第9話 真実を知る者

 「じゃ、じゃあですよ、不可解な図書室についての推測は置いておいて、呪われた席の噂はどうして生まれたと考えますか?」

 動揺を隠せないのか、江利川の言葉には震えがあった。

「俺たちが出した推測が真実に即していたとするならば、図書室で受けたいじめを苦に自殺した少女いた、という話が伝聞され脚色された結果、座る者に害をもたらす席という噂が出来上がったのだと思う。場所の雰囲気からして、いかにもという感じだしな」

「私もそう思います。怪談話や都市伝説の成り立ちとしては良くあるパターンですね」


 お二人には伝えますか、と江利川は控え目に首を傾げる。

 まだ結論が出ないから今日はそのまま帰ってもいいと伝えてくれ、と返して俺は出入り口の上に掛けられた時計に目をやった。あと十分もすれば五時半になってしまう。


 それでも最後の選択肢を遂行する時間は十分に残されていた。

 問題はその選択肢を選ぶかどうかだった。


「どうする?俺達の推測の真偽を確かめるか?それともここまでで止めるか?」


 ここで江利川に問いかけたのは、話を持ち込んだ本人にその結末を確定させる権利を与えたかったからだ。と言えば聞こえがいい。

 実のところ、ただ俺自身に真実を最後まで追求する勇気が無かっただけなのだ。口では推理だの探求心だの言っていたが、真実に黒い影が覆っているらしいと気が付いた途端にこれだ。もちろん真実は知りたい。でも推測が当たっていて欲しくはない。そもそもそんな噂なんてなかった、俺達がこじつけただけの虚像だった、と言って納得させて欲しい。

 だが、それでは俺達、いや俺には物事を推理する力が無い、と突き付けられているのと同じになってしまう。『自分のやりたいことを見つけたから新天地で新しい生活をするのだ』とここ数日間必死で自分を誤魔化してきたのに、これでは『耐えられなくなったから逃げただけの弱い俺』という現実を自分で認めてしまうことになる。

 俺は、俺自身の探求心に突き動かされてここにいる、ということを身をもって証明したかったのに……。


 うーん、と俯いていた江利川が急に顔を上げる。

 ズレた大きな眼鏡を両手で支えて、その位置を直す。鼻の上にちょこんと眼鏡が乗る。

 その表情に迷いはないように見えた。

「もちろん真偽を確かめますよ。乙守さんも同じ考えなのでしょう?」

 俺は迷いを振り切るように強く頷いた。江利川と目を合わせる。

「おそらく篠原先生は知っていますよね」

「ああ、あの思わせぶりな言い方は間違いないだろうな」

「覚悟の準備は済ませましたか?」

「準備するほど大層な覚悟は端から持ってねぇよ」


 俺達は学校史を元の場所に戻すと、カウンターへ急いだ。今日も図書室を訪れる人は少なくて貸出業務もさほどなかったのか、篠原先生は相変わらずくたびれたように椅子に座っていた。手の上には昨日と見たブックカバーの文庫本が開かれている。


「あの篠原先生、呪われた席の噂についてお聞きしたいんですけど」

 俺が声を掛けると、先生は睨むような目つきで俺達の方に視線を配る。

「なぜ僕がそんな噂を知っていると思うのかな?」

「そ、それは先生が昨日、図書室の暗さについてヒントを下さったからです」

「ヒント?何か言ったかな」

 一転、先生はとぼけたようにワシワシと白髪交じりの頭を掻く。ついでなのか、開いていた文庫本に栞をはさんでカウンターに置いた。噂などは知らないと否定しないあたり、話をしろという事なのだろう。

「昨日、図書室が暗いという風なことをお伝えした時に先生は、暗くならないと見えないものがある、とおっしゃりました。そしてその言葉が逆だともおっしゃりました。なので俺達は色々考えてきました。まず図書室の構造について……」

 横に立つ江利川は肯定を示しているのかしきりに頷いている。俺はその姿を横目で捉えながら、先ほど導き出した推測を全て先生に語った。始めは話半分と言う感じで頭皮のマッサージをしていた先生だったが、話が終盤に近付くにつれて、その表情は険しく、皺が増えていくように見えた。


「……というわけで、亡くなった女子生徒の話から、件の噂が生まれたのだと考察しました。違いますか」

「……真偽はいかにせよ、それを聞いて君たちはどうしたいんだ」

「私達は真実が知りたいだけです。ただ……それだけです」

 江利川は眼鏡を直しながらそう言った。

 なるほどなるほど、と先生は席を立つ。特徴のない回転椅子が軋む。

 奥の方で本の整理をしていた図書委員らしき生徒にカウンターを任せる旨を伝えると、先生はカウンター裏から繋がる図書準備室へ入るように俺達に言った。どうやら何かを教えてくれるらしい。それも立ち話では出来ないことを。心拍数が急に上がる。江利川も、制服の裾をぎゅっと掴んでいた。


「とりあえずその辺に座ってくれて構わない。生徒相手には飲み物が出せないことになっているから、悪く思わないでくれ」

 通された図書準備室は初めて来る場所なのに、なんとも想像通りな場所であった。埃臭くて図書室以上に本の密度が高い。雑多に並び積まれた本はどれも古いモノばかりで、お世辞でも手に取りたいとは思えなかった。窓際のブラインドは閉じられ、夕焼け色が映し出されている。先生用のデスクの上には書類がたまっており、不安定な束の上にコーヒーらしき液体の入ったマグカップが僅かに傾いておいてある。案内された場所も狭く、錆びたパイプ椅子に腰かけることになった。


「取り急ぎ結論をね」

 先生は怒っているのか悲しいんでいるのか分からない顔をする。

 そして言葉に迷ったみたいに、しばらく口を軽く開いたり閉じたりをしてから、ようやく次の言葉を発した。

「君たちの推測は大体正しかった。図書室の本棚や蛍光灯の配置が不可解な理由はもちろん、噂の成り立ちだって事実に近いか、そのものだろう」


 俺達の推測は間違っていなかった。

 けれどその事実は俺の心を複雑にかき乱した。

 推理力は認められた。漠然と俺には物事について考える力があると思い込んでいたことが、間違いでは無かった。それは喜びだ。純粋に。

 ただ、俺がそんな喜びを感じている裏で、被害に遭っている生徒がいたという事実も確定してしまったのだ。そして、今まさにその真実にさらに近づこうとしている。


「……では、あの噂は根も葉もない七不思議的なものでは無かったんですね」

 俺が訊ねると先生は頷き、根の無い弱い雑草ならどれだけよかったことか、と小さく呟いた。

「君たちは真実を知りたいと言った。だから僕は話す。これを聞いてどう思うかは君たち次第だけど、みだりに言いふらさないだけの思慮深さがあると信じているよ」

 その言葉にはやんわりとした脅迫と、聞いて後悔しても責任は取らないという強い意思が感じられた。教師という立場においてここまで言う人も、そんな状況も初めてだった。


 じゃあ、と深く息を吐いた先生は遠い目をして語り始めた。


「自殺した少女の話をしよう。その子は小柄で内気、いつもオドオドしていて感情表現もあまり得意でなかった。ただ、本がとても好きな女の子だった。その子は中学校に入学すると、図書委員会に入った。本の近くで過ごすことが本当に好きだったんだ。

 その日は夏休み明け、ちょうど今日みたいな残暑の面影がそこかしこに張り付いているような日だった。それは恐らく昼休みだ、一番図書室に人が溢れ、騒がしくなる時間帯だ。 

 少女は奴らに目をつけられてしまった。小柄で内気そうでいかにも抵抗されなさそう、というのが理由だったのだろうか。私には分からない。

 彼らは複数人だった。それも恰幅の良い運動部の上級生だろう。通路に立ちふさがれば、先が見えないくらいの人数でね。卑怯で卑劣な奴らだ。

 図書室の一番奥で作業中だった少女は彼らに囲まれ、被害に遭った。ショックのあまり助けを呼ぶことが出来なかったのだろう。他にも人がいるという状況からの恐怖や緊張もあったかもしれない。本棚の壁と彼らの壁が小さな密室を作り出したんだ。

 少女はその一件のあと、自ら命を絶ってしまった。もしかしたらもっと別の何かが原因で思い詰めていたのかもしれないし、単に上級生に話しかけられたことを必要以上に考えすぎてしまったのかもしれない。ただ、少女が残した遺書には『図書室でいじめられてしまった。あんなに好きな本が沢山ある図書室で。もう嫌だ。どうすればいいかわからない。怖い、怖かった』そう書いてあった。加害者の名前も容姿も特徴も何も書いていなかった。もちろん被害内容も。彼女は誰に対しても優しかったんだ、悲しいくらいに」


 先生はここまで言って、区切るように深呼吸をして咳をした。

「そ、その被害というのは……」

 うつむいたままの江利川がそう言いかけると、先生は食い気味に言い切った。


「本当の所はぼくにも分からない。中学生の前でそういう話をするわけにはいかないという教師としての良心が、僕にもまだ残っているからだ。ただ、酷く精神的に傷つけられたことだけは確かだ。自殺の痕以外の目立った外傷が認められなかったということは、検死で分かっているからね。その先は自分達で考えてくれ。思慮深い君たちなら、あらかた目星はつけているんだろうけど」


 外傷無し、自殺、加害者多数……無駄に頭を働かせなくたって、大体は想像つく。でも認めたくない。そんなことがあったなんて。胃のあたりがグググとせりあがってくる気がする。

 鬼畜だ、人の所業じゃない。怒りが込み上げてくる。だがこの怒りはどこに向ければいい?加害者か?顔も分からない、年も違う、人数も分からないのに?

 いや、もっと考えるべきは少女の事だ。酷いことをされたのに、その被害をいじめという言葉でしか表現できなかった少女。自分が受けたことを周りに正しく知らせることができなかった。そして抱え込んだまま……。

 俺と江利川が黙ったままでいると、先生は不意に何かを振り払うように髪をクシャクシャにし始めた。無造作な髪形は前に増して、ボサボサになる。抜け毛が辺りに飛び散り、音もなく落下する。その姿はまるで悪魔に憑りつかれた人のように見えた。

 突然のことで俺も江利川も驚いてしまった。隣に座る彼女の身が縮こまるのが分かる。


「いや……すまない、驚かせるつもりでは無かったんだ。ただ、当時の事を思い出してしまってね」

 先生はぎこちなく笑顔を見せると、取り繕うようにブラインドを上げた。南側の窓から暮れの日差しが差し込み、先生に当たる。ブラインドの板に積もっていた埃が宙に舞い、キラキラとその姿を露わにする。

「図書室の構造が変わったのはこれが理由だ。少女が自殺したこと、そして遺書に記載された情報から、図書室の見通しの悪さが指摘され突貫工事が行われたんだ。休み明けに図書室を訪れたら、雰囲気が変わっていて驚いたのを覚えているよ」

 このまま先生にすべて語ってもらった方がスムーズに事が進むのは明白だった。ただ、ずっと気がかりであったことを聞かざるを得なかった。それが、真実を追い求めると決めた者の宿命だったのだ。

「先生、ぼくはずっと気になっていました。注意深く観察すれば、明らかに応急処置的な位置替えだと分かる本棚の配置が、なぜ現在も、なぜ三十年も残っているんですか?」

 すると、急に先生の顔から作り笑いが消えた。まるで絶望したかのように目を見開くと、身を震わせて声を絞り出す。

「運が良かった……いや悪かったということもあるけれど、一番の理由はぼくがここの教師になったからだよ」

 そして、デスクの上に置いた握りこぶしを一層つよく握り込み、小さな咆哮が続いた。

「憎んでも憎み切れない奴らに対する、妹を失った僕のささやかな抵抗なんだ、これは」

 鬼か悪魔か、はたまた熾天使か。

 もはや先生の姿からは、くたびれていたあの印象は消え去っており、そこにあるのは抑えきれない怒りと悲しみが滲み出るだけの一人の兄の姿だった

 隣から鼻を啜る音が聞こえているが、俺は先生から目を離すことが出来なかった。

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