すら知らないのです。

 だから、私が小説で成り上がるのはまず不可能ですね。

 すべてを概念化して世に問う。

 つまり「小説」より「哲学」のほうが私には無理がないのです。


 そう考えると、哲学者とはさまざまな欠陥を抱えていたのではないか。とすら考えられます。

 ソクラテスは恐妻家だった、という説もありますしね。

 まぁ妻を娶っただけでも、私から見れば恵まれているなと思いますけどね。



 私は誰からも愛されず、誰も愛せず、孤独に最期を迎えるでしょう。


 そんな私と比べて、まだ「親ガチャ」なんて言えますか?

 親に甘えているだけだと気づきましたか?


 「頑張れば報われる」わけではないのです。

 この不平等な社会を生き続ける覚悟を持ってください。

 親に甘えて現実逃避しない。

 厳しい現実と向き合い、少しでもましな人生が送れるように努力する。


 それが「親ガチャ」という言葉に抱く私の思いです。




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 「親ガチャ」について、言い足りないような感覚がありますので、本投稿は連載と致します。

 またどこかで「親ガチャ」に触れて、もっと言いたいことが生まれてきたら、続きを書いていく予定でいます。

 まぁ私より悲惨な人もいらっしゃいますので、その人に比べれば私も恵まれているほうだとは思います。

 でも今の若者と比べれば、貧しいほうだと思います。

 とくに感情の貧しさは疑いようもありません。

 これを克服しないかぎり、私が小説で成り上がるのは「不可能」なのです。

 なんとか文章で感情が書けるくらいには、真人間になりたいとは思います。

 思っても環境が変わるわけでもないのですけどね。



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