いずれのまほろば

烏目浩輔

いずれのまほろば

 つい最近まで夏のぎらついた生命力が林のそこかしこに溢れ返っていた。ところが、もう落葉樹の葉がしゅきんに染まっている。季節の移り変わりというのはなんとせっかちなものか。私はそんなことを考えながらいつもの小径に歩を進めていた。


 そのとき、一陣の秋風が吹き抜けていった。


 武蔵野の一地域である藤久保ふじくぼの雑木林。ここでの散歩は私の日課となりつつあるが、同行者は決まって妻である。

 妻は華奢な身体からだを屈めて足もとに手を伸ばすと、つむぎの乱れたすそをささっと払って整えた。

「いやな風だこと……」

 呟いた声が恨めしそうだった。

 流行りに敏感な妻は洋服を着ることも珍しくないが、今日のちは紅葉模様もみじもようの落ち着いたつむぎだ。今しがた吹いた一陣の秋風はそのすそを器用にめくりあげて、いたずら小僧のようにそそくさと逃げていったのである。

「もう吹かないでほしいわ……」

 妻は屈めていた身体を起こすと、風を睨むようにあたりを見た。そして、再び林の小径に歩を進めた。山吹色の鼻緒をとおした草履ぞうりが、小股で一歩ずつ進んでゆく。


 私は妻の遅いに調子を合わせながら、んー……、と胸の内でこっそり唸った。

 洋服姿の妻はおおむね膝小僧を覗かせているが、紬の裾がめくれあがって覗いたのはせいぜい足首まで。にもかかわらず、なにやらひどくいやらしかった。もとより露わの膝小僧。覆い隠された足首。人は秘められたものを目にすると欲情するものなのだろうか。

 などと思案している私に、妻が怪訝な目を向けた。

「私の足もとがなにか気になって? ずっと見ていらっしゃるけれど」

 言われて私ははじめて気がついた。妻の足もとを射るように見ていた。しかし、まさかその理由を正直には話せない。君の足首に興奮をもよおしてね、そのわけを思惟しいしていたんだ。

 私は小首を傾げてとぼけてみせた。

「さて、なんのことかな」

「どうして惚けるのかしら。見ていらっしゃったでしょう」

 惚けてなんかいないよ。いえ、惚けています。押し問答を続けていたとき、突然妻が私の腕にしがみついた。

「あなた……」

 私を見あげてくる妻のようすがおかしい。目がとろんとしている。例のやまいがはじまったようだ。

「すみません。また……」

 妻が不安にならぬよう、あえて軽妙な口調で尋ねる。

「眠るのかい?」

「ええ……」

 私はあたりを見まわして、大きな古木のもとに目を止めた。土も柔らかそうで落ち葉も積もっている。あそこであれば横になっても身体を傷めずに済むだろう。顎をしゃくって差し示す。

「どうだろう。あそこまで歩けるかな?」

「……がんばって……みます」

「では、あそこに向かおうか。しかし、無理だとしても構わないよ。そのときは私が君を運ぶから。なに、君は軽いからなんてことない」

 妻の身体を支えるために、彼女の細い腰に手をまわす。妻は私にしがみついたままゆっくり歩きはじめた。どうやらすでに意識がうつらうつらとしているようだ。それでもなんとか目的の場所に着いた妻は、崩れ落ちるようにして古木のもとで横になった。私は妻のかたわらに腰をおろして、彼女の頭を私の太腿ふとももに乗せてやる。膝枕が私のいつもの役割だ。

「おやすみ」

 私が言うと途切れ途切れに返ってきた。

「おやす……み…………なさ……い…………」

 さっそく寝息が聞こえてくる。


 妻はある奇病を長患ながわずらいしていた。突として睡魔に襲われて二十分ほど眠るのだ。数日眠らずに済むこともあるが、日に何度も眠ってしまうこともある。今しがたのように散歩中に睡魔に襲われることも。原因は医者の見識でも首を傾げるばかりである。

 妻はこのやまいにひどく負い目を感じているようだ。病が理由で前の夫と離縁したのが影響しているかもしれない。前夫とその家族は妻を気狂いだと決めつけて、婚礼をあげてから数ヶ月で家を追いだしたそうだ。

 私と再縁した今の妻は二十代後半になっているが、追いだされた当時は二十歳はたちになったばかりだったという。そんなうら若い娘を無慈悲に放りだすなんて、いかほど酷薄な一家なのだろうかと怒りが湧く。

 こうやって眠っているときの妻は必ず微笑んでいる。私の心持ちまで穏やかにしてくれるような微笑みを浮かべるのだ。こんな幸せそうに眠る妻を、よく追い出せたものだ。

 まあ、しかし、実のところ私はその一家に感謝すべきなのかもしれない。妻を追いだしてくれたおかげで、私は妻と縁が結ばれたのだから。ある意味、彼らのおかげだ。


 もうそろそろ二十分が経つ頃だろうか。林の奥をぼんやり見ながら考えていると妻がもぞっと動いた。

「ん……」

 見れば妻の目が細く開いている。妻は細い目のまま何度か瞬きしたあと、のそのそと身体を起こした。だが、睡魔はまだ彼女に巣くっているらしい。目の開きは八分咲きといったくらいで、表情はとろんとしていておぼつかない。

 私は妻の髪やつむぎについた落ち葉をひとつひとつ摘んで取ってやった。寝ぼけている妻はぺたんと座ってじっとしている。そうしている彼女はどこか幼い少女のようである。


 落ち葉をすべて取り去った頃になると、さすがにすっかり目が覚めたらしい。妻の表情ははきとしていた。だが、そのぶん落ち込みもよく見て取れた。

「また、あなたにご迷惑を……」

 妻は私に頭をさげつつ続けた。

「いつもすみません」

「いや、気にしなくていい。それより、どうだい。今回も寝起きはいい心地かい?」

 妻は病で眠っているさいに決まって楽しい夢を見るそうだ。夢の仔細しさいは目を覚ますと忘れてしまうものの、感覚で楽しい夢だったとおぼろげにわかるという。眠っているときに必ず微笑んでいるのもそれが理由らしく、楽しい夢のおかげで寝起きはなんとも気分がいいとのこと。ところが、今回は少し様子が違うようだ。

「どういうことでしょう。今回は夢を覚えているのです。大地から岩峰いわみねのようなものが突き出ておりました」

「ほう、岩峰が……でも、その話だけだと想像できないね。どういった岩峰が突きだしていたんだろうか?」

「ちょっと描いてみましょうか」

 正座を斜めに崩して座っていた妻は、膝の前にある落ち葉を払いのけた。現れた土に小枝を使って器用に絵を描いていき、ごつごつとした岩峰の絵を完成させた。城のような大きさの岩峰で、それが大地から突き出ているのだという。

 私は腕を組んで妻の絵を見つめた。

「君は絵心があるのだね。うまいもんだ」

「あら、そうかしら」

「なかなかの腕前だよ」

 私は感心しつつ話を進めた。

「病で眠っているときに見る夢は必ず楽しいものだったね。この岩峰も楽しいものなのかな?」

「この岩峰の正体は大きな本棚なのです。数え切れないほどの読み物が収められていますから、書物好きの方たちが集まってたいへんな賑わいでした。それはそれは楽しげなところなのです」 

 岩峰の本棚に書物好きが集まっている。じつに楽しそうだ。宮沢賢治あたりが書く童話のようでもある。

「君が見ている夢を一緒に見てみたいものだね」

 私がそう告げると、妻は口の端に笑みを見せた。

 

 今から六十年以上も昔の話だ。


     * 


 現在の私は九十歳を超えており、子供にも恵まれ孫にも恵まれ、妻の希望で猫も一匹飼っている。月日と共にどんどん家族が増えていったが、あるときひとりだけポツっと減ったこともあった。

 長年連れ添った妻が五年前に他界した。


 妻が患っていた例のやまいは年齢を重ねてからも相変わらずだった。ときおり私の膝枕で二十分ほど眠り、眠っているさいには必ず微笑んでいた。

 いつも楽しい夢を見るとはいえ、唐突に睡魔に襲われるのだから、さすがに不安もあったに違いない。だが、根本が強くできている妻は、それなりに病と折り合いをつけてもいた。

「このごろは眠るのが少し楽しみなのですよ。寝起きの気分がとても軽やかですから。あの岩峰いわみね以外は内容をよく覚えておりませんが、やはり見る夢はどれも楽しいものなのでしょうね」

 そんなことを言っていた妻は、あるときいつもの眠りにまた落ちた。ところが、二十分を過ぎても目を覚まさない。おかしいと思ったのは三十分を過ぎた頃で、肩を揺すってみると妻はもう息をしていなかった。

 妻がそのときみせていたのはやはり幸せそうな微笑みだった。どうやら楽しい夢を見ながら逝ったらしい。叶うことならもう少し妻と連れ添っていたかったが、彼女の最期が穏やかだったのはなりよりだと思う。

 ただ、ときどき妻とすごした月日が想いだされ、以外の感情が膨れあがることもある。それを紛らわすために猫を膝の上に乗せてみたりもしたが、妻に膝枕をしているときのようなぬくもりは得られなかった。

 

 ところで、私は妻が亡くなってからあることに気がついた。彼女が眠っているときに見ていた楽しい夢の正体だ。きっかけは昨年の二〇二〇年に誕生した角川武蔵野ミュージアムだった。私はかつてそれとそっくりなものを目にしている。

 テレビの映像で見たミュージアムの外観は、大地から突き出た岩峰のようだった。それは妻があのとき藤久保の雑木林でえがいた岩峰いわみねの絵と酷似していた。


 妻は岩峰には多くの本が収まっていると話していたが、ミュージアムにも大量の本が揃えられており、それも妻が見た夢と内容が合致する。つまり、一年前に誕生した角川武蔵野ミュージアムを、妻は何十年も前に夢の中で見たのかもしれないのだ。

 そこで私は思った。

 妻が見ていたのはただの夢ではなく、未来の世界ではなかったのだろうか。眠りに落ちている二十分間に、予知夢を見ていたのではないだろうか。

 だとすれば、きっと未来はそんなに悪くないはずだ。

 妻は亡くなるまでに夢としてあまたの未来を見たに違いない。角川武蔵野ミュージアムの夢もそのひとつにすぎず、妻の見た未来はまだまだたくさん残っている。また、眠りに落ちて未来を見ているときの妻はいつも幸せそうに微笑んでいた。


 だから、きっと未来はそんなに悪くないはずだ。

 子供や孫たちがこれから生きていく未来の景色は、きっと微笑んで見ていられるようなものに違いない。




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