0x0B 告白

 十月十二日、今日も相変わらず台湾は温かい。

 そんな中、僕たちは多分最も気温の上下と無縁な場所に居た。

「うお……」

「すっげ……」

「へーっ、やっぱり訳が違うねえ」

「こんな風になってるんですねえ……」

 頭上を駆け抜けていくのは、僕たちが使っているのより一回り大きいFOUPを抱えた搬送ロボット。速度もうちのファブのAHMSよりよっぽど速い。

 そう、僕たちが居たのは昨日のビルに隣接しているTSMIの半導体工場だった。

 Fab12Phase1、省略してF12P1と呼ばれるここでは、十二インチウエハ、つまり直径三十センチという大きなサイズのウエハを使った量産ラインが、まさに今半導体を作っている真っ最中だ。

 ウエハのサイズは、当然一枚から取れる半導体の数に直結する。だからTSMIのような大規模量産を行うところでは大きいウエハが望まれる。

 一方、僕たちのようなテストチップ程度の製造であればそこまで大きなウエハーでなくても問題ない。だから僕たちのFabで使っているのは八インチウエハー、直径二十センチのものだ。

 本当は僕たち学生が扱う程度であればもっと小さくてもいいのだけど、中古で落ちてくる装置がこのサイズなのだという。

「写真を撮れないのが、残念」

「機密の塊だから仕方ないわよ、諦めなさい」

「それにしても、作ってるプロセスルールすら教えてくれないんだな」

「超先端プロセスではないんだろうけどね、こうやって僕たちに見せてくれるってことは」

「ん、あの装置知ってる。確かあれは――」

「氷湖、それ以上はやめとこ? 下手したら帰れなくなるよ」

 当然、ここにはカメラの持ち込みは禁止。金属探知機まで通って、飛行機に乗るのかと思うくらい厳重なセキュリティチェックを受けた。

 確かに蒼の言う通り、何ナノメートルプロセスの工場かも教えてくれないくらいのセキュリティなのは、半導体製造に多くの企業秘密が関わってくるからだ。

 一枚の写真からだって、それこそ狼谷さんのような専門家が見るとどの程度のプロセスにどんな機械を使って、という情報が全部漏れてしまうから仕方ないのだろう。

 僕たちを始めとして、他の国のチームの人たちも防塵服を着こみ、顔もマスクで覆っている。それは当然、ここも部室のファブ同様クリーンルームだから。

 ちなみに、ファブを学校に抱えているのだという僕たちや中国、それに台湾や韓国チームの人たちはスムーズに着替えてエアシャワーまで浴びていた。確かに当然で、手順としては基本的に学校のクリーンルームと同じだからだ。

 一方、学校にファブを持っていないチームの人たちはTSMIの人たちから教わりながら悪戦苦闘して着替えを行っていた。こんなところでも経験の差が出るんだな、なんて思いながらクリーンルームの中を歩く。

「それにしても、ひっろいな……」

「反対側の壁が見えないわね」

 このファブは、幅二百五十メートル強、奥行百十メートル強、高さ二十二メートル以上という巨大な建物だ。敷地面積三万平方メートルというこの工場では、実際にウエハーに回路を作りつける前工程の作業を行っているのだという。

「うちのファブもこれくらいになりませんかね?」

「そしたらNEMCエレクトロニクスの製造受けれるんじゃね? 部費爆増じゃん」

「そんなことしたら氷湖が死んじゃうでしょ……」

 そんな話を小声で交わしながら、うちのファブの何十倍という数の装置が立ち並ぶクリーンルームを進んでいく。

 TSMIは製造だけを専門に行う会社なだけはあり、AMTやQuanCommといったファブレスの会社はもちろん、IntechやNEMCエレクトロニクスといった自社の工場を持っている会社からも製品によっては製造を受けていると言っていた。

 だから僕たちも部の製造キャパを増やせば製造委託を受けられるようになるのかもしれないけど、よくよく思い出してみればJCRAから払い下げられた製造装置で作った半導体の販売は禁止されていた。ダンピングになってしまうから当然だ。

 数分進むと、見慣れた光の色のエリアに入った。セーフライトだ。ということは露光まわりの製造ラインがあるに違いない。

「ここに並んでいるのが露光装置ですね。ファブがある学校のみなさんは見慣れているかもしれません」

「やっぱり露光か」

「明かりが部活のと同じ色。ということは、たぶんArFの露光ライン」

「セーフライトの色も、露光に使う光の波長で決まるんだもんな」

「そう。……あの装置、多分うちの部にある装置の三世代後」

「よくわかるな……」

 予想は当たりで、製造工程の中で光を扱うエリアだった。地味に特殊能力を発動させている狼谷さんも、なんだか少し興奮しているように見える。

 そう言っている間に、輸送ロボットが天井からアームを下ろし、装置に繋がっていたFOUPを掴んで上昇していく。八割ほどアームを引き込み終わったタイミングで、ゆっくりと輸送ロボットは動き始めた。

「ここで露光をして、すぐ近くにある装置で現像をします。それから、イオンを打ち込んだり、様々な素材の薄膜を付けたりする装置へと運ばれていきます」

 英語の解説に何とかついて行けるのは、発表練習の時やそれ以外でも狼谷さんから色々と教えてもらっていたからだろう。なにしろ英語で技術用語の話をされてしまうと、単語を知らない限り一つも意味がわからない。

「やっぱおかしいよな、製造工程で誤差数センチもないUFOキャッチャーを何百回もやるんだぜ?」

「コンピュータの成せる技だよな」

「半導体の生産には、半導体がもはや不可欠ですから」

「最初のトランジスタを作ってた頃ならともかく、ICの時代になったらもうコンピュータ無しじゃ作れないね。アタシがコンピュータなしじゃ生きてけないのと一緒だ」

「いや、結凪は別にコンピュータ無しでも生きてはいけるでしょ」

 その精度と速度は自分のところで見慣れているはずなのに、改めて色々と感想が出てきてしまうのはさすが商業ファブだ。効率を極めると芸術になるとは誰が言ったものか、僕の頭にはその言葉が浮かぶ。

 さらに工場見学は進み、クリーンルームは一通り見学させてもらい。クリーンルームを出てから、一つの部屋にやってきていた。

「ここは水再生室です。半導体を作るときには様々な薬品を使います。その薬品をそのまま流してしまうと、大惨事になります。なので、使った水は全ての薬品を取り除き、綺麗にしてから排水しています」

「こんなところもあるのか」

「あら、シュウ知らなかったの? うちの部にもあるわよ、同じような部屋」

「え、どこに?」

「二階の階段上がった先の機械室よ。あそこはそういう環境系の部屋」

「クリーンルーム用の空気を供給する装置とか、排水浄化装置とかが入ってる」

「そうなのか、知らなかった……ってか、そんなに危ないガスを使うのか」

「例えばそうだな、青酸ガスとか?」

「え?」

「青酸ガスは結構使うわよ、洗浄工程とかで重金属を除くのに。銅汚染を防いだりするには必要不可欠」

 宏がぽろっと口に出した青酸ガスといえば、確かちょっと吸うだけで人が死ぬような危険な毒ガスだ。そんなガスを製造に使っているのは今知った。

「製造室とかオフィスエリアの上に赤色灯がある。あれは青酸ガス警報」

「そ、そうだったのか……」

「あれが点滅し始めたら即屋外避難。命に関わる」

「知らなかった、気を付けよ……」

「それ以外にいろんな薬品を使うのは知ってるだろ?」

「まあ、加工の度にいろんな薬を使うのは知ってる」

「その廃液も全部流したらヤバいことになるぜ。そうだな……多分川にそのまま流したら、シュウの家の近くのあの川の魚がことごとく浮くな」

「地獄絵図じゃん……」

「だから、浄化設備が必要。手違いや故障があってもいけないから、月に一回は学校指定の業者が点検に来てる」

「あー、時々やってるあの設備点検か」

 確かに、大体月に一回機械室に業者が入っているのは見ていた。なんだろうと不思議に思って居たけど、真相は浄水装置の点検だったらしい。

「それに、排水にはセンサーがついててね。ちょっとでも規定値を超えた排水が出た瞬間にファブの操業を強制的に停止させるようになってる」

「げ、それはもし引っかかったら大ダメージだな」

「そう。だから、私もよく気にしている」

「まさか、製造工程がそんなに危険な物を一杯使ってるとは思わなかったよ」

「だからこそ、科技高は既存の半導体事業者のすぐ近くに作るのよ。そういう危険なガスとか薬品を扱うところなんてそう多くないから」

「そういう理由もあったのか……」

 思わぬところで科技高が既存の半導体工場の近くに設立されている理由も知ることが出来てしまった。

 そんな勉強になる工場見学もお昼過ぎには終わって、昨日と同じようにお昼ご飯をやけに広い社員食堂で食べて。

「十三時半、時間だな」

「呼ばれなかったってことは、ちゃんと動いてたってことだよな?」

「だと思うよ。少なくとも、予備一台でなんとかなる状況のはず」

 食事が終わって皆で昨日プレゼンに使った会議室へと戻る最中、性能測定終了の時間を迎えた。

 ほかのチームも少しざわついている。きっと僕たちと同じように、正常に走り切ったか心配しているのだろう。

 部屋に戻って昨日と同じように指示された机に座って数分。運営に協力をしているTSMIの社員の人たちが入ってきた。

「お待たせしました、皆さんのシステムの性能測定が終わりました。各自コンピュータールームへ向かい、片付けを始めてください。二時間後、十五時四十五分から結果発表をします」

 その宣言を受けて、僕たちも立ち上がると隣のコンピュータールームへ戻る。真っ先にやることは、最後まで最初の三台できちんと走り切ったかどうかの確認だ。

 とはいえ、検証はしっかり日本でしてきた。ここで上手く動いていないとは正直思っていない。皆もそのようで、システムへと向かう足取りは軽い。

「システムはどう? 落ちてない?」

「えーっと……ん、大丈夫そう。ログをちゃんと見ないとわかんないけど、少なくともエラーで落っこちた形跡はないよ」

「はーよかった。これで『イリーガル・インストラクション』とか出してたら終わってたよ」

「いや、それは流石に事前に見つけられるでしょ」

「わかんないぜ? 俺らに嫌がらせみたいな『組み込み関数』使ってたかも」

 少なくとも、僕たちの側では正常に終わっていることが確認できた。TSMIの人に呼ばれたりもしてないし、正常に二十四時間動いてくれていたようだ。

 他のチームを見ても、皆満足げにシステムを解体している。

 何より、CPU甲子園でも一度嗅ぐことになったあのプラスチックの燃えるような香りがしない。さすがは代表の集うアジア大会、脱落したチームは無いようだ。

「えーっと、提出データは……ん、バリッドにチェック入ってるから大丈夫だ」

「んじゃ、電源落とすよー。救出しなきゃいけないデータ無いよね?」

「無いよ、大丈夫」

 前のスクリーンには、データの送信状況も書かれている。当然のように全チームのところにはヘルシーとバリッド、健康と有効を意味する二つのチェックが入っていた。

 つまりは、全チーム完走だけでなく全チーム正常終了しているということ。予備が必要になったり、故障したりしたチームはなかったらしい。

「格の違いを感じるねえ」

「だな。IP大会とはわけが違うや」

「いや、さすがにIP大会と比べたらかわいそうでしょ」

「燃えたり、弾けたり。賑やか」

「そういう意味では面白味には欠けるかもしれませんねえ」

「いや、大会で燃やすのはダメなのよ?」

 そんな軽口を交わしながら、システムの電源を落として片づけを始める。昨日取り出した箱にシステムを戻し、梱包して発送の準備をするのだ。

 もちろん、行きと同じように海外発送になるから適当に梱包してはいけない。CPU甲子園から送り返したときより幾分きっちりとプチプチを詰めて梱包して、ガムテープで留めて。

「鷲流くーん、伝票持ってきたけど書き方わからないから教えてー」

「わかった、ちょっと待っててくれ」

「私も手伝いますっ」

 もちろん国際発送になると伝票も違う。台湾に向けて発送するときに初めて使った国際宅配便の伝票は英語で書かないといけないから、日本で宅急便を送るのとはわけが違った。

「えーっと、ワカマツサイエンスアンドテクノロジーハイスクール、と」

「つける書類はこれね、これがないと税関通らないから」

「さすがお兄ちゃん、準備いいね」

「最初こっちに送るときに忘れてて、事務の人に教えてもらったんだよ……」

 税関を通す書類をつけたり、普段は気にしない原産国を書いたりして伝票を完成させると、箱に貼る。この作業を箱の数分繰り返さなくてはいけない。今回は四箱あるから四つだ。

「よーし、できたっ」

「これで発送準備はオッケー、ですね」

「手伝ってくれてありがとう、助かったよ」

 十五分ほどかけて書類の準備をしている間に梱包も進んでいて、箱に伝票を貼ることで発送準備が整った。梱包のほうは手馴れていたとはいえ、いかんせん数が多かったりするから時間は掛かってしまった。

「終わりましたか? では、こちらであとはやっておきますね。あと二十分で結果発表ですから、座って待っていてください」

「ありがとうございます、お願いします」

 バーバラさんに残りの発送手続きをお願いして、僕たちは部屋へと戻る。机に座ると、静かな緊張が僕たちを包んだ。いまから出来ることは、正真正銘何もないのに。

「なあ、結果はどうなると思う?」

「さあなあ、悪くは無いと思うんだけど」

 悪くはないだろう。これが、僕たちのなんとなく一致した見解だ。それは、逆に言えば一位を絶対に取れる! という意気には欠けている。

 CPU甲子園の時の、限界まで追いつめられた結果の輝きからは遠く感じて。

「お待たせしました、結果発表を始めます。皆さん席についてください」

 いよいよ結果発表が始まると、スライドに性能情報が表示されていく。性能部門でも、日本のように順位ごとの発表ではなく、昨日発表した通りの順番で結果が発表されいた。

「日本、若松科学技術高校。18.8GFLOPS」

「んー、やっぱちょっと低いなあ」

「悪くはないんだけど……」

「まあ、こんなもんかあ」

 周りから拍手を浴びながら、僕たちは結果の数字を見て。

 それでも、まあこれだけ出来れば十分か、という結論に収まってしまった。

「一位を搔っ攫えなかったのは残念だけどね」

「いや、あれはすげえよ。さすが台湾チームだ」

「わりと僅差ではあるんですけどね」

 それにはもちろん理由がある。一番最初に発表された台湾チームの性能を、僕たちのチームは超えられなかったからだ。

 向こうの記録はやはり20GFLOPSと少し。だからこそ、僕は後悔に苛まれていた。

 あの時、お前が妥協をしてコードフリーズを掛けたから。

 あの時、お前が回路の修正を掛けることを認めなかったから。

 お前がプロジェクトリーダーとして未熟だったから。妥協に妥協を重ねたから、こうなったのだ。

 思い返せば、幾らでも頑張ることができた。そう考えてしまう自分自身が自分のことを責め立てる。

 もちろん、病み上がりの蒼に難易度が判らない修正を無理やり依頼することもプロジェクトマネージャーとして正しいとは思えない。

 でも、蒼は?

 やりたかったのを、無理やり押しとどめてしまったのではないか?

 その考えは頭を振っても消えなかった。

「それでは、全チームの性能発表は以上となります。上位三チーム、台湾、シンガポール、日本の三チームが来年三月に開催されます世界大会への参加権を手にしました、おめでとう!」

 最終的には台湾チームに僅差で敗れたシンガポールチームが二位に滑り込み、僕たちは三位に落ち着いていた。入賞した賞状と盾を貰ったけど、やっぱりCPU甲子園の時ほどの感動はない。

 昨日はちょっと背中を押してくれた肯定感も、後ろ向きな後悔でかき消されていて。

 皆を見ると、やっぱりなんだかすっきりしていないという雰囲気。そんな不完全燃焼な中、僕たちはアジア大会を終えた。

 昨日と同じように、バーバラさんに車で新幹線の駅まで送ってもらう。

 当然ながら、ここでバーバラさんとはお別れだ。二日間たっぷり面倒を見てもらった恩は、忘れようとしても忘れられるものではない。

「皆さん、今日までお疲れさまでした。改めて三位入賞おめでとうございます」

「ありがとうございます。バーバラさんも、ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 全員で感謝を口にすると、挨拶としてお辞儀ではなく、台湾流で握手を一人ひとり交わす。それからバーバラさんはもう一度花が咲くような笑顔を見せてくれた。

「私、皆さんとお話しできて楽しかったです。台湾に遊びにくることがあれば、是非声を掛けてください。今度はいろんな観光スポットを案内します」

「その時は是非お願いしますっ」

「逆にもし日本に遊びに来ることがあれば、是非会津若松にいらしてください! 田舎ですが……冬には、雪が見れます」

「絞り出したのがそれかよ……」

 道香が絞り出したのはあまりにも悲しい現実。確かに、会津で冬といえば……雪。スキーと温泉くらいしかない。

「雪ですか! 是非是非冬に行きます!」

「え、思ったよりも反応がいい。お兄ちゃん、若松も悪くないかもよ」

「僕もちょっとびっくりしてるよ」

「あー、その、台湾は平地で雪が積もるっていうのはとっても、とっても珍しいことなので……日本の作品で人が埋まりそうなほど積もった雪とかを見ると、ちょっとあこがれちゃうんです」

「あはは……冬に来れば嫌というほど見れますよ」

 でも、どうやら雪が逆にバーバラさんには大ヒットだったようだ。確かに、沖縄よりもさらに南の台湾で雪が身長くらいまで積もるなんて想像できない。

 もしかしたら、僕たちが南国に憧れるのと同じものを雪国に対して感じているのかも。

「そうだ、連絡先をお渡ししておきますね」

 それから名刺を貰って、今度こそお別れだ。

「それでは、みなさんお気を付けておかえりください!」

「ありがとうございました!」

 ぶんぶんと手を振って、社用車へと向かうバーバラさん。乗り込むまで見送った後、貰った名刺に目を落としてみる。

「えっ、R&D、プロセスエンジニア!?」

「ちょっ、最先端のプロセス技術者じゃない」

 そして、全員で驚愕した。R&Dとは研究開発ということで、最先端の技術を研究していることを意味する。

 その上でのプロセスエンジニアとなれば、5nmや4nmプロセスといった最先端プロセスを開発しているという訳で。

「狼谷さんとか、もっと話せばよかったんじゃねえか?」

「……」

「えっ、ちょっ、狼谷さん?」

「あまりの出来事にフリーズしてるね……」

 道香がゆさゆさと揺すって復活した狼谷さんは、帰ったら絶対にメールを送ると宣言をしていた。

 こういう繋がりが増えるのも、交流をメインにしたこの大会の意味なのかもしれないと思えば、重たい心も少し軽くなる気がした。

 新幹線に乗って、台北駅に戻り。

「今日はみんな身軽だし、台湾まで来たんだから折角だし屋台に行こうぜ」

 という宏の一言で逆方向の地下鉄に乗って、かなり有名なのだという夜市を訪れる。

 日本ではなかなか見ない大量の出店とカラフルな電飾に翻弄されながら歩く夜市は、当然初めての体験だ。

「ひえーっ、やっぱりアジアですねえ」

「そっか、桜桃ちゃんはアメリカだもんな」

「そうなんです、なのでこういうのは初めてで」

「っし、んじゃあこの辺のお店に入るか」

「あら、美味しそうじゃない」

「あっ本当です、って氷湖先輩もう座ってますし」

 相変わらず手馴れた宏の手助けを受けながら、皆で好きなものを注文する。

「このルーロー飯ってやつ美味しかったぁ、八角あればウチでも作れるかな」

「牛肉麺もなかなかだった、宏が良さげだって言うだけあったな」

「弘治もオレの目の良さがわかってくれたようだな」

「ああ、否定できん。それはそうとお前臭いぞ」

「僕が臭いみたいに言うなよ、臭いのはこの残った汁だよ! だけど、臭豆腐って奴も意外と食べれるもんだな」

「俺たちも腐った大豆を食べてるからな」

 出てきた料理は想像通りだったり想像とはちょっと違ったりしたけど、皆で美味しい屋台料理を堪能することができた。

「オレ、もうちょっと食べれそうだな。狼谷、手伝う……え、全部食べたの?」

「さすがに、おなか、一杯……」

「いや、でしょうよ……」

「お店の人が化け物を見る目で見てるぜ」

「でも、どれも、美味しかった……」

 狼谷さんが何を思ったか麺類を六品くらい頼んでしまう事故を起こしていたけど、きっちり一人で完食しきったあたりがさすがだ。

 その後は腹ごなしに適当に夜市を散歩しながら雰囲気を味わい、ほどほどに堪能したところで地下鉄で宿へと戻る。

「はぁー、今日は面白い一日だったな」

 ベッドにどすん、と横になった宏が感慨深げに言葉を漏らした。

「結果はまあ、こんなもんかって感じだったけどな」

「でもよ、ついにこれで僕たちもアメリカ行きだぜ? ありえねえよなあ、弘治」

「そこで僕に振る? いや、そうだけどさ」

 思わぬキラーパスを受けて、生返事になってしまった。

 そうか、これで僕もアメリカに行くことになるのか。

 今まで記憶から消していたそのことを改めて扱おうとしたとき、僕の携帯が震えてメッセージが届いたことを伝えた。

「ん、WINEだ」

 ポケットから携帯を取り出して文面に目を通す。内容を確認してすぐに、僕は予備のカードキーを手にした。

「ん、どうしたんだ?」

「ちょっと出てくるわ、一時間半くらい帰らないと思う。なんかあったらWINEしてくれ」

「なんだよ、お出かけか?」

「んー、まあ、そんなとこだ」

 そう言って外出の準備だけ整えて部屋を出る。エレベーターで一階に降りると、WINEの送り主の元へと向かった。



 いつも私の手を引いて、前を走ってくれていたシュウ。

 隣に引っ越してきた時からどこか影を見せる時があるとは思ってたけど、普段の元気さに隠れて私は引っ張ってもらってばかりいた。

 だから、あの時。

 五年前――いや、もうすぐ六年になる。あの日の川沿いで、泣くことすらできずに立ち尽くしていた姿を見て、私は思った。

 今度は、私の番だと。

 あの涙が出るほど静かで、そして寂しい夜を私は忘れられない。

 だから、ふと夜空を見上げて彼に会おうと思ったのは、自然なこと。

 そう自分に言い聞かせて、不思議そうな顔をする氷湖を置いて部屋を出た。

「確かここの部屋だった、わよね」

 男子部屋の番号を確認して、チャイムを押す。合宿の時に出てきてくれたのはシュウだったから、今回も、と期待をしたけど。

「およ、蒼じゃん。どったの?」

 部屋から出てきたのは、相変わらず顔は可愛い女の子に見える悠だった。中からはゲームの音が聞えてくるあたり、宏と二人でまたゲームをしていたのだろう。

 相変わらず変わらない二人に思わず苦笑いがこぼれた。

「ん、いや、何があるってわけじゃないんだけど」

「あー、シュウか? あいつならなんかどこか行くって言って出てったぜ」

「へっ?」

「違うのか?」

「いや、うん、んむむ……」

 でも、そんな悠は昔からどこか鋭いところがあったのを忘れていた。

 私は言おうとしていたことを先に言われてしまった挙句、素直になることもできず。私に出来たのは、よくわからないうめき声を上げることだけ。

「ほれ、早く行けって。どこ行くかは知らないけど、先に行っちまうかもよ」

「あ、わ、わかったわよ」

 発破を掛けられた挙句、追い払うようにドアを閉じらてしまった。

 そう、だから。彼を追いかけているだけではなく、そういう状況になってしまったから仕方なくだ。

 そう自分に言い訳を重ねて、エレベーターに乗り込む。

 会ったら、なんて声を掛けようか。いつの間にか浮足立っている自分の心に気付くころ、目の前のドアは開いた。

 降りたってすぐ、見慣れた背中が目に飛び込む。少し心臓がはねたのを感じつつ、その背中に声を掛けようとしたとき。

「お待たせお兄ちゃん。ごめんね、呼び出しちゃって」

「いや、気にしないでいいぞ。それにしても、どうしたんだ? こんな時間に呼び出して」

 声が、聞えてきた。とっさに物陰に隠れると、改めて混乱が襲ってくる。

 どうして、道香が居るの?

 それは簡単だ、今の二人の会話の感じだと、きっと道香が呼び出したのだろう。

 では、「なぜ」道香は呼び出したの?

 それは、シュウと二人で話したかったからじゃないの?

 じゃあ、それは「何で」?

 自問自答は、出来るだけ考えないようにしていたことにどんどんと切り込んでいく。


 それは、あの子が。道香が、シュウに、好意を持っているから……なのかな。


 その推測は、私の心に鋭く刃を突き立てた。

 あの子は……伝えられるのかな。私は、ずっと隠しておかないといけない気持ちを。

 隠しておかないといけないのには、もちろん理由があった。

 きっと、表に出したらシュウを傷つけてしまうと思ったから。

 とっくの昔に「約束だから」という理由は二の次になっていたなんて、言えないから。

 思考をぐるぐると回していると、二人はどこかへと歩き始めた。

 先輩と後輩というには近すぎて、恋人同士というにはちょっと遠い――まるで家族のような。そんな微妙な距離感に見える。

 ホテルの外で、この時間から行けて、安全で。幾つかの条件を勘案すると、行く場所は一つだろう。

 ――台北一〇一。

 私は、ガラスの外に佇む美しい高層ビルを見上げた。



 お兄ちゃんと一緒に、キラキラと輝くビルの中を歩きます。

 時間は夜八時半過ぎ。豪華なショッピングモールになっている一階は、お店こそ閉まってしまっているところもありますが、テレビの中で見るようなキラキラしたところでした。

「すごいなあ、吹き抜けなんかもあるし……僕でも知ってるようなブランドのお店ばっかりだ」

「若松にはないよね、こんなの」

「あってたまるかって。あったとしても、こんな綺麗にはならないよ」

 わたしは、今日これからを楽しむと決めていました。

 だって、大切な思い出になるはずの日ですから。

 だから私は、先輩の手を取って輝く通りの間を小走りで進みます。

「行こっ、お兄ちゃん」

「っと、走るなって」

 私が楽しそうにすれば、お兄ちゃんも楽しそうな笑顔を見せてくれました。

 きっとお兄ちゃんの心は、今もささくれ立っているのだと思います。

 今日の結果も、はっきり言って悔しいものでした。わたしだってもう少し何かできたはず。わたしもそう思うくらいですから、プロジェクトをまとめて、色々な決断をしてきたお兄ちゃんも苦しかったはずです。

 それでも、私には笑顔を見せてくれるお兄ちゃんが大好きでした。

「っと、エスカレーターを上るみたい」

「みたいだな。なんか楽しみになってきた」

 エスカレーターを乗り継いで、上の階へ、さらに上へ。往観景台、という文字を頼りに進んでいくと、大きな受付のようなところに辿り着きました。

「チケットとか買ってないんだ、ごめんね」

「それくらい気にするなって、別にここで買えばいいんだし」

 二人で自動券売機に向かうと、日本語にも対応している券売機をタッチして切符を買いました。

 それから、映像や自動で演奏されるベルなどが賑やかに迎えてくれる通路を通り、改札を抜けて列に並びます。

「そんなに混んでなくてよかったな」

「だね。もっと混んでると思ってたけど、日曜日の夜だからかな」

「みんな明日も仕事だろうし、夜に来る人は多くないのかもな」

 混んでないとはいえ、五分くらいはエレベータを待つ時間があります。

 ふとお兄ちゃんとの会話が切れると、いよいよその時が近づいてきたことを感じました。嫌が応にも緊張してきますし、何より胸のあたりには痛みを感じます。

 ああ、こんなことなら来るべきじゃなかったな。

 そんなことを思いますが、そんな弱気は、悲しさは、寂しさは、あの日のお風呂の中に置いてきました。

「どうしたんだ?」

 っと、お兄ちゃんを心配させてしまいました。自分ではどんな表情をしていたのかが判らないくらいに考え込んでいたようです。いけませんいけません。

「ん、なんでもないよ。明日も飛行機揺れたら嫌だなー、って」

「確かにそうだな。道香があんなに揺れに弱いなんて思わなかったよ」

「あの感覚、好きな人絶対おかしいと思うんだよね。人間、本能的に落下には恐怖を感じるべきだと思うんだよっ」

「それは一理あるな。ってことは道香、ジェットコースターとかダメなクチか」

「単に高いところだけなら大丈夫なんだけど、あの感覚は無理かなあ」

 お兄ちゃんとお話を楽しみながら、心の中で胸を撫でおろします。私の動揺は伝わっていなさそうです。

 そんなことを話している間に、エレベーターの順番がやってきました。私たちは多くの台湾人の方たちと一緒にエレベーターに乗り込みます。

 ドアが閉まるとカゴの中は真っ暗になり、天井には綺麗な星のような演出が現れました。

「綺麗……」

「すごい演出、だな」

 それと同時に、エレベーターはすごいスピードで上っているのも感じます。時間にして三十秒ほどでしょうか、もうエレベーターは速度を落として。

「わあっ……!」

「これは、凄いな……!」

 ドアの開いた先に広がっていたのは、色とりどりのプラネタリウムのような景色でした。

 街灯の明かりがキラキラと煌めき、街を鮮やかに彩って。小さな通りは光の網目に、大きな通りは光の川に、そして大きなビルはまるでオーナメントのように輝いています。

 思わずわたしたちも息を呑みました。本来の目的を一瞬忘れて、眼前に広がる景色に目を奪われてしまいます。

 っと、いけません。そんなことをしている場合ではないんです。

 ……でも、天さん。

 一周だけ。そう、一周だけ。

 お兄ちゃんと二人でこの景色を楽しんでも……いいでしょうか?



「……何やってるのかしら、私」

 二人の後をつけて歩いている間に、どこか冷静な自分が嘲笑を見せた。

 輝くショッピングモールの中で、色を持っていないのは自分だけ。そんな寂寥感が私を包みそうになる。

 だから、そう。私の足を動かすのは、奥底にしまい込んでいたはずの気持ちだけ。

 二人を見失わない程度に追いかけていくと、辿り着いたのは展望台への入口だった。

 二人がチケットを買うのを見て、まばらな人になんとか紛れてチケットを買うと、エレベーター一台分くらいの人が間に入った状態で並ぶ。

 二人の話はぽつぽつと漏れ聞こえてきた。でも幸い、全部を聞き取れはしない。もし全部聞こえてしまっていたら、私はきっとここに居続けることはできなかっただろう。

 私はぼーっと立ちながら、自分の気持ちと向き合うことにした。さっき中断してしまった自問自答を再開しながら列の進みに合わせて歩く。

 彼のことが気になっていたのは、こういう状況になったから?

 違う。そんなわけない。

 そもそも、あなたのその気持ちは何?

 ……好き、なんだと思う。

 それは、あの子よりも?

 ……多分。

 そこまで考えて、二人にバレないよう気を付けながら大きくため息をついた。

 本当に、今さらだ。

 五年以上抑えていたから、てっきり熱は冷めて、穏やかな思い出になってくれていると思っていたのにな。

 こんな状況になったとたん、こんなに痛み出すなんて。

 列はさらに進み、私もいよいよエレベータに近づいてきた。二人はエレベーターに乗り込んでしまったようで、既に姿は見えなくなっていた。

 そう、このまま。このまま出会わなければいいのだ。

 だけど、私のこの気持ちは二人のことを見届けろと告げている。

 矛盾したそんな気持ちを抱えながら、数分あけてエレベーターへと乗り込む。加速していくエレベーターで感じる重力が、私の気持ちを代弁してくれているような気がした。

 ドアが開くと、そこに広がったのは輝く夜景。

「わあ、凄い……!」

 思わず全てを忘れ、エレベーターの中で澱みきった私の気持ちも押し流してしまいそうな。そんな圧倒的な景色が、眼前に広がっていた。

 ガラスに反射して映ったのは、焦燥と苦しみの入り混じった……我ながら本当に酷い顔。その頬に、自分で両手を軽く叩きつけた。

 さあ、蒼。ここまで来たのだから、きちんと見届けなさい。

 自分に喝を入れて、私は一歩踏み出した。



 僕のことをロビーへと呼び出すWINEを送ってきたのは、道香だった。

「お兄ちゃん、折角だし台北一〇一を見に行こうよっ」

 その提案に乗った僕は、楽しそうな道香と夜の小さな旅に出ることにした。二人でショッピングモールを歩き、はしゃぐ道香に手を引かれ。

 展望台の入り口でチケットを買うと、なんてことない話をしながら待ち時間を楽しく過ごした。

 ――この時に見せた、道香のあの切なげな表情。本当なら、僕はそこで気付いてあげるべきだったのかもしれない。

 それから上った展望台からの夜景は、もちろん言葉を失うくらいに美しかった。二人でぐるっと一周して僕たちを包み込む夜景を堪能すると、手を引いていた道香の足は人の少ないエリアで停まる。

 人が少ないから景色が劣るとか、そういう訳ではない。窓の外の黄金の川は今も流れ続けていて、キラキラと瞬く最高の景色を僕たちに届けている。

 それから道香はぐっ、と一回腕を引いてから、握っていた手を離した。まるで……この時間が、もう終わりだと言うように。

 久しぶりに手が外気に触れた。繋ぐことで抱えていた手の熱の主張が一気に激しくなる。

「お兄ちゃん」

 その声は、やけに耳に残った。

「……いや、『弘治先輩』」

 いままで窓の外を向いていた道香が、こちらを向いた。

 その表情は、いつもの冗談を言う楽しげな笑顔とは全然違うもので。

 切実に何かを追い求めて、でも手が届かないような。そんな、切ない表情だった。

「その、聞いてほしいことが……あり、ます」

 いつも元気で、まっすぐな道香。

 そんな道香のどんどん小さくなっていく語尾が、彼女の本気を感じさせた。

 窓の外に広がる絶景は、今やただの舞台照明に過ぎない。

 僕は、道香の思いつめた――そして、どこか寂しそうな表情から、目をそらすことが出来なかった。

「……うん」

 一度大きく息を吸って、下ろした手をぎゅっと握ったのが見えた。

「好き、です。お兄ちゃん……ちがう、弘治先輩のことが、好き」

 薄暗い展望台でも判るほどに顔を真っ赤に染めながら。

 道香はそれでもまっすぐに、僕に向かって言い切った。

「お兄ちゃんとしてとか、兄弟みたいな関係としてじゃなくて……一人の男の人として、好き」

 道香らしい素直な言葉の塊は、間違いなく僕に向けられたもの。

「だから、わたしを……あなたの彼女に、してくださいっ」

 最後の言葉まで言い切ると、道香はふはあっ、と大きく息をした。勇気を振り絞って、こうして言葉にしてくれたのはその姿を見るだけでよく分かる。

 一方の僕は、言葉が紡げずにいた。

 最初に感じたのは、驚き。

 それから、今までの彼女の行動を思い出しての納得。

 そして、最後に感じたのは……強い罪悪感だった。

 もちろん、罪悪感があるとだけ伝えるのでは意味が分からない。何しろ、その理由を自分でも把握しきれていないのだから。

 だから、その罪悪感に続く気持ちを手繰る。この気持ちの根を辿っていくと、その先にあったのは真っ暗な闇だった。

 光さえも吸い込んでしまうその闇の中で、一つだけきらめく欠片を見つけて手にする。それは、一つの寂しく、温かな思い出。

 そういうこと、だったのか。

 僕はようやく知ることができた。僕が蒼や道香に感じているほの暗い後ろ向きな感情の根源が、今はひどくおぼろげにしか思い出すことの出来ない思い出の中にあるのだと。

 今まで少しずつ受け入れてきた結末だけでなく、過程まで。

 楽しかった、そして辛く苦しく、悲しかった家族の全てを思い出して受け入れない限り……きっと、この道香の気持ちに、そして蒼に対して抱えている気持ちに、心から返事をすることはできないと、気が付いてしまった。

 吐きそうな苦しさと割れそうな頭痛の幻影を覚えながらも、僕は覚悟を決める。この生ぬるくて快適な日常は道香や蒼の好意に甘えているだけだと、自分の中でもどこか気付いていた。

 だから、そんな日常には別れを告げなくてはいけない。

 ぐるぐると僕の考えと気持ちは回る。でも、道香にしてみればただ待たされている時間だ。

 そのことを思い出した僕は、まだ言葉がまとまっていない状態で口を開こうとして……僕の唇には、いつの間にか道香の柔らかな人差し指が当たっていた。

「いいの、お兄ちゃん。そうなるのは何となくわかってたから」

「でも、道香は……」

「……わたしは待ってるよ。どんな結果でも、お兄ちゃんが決めたことなら受け入れるから」

 そう言って道香が僕に見せた笑顔は、さっきまでの切実な表情ではなく。

 ……どこか寂しげな笑顔だった。



 ついに、私は見つけてしまった。少し進んだ先、照明も薄暗くてあまり人の居ない、夜景が綺麗に見える場所だった。

 二人は静かに景色を見つめていたけど、決心したかのような表情で道香がシュウに向き直る。

「その、聞いてほしいことが、あります」

 そのシュウを見る目で、私ははっきりとわかってしまった。

 いつもは元気で、明るくて、気遣い屋な道香。

 でも、その裏にはきっと色々な熱い感情があって……それを、隠してくれていたのだ。

 そう思わせるには十分なほどに、恋焦がれて、シュウを求める。そんな、苦しいほど切ない目を彼女はしていた。

「……ああ」

 言葉が漏れるのは、止められなかった。

「好き、です。お兄ちゃん……」

 私は、道香の決定的な一言が耳に届いてすぐに展望台を後にした。階段を下りて、そのまま下りのエレベーターに乗り込む。

「そっか、そうだったんだ……」

 あの光景を見て、最初に感じたのは強い胸の痛み。それを解きほぐしていくと、顔を出したのは独占欲だった。

 後輩に意地を張っても仕方ないけど、それでも渡したくないって思ってしまったのだ。私は。

 あんなにいい子で、賢くて、かわいい後輩に抱いてしまった感情に自己嫌悪する。

 無情なエレベーターは、そこまで考えた私を五階に投げ出した。

 一人で閉まりかけのモールを歩いて帰る、その帰り道で感じたのは寂寥感。

 ホテルの前で、もう一度大きくため息をついた。

 寂しくて、嫉妬して、それでもどうしようもない気持ちが胸に渦巻いて。

「小説って、意外とよく出来てたのね……」

 その気持ちは、時々勉強の羽休めに読んでいた小説で「恋する少女」として描かれた一人のヒロインと同じ描写がぴったり当てはまった。

 甘くて苦く、触れらないほど熱くて苦しい。私の中を駆け巡っているそんな粘ついた気持ちが、恋と呼ばれるものなのだろう。

「……私、シュウのこと……こんなに好きだったんだ」

 その言葉は、誰にも聞かれることはなく。

 台北のぬるい夜風に吹かれて、夜景の一ピースへと溶けていった。



「ただいま戻りました、遅くなってすみません」

 予備のカードキーで鍵を開けて、ドアをそーっと開きます。結凪先輩が寝ていたなら、起こしてしまうのは忍びありません。

 ですが、その気遣いは無用なようでした。部屋の電気が点いていたからです。

 ……いや、心配してくれていたのでしょう。結凪先輩は、ナイトガウンを着こんでテレビを見ていました。

「んお、お帰り道香ちゃん。無事に帰ってきてくれて良かった」

「すぐそこですよ?」

「それでも心配するもんは心配するよ。ふあーあ、道香が無事に帰ってきたし、アタシは寝ることにするよ」

「っと、やっぱり待っててくださったんですね。ありがとうございます」

「いーのいーの、アタシが勝手に待ってただけだし。んじゃ、おやすみー」

 そう言うと、結凪先輩はテレビを消して大きくてふかふかなベッドに飛び込みました。寝息が聞えてくるまで、そう時間は掛からないでしょう。

 ……今日何があったのかを聞かないのは、間違いなく結凪先輩なりの気の遣い方です。不器用で照れ屋でちいさくてかわいい結凪先輩のこともわたしは大好きですから、本当はよく気にかけてくれているのはよくわかります。

 さて、ずっとこうして立っている訳にもいきません。明日はホテルをチェックアウトしたら、飛行機に乗って帰らなければいけませんから。

 とりあえず寝る準備の一環として、シャワーを浴びることにしました。温かなお湯を浴びると、嫌が応にもさっきの光景がよみがえってきます。

「わ、わたし、あんなまっすぐ言っちゃった……」

 本当はもう少し上手いことを喋ろうと思っていたのですが、出来ませんでした。お湯の熱さは関係ないはずの顔が赤くなるのを感じます。

 それが意味するのは、私もそれだけお兄ちゃんのことが本気で大好きだ、ということでした。だから、少しは誇らしいような気持ちもあります。もちろん恥ずかしい方が大きいので、それどころではありませんが。

「……お兄ちゃん、ちゃんと考えてくれるかな」

 それから思い浮かべたのは、言い切った後のお兄ちゃんの顔。

 あの深く考え込んで、そしてどこか苦しそうな、苦いような表情。やっぱり、蒼先輩との約束だけじゃない何かが……過去にあったということでしょう。

 だから、この間蒼先輩に対して「申し訳ない」と言っていた、そのきっかけを掴んでくれたと信じています。

 そうでなくては、わたしのこの気持ちを賭した作戦の意味がありませんから。

 後は、蒼先輩にもそれとなくこの出来事を匂わせて意識してもらえば、きっとお二人は上手くいくでしょう。

 わたしがお兄ちゃんと結ばれるのは……きっと、もうほとんどあり得ません。

「……あれ、なんで……」

 改めてそう実感すると、シャワーの水ではないものが頬を伝うのを感じました。生ぬるい雫はあっという間に雫を増やそうとしますが、私は前を向いて目を拭います。

「ちがう、ちがうでしょ道香。そう、まだわからないんだからっ」

 そう、答えを貰うまではまだ早いんです。まだ答えを貰っていないということは、ちょっとでも可能性があるわけですから。

 だから、涙とは……今日のところはお別れです。

 その日が来たら、たっぷりと流させてもらいますからね。

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