鹽夜亮

何も無い朝

 全てを失くした。現状の私を表現すれば、それが最も正しいだろう。

 仕事を失くした。精神の不調から、体力の不足から。なんとか縋り付きたいと、数年間必死で戦っていた。すり減りながら。

 恋人を失くした。五年か。五年。私にとって不釣り合いだと思い続けながら、それでも彼女との未来を見据えながら、生きていた。五年。その終わりは二十分の電話にもみたなかった。

 愛猫を失くした。私の、最愛の存在だった。いつ何時も、ただ傍にいてくれた。それだけでよかった。心配をしてくれる友人も、家族も、私にはいた。だが、私は、ただそこにいてくれるだけの愛猫を最も愛していた。十八年と言えば大往生だろう。そんな慰めは、どうでもよかった。


 何もかも失くしても、平等に朝はやってくる。これらの喪失を、私は全て予期していた。何もかも、私には相応しくないと知りながら、それでも…と縋り付き続けていただけだった。それを知っていた。だからこそ、いつか必ず失うことも知っていた。

 悲しくはなかった。予定調和が訪れたに過ぎなかったから。

 ただ、虚しかった。何もなかった。ただ、何もなくなった。そこに喜びも絶望も、悲しみも、後を引く長い涙の雨も、存在しなかった。ただただ、私は『失った』ことの虚しさと、その大きな欠落たちを眺めずにはいられなかった。

 穴ができたなら埋めればいい。そういう考えもあるだろう。私はそれを否定しない。理不尽で、どうしようもない世界の理屈に適応して生きていくには、必要だからだ。私は、あえてそれを拒否する。

 何かの代わりに何かを押し込めることは、侮辱である。…ただ、その考えのためだけに。

 朝の煙草を吹かす。馴染みの味ではない。近いうちに煙草も大幅に値上がりすると聞いて、私は新たな相棒を探すために銘柄を右往左往していた。美味しいとは思わなかった。妥協できるものはあった。人生は、その程度だと、何故か思った。

 珈琲の質にこだわらなくなってからどれほど経つのだろう。ハンドドリップやら、エスプレッソやら、随分と凝った時期があった。今は、カフェインと珈琲らしき苦味があればなんでもいい。ああ、そうだ。これを堕落と呼ぶのだろう。私はそう思う。

 これらの妥協と堕落は、私の金の無さに起因すると言えないこともなかった。金を無くすことは、現代で生きる術を無くすことに等しい。これは悲観ではない。ただの事実である。自由に使えるものが減れば、妥協点が増える。そして人間は次第に、その妥協にも気づかぬうちに、自らの『好み』すら堕落させていく。

 ああ、その先に残る私の残滓は、何と名付ければ良いのだろう?…


 話が逸れてしまった。喪失に話を戻そう。

 私にとって私以外の存在とは、完全なる他者である。それは私と一切の意味で混ざりあうことを許されない。否、私は、それを許さない。故に、あれほど愛していた愛猫の死にすら、私は『半身をもがれたような』思いなどという言葉を用いようとはしない。ただ、近くに存在していた愛おしいものが死んだ。それだけでしかない。私の存在は、何一つ欠けていないのだ。故に悲しみも、痛みもない。

 …だからこそ、ただひたすらに、虚しい。

 この私の考えは非情だろうか。冷酷だろうか。人間味のない、冷めた感覚なのだろうか。それは私にはわからない。私には私の、誰かには誰かの、それぞれの『自己』があって、それが混ざり合うくらいならば、いっそ物理的にも完全な孤独を選び取る方が私にとってはマシな選択肢なのだ。愛していただの、愛猫愛猫と記しているが、そもそも私は他者を愛する能力を持ち合わせていないのかもしれない。愛情とは、世間一般に口に出されるほど簡単なものではないだろう。少なくとも、私にとってはそう思えてならない。

 私が愛情を持つのに、人間というものはあまりにも多面的すぎる。全てを包み込んでこその愛、と脳のどこかで聖者面をした何かが呟くが、自己の全てすらわからぬというのに、どうやって他者の全てを包み込むというのだろう?私たちは自己の全てを一度として愛したことがあったか?己にすら向けられない感情を他者に向けられると勘違いするのは、悪意はないにしても、重大な倒錯である。

 私は、私の全てを愛しているわけではない。私は私の知る範囲の私を認めてはいるし、時に愛らしく思ったりもするが、私の未知の私はまだいくらでも存在する。故に、全てを愛しているなどとは言えない。…他者など、もってのほかである。

 

 久方ぶりに筆をとったが、どうも私は文章を書く能力すら失い始めているのかもしれない。なんとつまらない、堕落した文章だろうか。こうして自嘲に頼り出すなど、まさに堕落であろう。

 

 死は近い。喪失は終えた。残るはただ、正体もわからぬ、意地のみである。…

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鹽夜亮 @yuu1201

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