第38話 前を向く

 闖入者はジャージ姿だった。おそらく部活を抜けてきたのだろう。

 よほど急いでいたのか、顔が少し上気している。


「……ど、どうして葵がここにいるのよ」


「おにいちゃんから連絡がないから探し回ってたの。もしかしたらお姉ちゃんに捕まったんじゃないかって」


 その言葉を聞いて、とっさにスマホを確認してみた。

 確かに、彼女から何通かメッセージが届いている。『姉が忘れ物を届けに来まして』から始まって、やがてトラブルがなかったかにまで及ぶ。


 すっかり、一触即発という雰囲気だった。姉を睨みつける妹はいつ爆発してもおかしくはない。


「別に、葵には関係ないでしょ。これは、あたしと凱の話なの」


「何言ってるの。これ以上、おにいちゃんに迷惑をかけないで! もうお姉ちゃんの彼氏でもなんでもないんだから!」


「それは――っ!」


「とりあえず落ち着けよ、2人とも。周りにも迷惑だから」


 取っ組み合いにでもなりそうな気配を感じて、姉妹の間に割って入った。

 まさかこんなことになるとは……店を入ったときには想像もしていなかった。ここまで、葵ちゃんが心配性だなんて。


 しかし、2人の熱はなかなかすぐには収まらない。

 息を切らせて、互いに睨み合っている。ここまで興奮した様子を見るのは、どちらも初めてだった。


「とにかく。楓、俺はもう二度とお前に会うつもりはない。俺たちの付き合いは今日これっきりだ」


「……どうしてもダメなの? せめてまた友達から――普通の幼馴染としてでも」


「無理だって言われてるでしょ、おねえちゃん。往生際が悪すぎだよ」


「うるさい、葵には関係ない!」


 ばしっ――荒っぽく、楓が妹の身体を押しのける。

 意外と強い力だったらしい。葵ちゃんはよろけて倒れそうになってしまう。

 それをすんでのところで受け止めた。腕の中に、すっぽりとその華奢な身体が収まった。抱きしめるような形だ。


「平気か、葵ちゃん? 楓、お前いい加減に――」


「……ご、ごめん。あたし、ついカッとなって。でも、その」


「だ、大丈夫だよ、おにいちゃん。あの放してもらえると」


「っと、悪い」


 言われるがままに、葵ちゃんの身体から手を離す。

 葵ちゃんはちょっと畏まった表情で、衣服の乱れを直し始めた。


 それを、姉の方は微妙な表情で眺めていた。憑き物が落ちたよう――ともかく、先ほどまでの取り乱した様子はない。


 ここまで大騒ぎすると、この店に長居することはできないだろう。

 先ほどから周りの視線はずっとこちらに向いている。スマホを弄っている姿を見ると、ついよからぬ想像が浮かぶ。


「とりあえず、まだ話すなら場所を変えよう。それでいいよな」


 念を押すように、2人の顔を見比べた。

 だが、片方の反応は予想していたものとは違った。

 目を向けると、すぐさま首を振った。ふわっとしたショートヘアが揺れる。


「ううん、大丈夫。もうちゃんとわかったから。そうだよね、あたしどうかしてた。あんなことしでかしておいて、都合よすぎだよね。葵も、本当にごめんなさい」


「……おねえちゃん」


「あたし、帰る。凱、今までありがとう。そして、ごめんなさい。もう二度と目の前に現れないから安心して。パパやママにも心配かけないようにするから」


「おねえちゃん、私も帰るよ。――ということで、おにいちゃん。またね。あと、ごめんなさい」


 姉妹は揃って頭を下げると、くるりと背中を向けた。そのままコーヒーショップを出ていこうとする。


「楓」


「……なに」


 呼びかけるが、幼馴染はこちらを振り返りはしない。


「俺はもう過去にこだわるのはやめたから。だから、お前もちゃんと――」


「それ以上は、言われなくてもわかってるよ」


 ずいぶんと久しぶりに楓の本当の声を聞いたような気がした。

 俺が好きだった、はきはきとしてよく通る元気いっぱいな声を。



    ◆



 すっかり暗くなって、ようやく俺は時計を見た。

 とっくに19時は過ぎている。母親はすでに帰宅しているころだろう。


 それでも、なかなか腰を上げられずにいた。

 駅前のベンチに座ったまま、行き交う人々をぼんやりと眺める。時折、傍らの自転車を気にしながら。


 果たして、今日の話し合いになにか意味はあったのだろうか。


 最後にようやく、昔の幼馴染の姿を見た気はする。少なくとも、あの言葉は口だけのものには思えない。

 でも、本当にあいつが変わるのかは別の問題だ。少なくとも、元の姿に戻ることはない。それは、俺たちの関係と同じように。


 そう考えれば、別にしなくてもいいことだ。あいつがこれからどうしようが、俺には関係のない話だから。


 けれど俺だけの話に限れば、確かに意味はあったのだ。

 あの日言うべきことを、出すべきだった答えを、しっかりと形にできた。

 総じて、初恋は散々な結果に終わったけれど、先へ進むうえでの枷ではなくなった。本当の意味で、吹っ切れた。


 まあすぐに何かが変わるわけじゃあないんだが――


「あ、いた」


 声がした方を見ると、よく見慣れた顔がそこにはあった。

 駆け足気味にこちらの方へと近づいてくる。

 ちょっと息が弾んでいるのは、まさか今まで走ってきたわけじゃないと思うが。


「……なにしてんだ、おたくは」


「あのね、それはこっちのセリフ」


 腕組みをしたまま、奴――桐川ひめのは鼻を鳴らした。

 相変わらず、2人きりのときは尊大な奴だ。いや、ちょっとやさぐれ気味と言った方が適切か。


 向こうは、動きやすい服装をしていた。長い髪もひとつに束ねてある。

 もしかしたら、ランニングが日課なのかもしれない。それでたまたま俺の姿を見つけた……というのは偶然が過ぎる。

 俺の座るベンチの周りは薄暗い。遠目からだと、座っている人物は判別できないだろう。


「たそがれてた?」


「黄昏時はもう終わったけどな」


 言葉は知っているが、語源というか本当の意味は知らないようだ。桐川はどこかきょとんとして、首を傾げた。


 ふと、こいつの成績のことが気になった。たまに居眠りが目立つわけだが、本当に大丈夫だろうか。

 近々のテストは夏休み明けまで待つ必要がある。


「終わったの」


「どうだろ。少なくとも言いたいことは言った」


「じゃあ終わりよ。――隣り、いい?」


 返事を待たずに、相手は腰を下ろしてきた。

 突き出されるように、少し横にずれる。柑橘系の香りが、少し鼻をついた。


「夜のランニングが日課なのか」


「まさか。走るのは朝」


「……走ることは走るんだな」


「身体づくりよ」


 アイドルにそれなりに体力が必要なことはわかる。そのときの名残なのかもしれない。クラスの奴がいうには、それなりに運動神経はいいらしい。


 向こうが何も話しかけてこないので、沈黙が続く。

 その間にも、目の前を絶え間なく人々が横切っていく。会社帰り、学校帰り、あとは判別不能。ともかく、波が止まることはない。


 今日はもう、俺も電車で帰ろうか。

 このあと、自分の家まで自転車を漕ぐ気にはなれない。


「どうだった」


「……おたくの言う通りだったよ。何も変わらなかった」


「ホント? どこかスッキリして見えるけど」


 暗闇の中でも、相手の大きな瞳がこちらを向いたことに気づいた。

 でも、俺の方に横を向くつもりはない。あくまでも正面を向いたまま言葉を続ける。


「まあモヤモヤみたいなものは晴れたかもな」


「そう。まあそうなのかもね。――本当のところはね、あたしはどうなるかわからない。あたしが文句を言いたかった人は、それを言う暇なく突然いなくなったから」


「そうか」


 母親のことを言っているのだろう。以前、絶対に話したくないだろう秘密の話を教えてもらった。

 俺も桐川も身近な人間の浮気の被害にあっていた。境遇は似ているかもしれないが、肉親と恋人ではやはり違うはずだ。


 もしかしたら、桐川も思うところすべてをぶつけたいのかもしれない。

 経験した立場から言えば、その方がいい。当人に対してが一番だが、他の人にでも。想いを蓄積していくことは、呪いのようなものだ。


 再び、沈黙の時間がやってくる。

 桐川は決して、想いの丈を打ち明けようとはしなかった。そもそも、俺の思い過ごしだったのかもしれない。

 変なことを言わなくてよかったと思う。


「そろそろ帰るかな。これ以上遅くなるとさすがにしんどい」


「電車で帰ったら? 自転車預かってあげる」


 さっき考えたことを言い当てられて、少しだけ気恥ずかしかった。

 天邪鬼に、なおさら自転車で帰ろうと思えてくる。


「しっかし、わざわざくることなかったか。ハンカチ、いっぱい持ってきたんだけど」


「なんだよ、それ」


「初恋、だったんでしょ? しかも大切な幼馴染で――辛くない?」


「それはもう2年前に片がついてるさ」


 素っ気なく言って、俺は跳ねるように立ち上がった。

 くるりと、クラスメイトの方へと身体を向ける。


「一応、借りておくかな」


「ちゃんと洗って返してね」


 ニカッと笑う姿は、憎たらしに見えたけど、とてもしっくりくるのだった。

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幼馴染を親友に寝取られた俺には青春ラブコメは荷が重い かきつばた @tubakikakitubata

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