0x0C 戻らない日常

 翌日の朝、目覚めは意外とすっきりしていました。

 起きて朝のお肌の手入れをしながら目元を確認しましたが、特に赤くなってもいません。当然です、昨日は泣く理由なんてありませんでしたから。ええ。

「砂橋せんぱーい、起きてくださーい、美味しい美味しい朝ごはんを食べそびれちゃいますよーっ」

「んむぅ……今からそのサイズのロジックを入れるのは無理ぃ……このサイズのシリコンに入る訳ないじゃん……アタシが死んじゃう……」

「夢の中でまで設計しないでくださいよ、心が休まる暇も無いじゃないですか。ほら、おきてくださーい」

 それから、夢の中でまで仕事をする砂橋先輩をばしばしと叩いて起こします。

「もう十五徹なんだ、許してくれぇ……今日は寝ないとほんとに死ぬって……」

「どんな夢見てるんですか……」

 だいぶバイオレンスな夢を見ているようでした。そんな夢から早く起こしてあげるのも、後輩なりの優しさということにしておきましょう。

 というわけで粘る砂橋先輩を無理やりベッドから引きずりだすと、ようやく目を覚ましてくれました。

「うう……おはよ道香。最悪な夢を見たよ」

「十五徹して作ったチップにえらく大きなロジックを追加で入れてくれって言われる夢ですか?」

「え、凄い、エスパーかな?」

「全部口に出てましたからね。ささ、早く着替えちゃってください。本当に美味しい朝ごはんを食べ損じちゃいますよ」

「っと、それは損失だ。ホテルの人から怒られるギリギリを攻める氷湖を見なきゃ」

「あ、あはは……」

 そんな話をしながら砂橋先輩の着替えを手伝って、なんとか朝食会場に辿り着きます。当然ながら、既に皆さんは集まっていましたが……なんだか、雰囲気が変です。

「おっはよーっす」

「おはようございますっ」

「おはよう、結凪、道香」

「うーっす。よっしゃ、行くか」

「行こうぜ、そろそろ時間がヤバい」

 挨拶をした感じだと、皆さんは問題無さそうです。少なくとも狼谷先輩や柳洞先輩、杉島先輩は元気そうに見えました。

「おはよ、お兄ちゃん」

「おっはよー」

「ん、おはよう道香、砂橋さん」

 そしてお兄ちゃんも、昨日のことがあったのに笑顔を見せてくれました。お兄ちゃんも大丈夫そうです。

 ……実は、こんな確認をしなくても判ります。この雰囲気の源は、蒼先輩でした。

「蒼も、行くよー?」

「……」

「蒼先輩?」

「っと、ごめん。何?」

「もうレストランに入りますよ、行きましょう?」

 砂橋先輩に声を掛けられても返事をせず、私がつついてようやく現実に帰ってきたようです。

 蒼先輩は、明かにぼーっとしていました。それだけじゃなくて、普段の快活さはどこか鳴りを潜めていて、なんだかいつもとは違う雰囲気です。

「今行くわ」

「どうしたの、寝不足? ぼーっとしてたけど」

「ん、まあ……そんなところよ」

 寝不足。昨晩は、何かをしていたのでしょうか。わたしはそれどころでは無かったので、混ざれなかったことが残念です。

――そんな、楽観的なことを考えていたのですが。

 レストランに向かって歩いていく途中で、ちらりと蒼先輩から視線を浴びて……私は思わず足を止めてしまいました。

 その目は、言葉よりも雄弁に語ります。見守るような、それでいて中に何かを抱えていらっしゃるような、そんな相反する二つの感情を抑え込んだ目です。

 わたしに向けられた視線の半分は正解なのです。射貫くような後者の視線は、私が待っていたものそのものでした。ほぼ間違いなくお兄ちゃんのことでしょう。

 ですが、問題は残り半分。見守るような優しい視線は、ただの後輩を見守るものとは違うように見えました。

「……えっ?」

 まるで……仲睦まじい二人を見守るような、そんな感情を感じて。

 わたしの背筋は冷たくなりました。

 昨日の出来事は、私は誰にも言っていません。それこそ砂橋先輩にも。

 ですから、お兄ちゃんに私が想いを告げたことは……勘のいい砂橋先輩や柳洞先輩あたりは気付いているとは思いますが、だれも知らないはずです。

 お兄ちゃんも、自分からそういうことを口にするタイプではないでしょう。付き合い始めたとかならともかく、今の段階で広めるようなことはしない人です。

 ということは。

 もしかして……昨日の夜の逢瀬を、見られていたのでしょうか。

「ど、どうしよう……」

 だとすると、蒼先輩はもしかしたら誤解してしまっているのかもしれません。

 わたしとお兄ちゃんが、その……特別な関係になったと。

「そんなこと、ないのに」

 そう。

 そんなことは……あり得ません。

 もしそうだとしたら、誤解を解かないと。

 ですが、こんな皆さんが居る前でそんな話をすることも出来ません。

 レストランへと向かう蒼先輩の背中を見つめたまま、わたしは立ちすくんで動けなくなってしまいました。

 わたしは、どうすればよかったのでしょうか。



 アメリカ、オレゴン州ポートランド近郊のとある町。

 よく人の集まっている地元のバーに、一人の男の姿があった。

 細身で、長袖のシャツにジーンズとパーカーを合わせたカジュアルな服装。

 何かに取りつかれたように眼の光の薄いそのアジア人の男は、一人でそれなりに値段の張るウイスキーを味わっていた。

「よう、なんだかんだで久しぶりになっちまったな。元気にしてたか?」

「……久しぶりだな、小市。俺はまあ、ぼちぼちってとこだ。お前も元気にしてたか」

 そこに、もう一人のアジア人がやってきた。同じように細身でこそあるが、もう少しカジュアルさの薄いフォーマルな格好をしており、何より眼鏡の奥は楽しそうに輝いていた。

 小市と呼ばれた彼は流ちょうな英語でビールとステーキをオーダーすると、男の向かいにどっかりと腰を落ち着けた。

「元気も元気さ、当たり前だろ。お前んところが一杯買ってくれるからな」

「それもそうか。奥さんと娘さんは元気にしてるか?」

「……ああ、妻なら元気にしてるよ。日本に帰っちまった道香も一人で元気にやってるってさ」

 小市が開けた微妙な間は、男の事情を慮ったからだった。

 その男は妻を亡くし、一人遺された息子とは絶縁状態にあると聞いていたから。

「それなら何よりだ。元気なことが一番だからな」

 気遣いを敏感に感じ取った男は、鼻で笑って見せた。

 二人は、二十年ほど前に大学で出会ってからずっと気心の知れた仲。そんな気遣いを無用だと言わんばかりの男の態度に、小市は小さく頭をかいて見せた。

「お前の方のプロジェクトはどうなんだ?」

「ああ、アルダー・レークはひと段落したよ。ようやく落ち着いて時間が取れそうだ」

「そうかそうか、お前もずっと忙しそうだったからな」

「そういう小市も、ずっとロンラー・メーターズの中に籠りっぱなしだったじゃないか」

「仕方ないだろう、材料系とはいえお前んとこの製造と一緒に共同開発してるようなもんだ。むしろ思ったより立ち上がりが良くて驚いてるくらいだ」

 男のリュックの中には、Intechの社員証が潜んでいる。社内の最重要プロジェクトだったアルダー・レークの設計主任になっていた彼は、まさに今日最終製品になる設計をフリーズさせたところ。

 これからその設計は物理設計に渡り、最終的にはあと数か月で製品として市場に出るだろう。

 一方、小市と呼ばれた男の鞄には上越化学と書かれた社員証と、Intechの入館証が一緒にぶら下がったネックストラップが入っている。

 彼は半導体材料の専門家として、Intechの先端製造技術を開発しているロンラー・メーターズと呼ばれる拠点に派遣されていた。小市が携わった新しい技術は、男が設計した半導体の製造に活用されるだろう。

「お互いに大変だな」

「本当にな。楽しいからいいんだが」

「はーい、ビールとステーキ、ここに置くよ」

「おお、ありがとう」

 お互いの激務を湛え合ったタイミングで、ちょうどよく小市が頼んだものが届く。小市はグラスを小さく掲げると、それに男も習った。

「お互い、無事に生きてることに乾杯だな」

「ああ、そうだな」

 ガラス同士のぶつかる小さな音は、店内の喧騒に紛れてすぐに消える。

 一口ビールを飲んでからアメリカらしくぶ厚いステーキを口にした小市は、酒の肴になりそうな話を一つしようと思っていたのを思い出した。

「っと、そうだ。面白い話があったんだ」

「面白い話? お前が面白い話って言うのも珍しいな」

 そう言って小市は自分の鞄を漁ると、タブレット端末を取り出す。

 慣れた手つきですいすいと画面を操作すると、一つのウェブサイトを表示して見せた。

「弘治くん、こっちに来るぜ」

「……は?」

 その反応は、もはや六年近く会っていないのだという男の息子とよく似ていた。

 タブレット端末を受け取った男は記事に目を落とす。

 表示されていたのは、日本でコンピューター系のニュースを扱うサイト。アジア高校計算機設計競技会の結果の記事だった。

 その写真に写っていたのは、紛れもなく男の息子の姿。

 もうだいぶ背が伸びて、顔も変わってきたとはいえ……何年かぶりに見る、可愛い息子の姿だった。

「そうか、あいつが来るのか」

 男は思わず天井を見上げた。感動と後悔のない交ぜになった感情が胸を走り、衝動的に強いアルコールを呑み下す。

 小市はそんな男の姿を見て、苦笑いを見せた。男の苦悩をよく知るだけに、自分だけは味方で居てやろうと考えていたから。

「どうだ? 久しぶりに会って話をしてやったらいいんじゃないか」

「……いや、もう遅いよ」

 アルコールと共に漏れたのは、一言の諦念。

 それでも、男はスマホを取ると何かメールを打ち始めた。

「最後に親として出来ることを、してやるとするか」

 その目は、さっきまでとは異なり多少の光を取り戻していた。


 件名: 世界高校計算機設計競技会 Intechエキシビションチームの出場依頼


――――[To be continued in Over the ClockSpeed! C-0 Stepping]――――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Over the ClockSpeed! Ⅱ 大野 夕葉 @Ono_Yuha

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ