第42話「月の墓標」(完)

 春先になってようやく絵が完成した。

 それはもう三月に入った頃だ。


 絵は、一つ変化した点がある。


 春の町並みを眺めている二人の男女の上空に、うっすらと海が溢れたのだ。

 現実ではありえない光景だけれど、ぼくたちは自分のいる街と、その海を眺めている。


 人の一生は一つの色彩豊かな物語で、誰しもが苦悩するだろう。

 誰かを妬むこともあれば、恨むこともある。


 ないものねだりであるものには目を向けないのが人間のさがだ。

 そんな中で、一度も心の波が立たないなんてことは、どうしたって無理な話である。


 だからこそ、空に海を重ねた。

 それが思いあぐねていた最後のピースだったのだ。


 ぼくはもう波紋を恐れない。

 どれほど強い風が吹いて水面が揺れても、それが生きるということなのだから。

 

 二人の背中には、絶望を受け入れた力強さと希望があった。


 ぼくはそれを陽子さんの家に郵送した。

 直接見せるのが、どうしても気恥ずかしかったのだ。


 返事が来たのはその二日後である。

 手紙には、製菓学校に入学した旨が書かれていた。

 無事に合格したらしい。


 その下には、


 素敵な絵を、ありがとうございます。

 この絵のように、私たちもずっと手を繋ぎたいです。


 そう書かれていた。


 ぼくは手紙をそっと机に置いて、思い出したように、陽子さんからもらったオルゴールのゼンマイを回す。

 歯車が回り、春の夜に、美しい月の音色を奏でてくれた。

 

 モネの睡蓮も、ぼくにはただの絵に成り下がった。

 でも、それでいいのだ。

 この絵に特別な意味はもう要らない。


 ぼくは、1カートンの最後の一本に火を点ける。

 この二か月、ちびちびと吸っていた残りだ。


 部屋の窓を開けると、春の晩はまだ肌寒いけれど、雲一つない星空だった。

 窓辺に寄りかかって、煙を吐く。


 繊細で胸がときめくような音色が、心に染み渡るのをぼくは感じた。


 月が、今夜も皓々と輝いている。

 二人で見た、黄金きんの星。


 ぼくは幸福を噛みしめながら、時間を忘れたようにそれを眺めた。


 お父さんの埋葬された月の墓標を、いつまでも、ずっと……。

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月の墓標 深雪 圭 @keiichi0509

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