第10話 その真実は知らない方が穏やかに暮らせる
先生は握りこぶしを震わせながら解くと、両掌を覗き込むように顔に近づけ、そのまま顔を覆ってしまった。ドラマにある犯人が自白をするシーンのようで、現実感がない。呆然として、思考が止まりそうになる。
「教師になった当時は、何か目標や目的があったわけじゃない。ただ、ぼくがこの中学校に赴任した時のことだ、あの時は酷く驚いたよ。なにせ卒業して十年近く経つというのに、図書室の様子が全く変わっていなかったからね。
その時僕は思ったんだ。これは僕に課せられた使命なのだと。妹が亡くなったという事実を風化させないために、図書室の状況を保ち続けることがね」
嘆きにも似た語りは終わらない。
「何度か図書室の改装の案が出た。でもそのたびにぼくはもみ消すことに奔走した。ある時は校長に理由をつけて頼み込み、ある時は教育委員会に妹の件で揺すりを掛けたりして。妹が死んだのはいじめによる自殺だって分かっていたけれど、教育委員会は認めようとしなかったからね。当時のマスコミに報道されたから、認めざるを得なくなっただけなんだ。表立った責任は取りたがらないんだよ、あいつら屑共は……。
まぁ、校舎の他の所が老朽化していたこともあって、予算を取られて改装案がおじゃんになることも多々あったね。改築前の北校舎は存外酷いモノだったから。市の財政的にそもそも割り振られていた予算も少なかったんだけどね。
僕はこの学校に長く居続けることにも気力を燃やした。行きたくもない研修にかってでたり、教育委員会に直談判したり。飛び飛びではあるけれど、20年近くここで教師を続けて来られたのは、僕の事情を考えての優遇が多少ならずともあったんだろうね」
「なぜそこまでしてこの状況を残そうとしたんですか。申し訳ないんですが、俺にはその理由がわかりません」俺は恐る恐る疑問を口に出した。
「いいんだ。中学生に分かれと言う方が酷だから。最初は何気ない義務感だった。でもここ十年は違うんだ。」
今度はフフフと笑う。その笑い声はだんだんと大きくなり、やがて枯れた。
「妹を自殺に追い込んだ奴らの子供たちが入学してくる年代になったんだ。親たちはおのずと授業参観にやって来る。そして当時と変わらない図書室の様子を目にするんだ。彼らは何を思うんだろうね。きっと罪悪感なんて欠片も無いんだろうな。いいや、もしかしたら当時を思い出して笑っているかもしれない。鮮明な記憶が蘇ってきて、加害者として名前を挙げられるのではないか、と震えていた日々を思い出すかもしれない。
それでもいい。なんだっていい!歪んでいると言われようと、これがぼくの抵抗で、妹の為だと信じているから。とにかく、奴らに何か思わせることが出来れば、妹の死は彼らの頭からは一生消えないんだから!」
俺には、目の前にいる狂乱一歩手前の男が、とても教師だとは思えなかった。少なくとも人生の先輩として敬意を払っていた先生の一人が、これほどまでに真っすぐに歪んでいるのだ。矛盾をはらんだ彼は酷く苦しそうに思えた。そして、俺達には何もできないということも明白だった。
突然、音割れ気味のチャイムが響き渡る。
六時を告げるチャイムだった。
「時間だね……あと何か聞いておきたいことはあるかな」
そう言って先生はブラインドを閉める。再び埃が舞う。
「呪われた席の詳細な由来を……先生は知っていらっしゃいますか?」
「……知っているも何も、言い出した張本人たちを目の前で見ているからね」
予想外の真実に、江利川は口を押さえる。
先生は怒りを表すこともせず、かと言って悲しむこともせず、精も根も尽き果てたかのようにうなだれた。
「妹が死んでから数日後のことだ。クラスの隅でいけすかない男たちが冗談交じりに話しているのを聞いてしまったのさ。『あの子が図書室に化けて出るかもしれんぞ、俺達取り殺されるのかな、改装とか言ってなんか薄暗くなったのもあの子のせいか、おれ後ろの方の席に座ったら立てなくなったんだが、なにそれ呪われた席じゃん』ってね。一言一句覚えている。忘れた時はない。ぼくは奴らが犯人だと確信したね。でも罪には問えない証拠が無いし、実質もみ消されているから。なぜあいつらが罪を受けていないのか、本当に信じられない……妹は優しかったんだ」
尻すぼみに小さくなる言葉のあと、先生は普段の抑揚のない声できっぱりと言った。
「もう下校の時間だね。君たちも早く帰りなさい。あと……」
その後に続けられた言葉に、江利川は酷くショックを受けたようだった。
「呪われた席だなんていう言葉を二度と使わないでくれ、吐き気がするんだ」
去り際に見た先生はさながら抜け殻で、今にも消えてしまいそうだった。
教師とは、人とは、なんなのだろうか。
俺は呆然とする江利川の袖を引っ張って、足早に図書準備室を出た。
〇
薄暗い図書室を後にして、俺達は階段を上っていた。足音に軽やかさは微塵も感じられなくて、腕は自然と手すりを掴んでいた。
不意に足音が一つ止まる。俺の後ろを歩いていたはずの江利川が立ち止ったのだ。
踊り場の窓から暖色の光が差し込むなか、江利川はボソッと言った。
「乙守さんはバズビーズチェアの事をどう思いますか?」
視線が合わない。彼女は足元を見ていた。
「どうって、信じられないさ。それにさっきの話を聞いてしまうと、存在して欲しくも無い」
俺がこう返すと、江利川は俺の横を通り抜けて、踊り場の窓際にもたれかかった。
「私が思うに、バズビーズチェアは偶然の産物です。座ったことと死んだこと、この二つが勝手に結び付けられてしまっただけだと思います。『死んだあの人、例の椅子についてはなしていたそうよ』が人づてに伝わるうちに『死んだあの人、例の椅子に座っていたそうよ』に変化したのでしょう。噂はいつの時代もインパクトの大きい方へ改変されがちですからね」
「本当にそう思っているのか」
「思っています。でも……」
江利川は何かを隠すように窓の外に顔を向けた。
俺の方からは彼女の表情は読みとることが出来ない。
「でも?」
「でも、人の死に関わることを面白おかしく話すのは良くないなって、そう思いました。だから私……」
消え入るような語尾。そして江利川は鼻を啜る。
何を言えば良いのか分からない。でも声を掛けなければならない気がする。
「さすがに運が悪かっただけだ。あんな嘘っぽい話がこんなことに繋がるなんて俺も思わなかった。だから今だって篠原先生が言ったことが全部冗談なんじゃないかって思っている。先生のあの取り乱しようだって……」
「でも女の子がひどい目に遭ったことは事実です。分かっているんでしょう?乙守さんも」
「だ、だが……」
「女の子が自殺してしまったことは事実です。そして加害者がのうのうと生き続けていることも事実です」
「…………」黙ることしか出来ない自分がいた。
江利川はすすり泣きを止めない。泣いた顔を見せまいとしているのか、頑なにこちらに顔を見せない。そのことがいっそう憐れに思えてしまい、俺はそんな江利川の背中を見つめることしか出来なかった。
「……じゃあ、江利川はこの部活をやめるのか?まだ入部して数日しか経っていないが」
「い、いいえやめません」
彼女は強く首を振る。
「乙守さんもやめません……よね?」
「ああ、俺はやめない。いくら知らない方が幸せでいられた真実があろうとも、俺の真実への探求心は失われない……失うはずがない」
違う、探求心を失ってしまったら、逃げた自分を認めざるを得なくなってしまうからだ。信じた自分でいるためにも、俺は続けなくてはならない。そう、自分に課したから。
「一つだけ訊いていいか?」
俺は踊り場に足を掛ける。
それは入部してから訊けていなかったこと、不思議に思っていたことだった。
「何ですか」
江利川は振り向かない。
「なぜ江利川はオカルトや都市伝説が好きなのに、その原因を突き止めようとするんだ?矛盾していないか?」
「いいえ、まず前提がまちがっています」
そう言って振り返る。二つのおさげがひらりと揺れる。
「本当の私は非科学的なことが嫌いなんです。」
江利川の頬には涙が筋になっており、斜めの夕焼けに照らし出されたそれはキラリと光っていた。そして案の定、彼女の泣き顔は俺の心を波立たせた。女子の涙は二度と見たくない、泣かせてはならないとあの日の自分自身に誓った。そのはずだったのに……。
「だ、大丈夫か?」
「心配なんてしないでください、調子が狂ってしまいます」
「だが……」
「篠原先生の豹変っぷりがあまりに真に迫っていたので驚いてしまっただけです。まるでB級ホラー映画ですよね」
と、眼鏡をはずして強がるように微笑んだ江利川は、どこか俺の知らない人間のように感じられた。普段の変人で通っている彼女ではない、もっと素で脆くて純粋で、儚げな何かを見た気がした。俺は江利川について何も知らないどころか、打ち解けることすら出来ていないのではないか、不意にそう思ってしまって、言いようもなく悔しくなる。同じクラスで、同じ部活で、どこか似た者同士だと感じていたのに。
本当の私は非科学的なことが嫌い……衝撃的な発言だったが、今はそのことを追及する気にはなれなかった。
部活を終えた生徒が数人、物珍しそうな顔をして階段を駆け下りていく。
遠ざかる足音の隙間、校庭のホイッスルの音は未だに響いている。
藍すべきは春の青さか、オカルトか。 神田椋梨 @SEA_NANO
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