境界契約

黒倉錠

第1話 出会い

 薄暗い部屋には重い空気が満ちている。密室で逃げ場を失った空気は、その場でとどまり死んでいく。

 

 隼人はやとは目の前にぶら下がっている麻縄あさなわを見つめていた。縄の輪から見える窓には、暗闇がべったりと張り付いている。隼人は縄の輪に自分の首をそっと置いた。あさの硬い毛の1つ1つが、隼人の肌に当たる。

 

 現実から逃げたい一心で、隼人は椅子いすに自分の体重をゆっくりとかける。


「それじゃ死ねないぞ」

 

 突然、声が聞こえた。いや、聞こえたというよりは、ずっしりとした波が、脳内に直接入ってくる感覚だった。聞こえもしない声が聞こえるのは、精神病を患っている隼人にとってはそこまで珍しくないことだった。隼人はその声を無視して、また椅子に体重をかけた。


「だから、それじゃ死ねないっての」

 

 また同じ声がした。さっきよりも大きくなったそれは、隼人の脳内でこだました。耳をふさいでも、この声には抗えない。そう思った隼人は縄から自分の頭を外し、声のする方を向いた。

 

 隼人の目の前には、背丈の大きい骸骨がいこつが立っていた。小柄な隼人にとって、紫色のローブに身を包み、片手に巨大なかまを持った白骨の姿は、十分な迫力を持っていた。


「麻縄をセロテープで天井にくっつけただけで首を吊れるわけがないだろ。なんでお前ら人間は考えるということをしないんだ」


 骸骨の口は動いてはいたが、そこから声は出ていないように思えた。眼球はなかったが、眼窩がんかにはオレンジ色の光が力強く灯っていた。その上では、三つの節のようなものがある細長い骨が、眉のように動いている。


「縄もこれじゃ細すぎる。死ぬってのはそんな簡単なことじゃねえんだぞ、ガキ」


 骸骨は、腕を組んで隼人のことを見下ろしていた。腕と肋骨に挟まれた鎌の刃は、綺麗な曲線を描いて床に伸びていた。


「ここ4階だろ? だったらベランダから飛び降りたほうが早いんじゃねえのか?」


 骸骨はそう言うと、ベランダの方に鎌を向けた。さっきまで隼人の心を支配していた希死念慮きしねんりょは骸骨の迫力で押し潰され、咄嗟とっさに「いいです」という言葉が隼人の口から出た。


 骸骨は一瞬固まったが、ちょっとすると鎌をゆっくりと腰の側面に下ろした。隼人は思わず口を塞いだ。自分が無意識に死を拒否したことが、信じられなかった。


「ああ、お前もそういうタイプの人間だったか」


 骸骨は、どこから出たのか分からないため息を吐いた。


「頼むから俺の仕事の邪魔になるようなことはしないでくれよな」


「あなたは、誰なんですか」


 隼人は質問した。弱々しい声だった。骸骨は隼人の方には目もくれず、壁に寄りかかり手遊びをしていた。


「死神だよ」


 隼人は絵を描くときに「死神」という単語をネットで調べたことがある。そこから得た断片的な知識は、隼人の顔をこわばらせた。


「命を、奪いにきたんですか」


「別に奪ってるわけじゃねえ。ただ導いてるだけだ」

 

 死神は、隼人が言い終わる前に喋り出した。隼人が言葉の意味を吞み込むのに時間をかけていると、死神は天井を見上げ、片足でコツコツと音を立て始めた。


「俺が導いてやるってのに、そこでやめちゃうんだもんな。まあ知ってたさ、お前らの自殺願望なんて赤ん坊の駄々と同じぐらいだなんてことは」


「導いてやるって、あなたがしてること、自殺幇助じさつほうじょですよね」


 隼人は声を張ろうとしたが、長らく誰とも話してなかったせいか、声が裏返った。


「犯罪だ、っていいたいのか?」と死神は言った。「面白いよな、人の手伝いしてやったのに罪になるなんてよ。生きることが正義かのようにふるまってやがる」


 隼人は何も言い返せなかった。頭の中で言葉のいたちごっこが続く。自殺幇助は犯罪である、でも自殺幇助は人の手伝いでもある、でも……


「じゃあそもそも、何で死にたいと思うんだよ?」


「もう生きても、意味ないからです、辛いだけだからです」


 理由は、それしかなかった。今の隼人にとって人生とは鉄のかたまりのようなものであり、ただ動かず、ただびていくだけであった。錆びには痛みも伴った。そんな人生に、意味などなかった。


「生きてて辛い、ねえ……」死神は鼻で笑ったような音を出した。


「お前ら人間は、死んだら楽になる、とか言うけどよ、そんなのはただの願望で、何の根拠もない。実際俺らの世界に来た人間は口々にこういうさ、結局同じじゃねぇか、ってよ」


 死神の冷たい視線が、隼人の心臓を貫く。


「そりゃあ同じなはずさ、死んでもお前らの人格なんか変わりゃあしねえんだから」


 隼人は返す言葉が見つからなかった。もし天国が自分たちの世界と同じような原理で動いていたら? 目の前に答えを知っている者がいたが、事実を知る勇気が隼人には足りなかった。絶望と無念の軋轢あつれきに耐えられず、隼人は声を殺して泣いた。


「自分から変わろうとしねえやつは、死んでも変わらねえよ」


 彼の言いぶりは、まるでこの世のすべてを知っているかのような自信を、隼人に感じさせた。隼人のすすり泣く声と、部屋を物色する死神の足音が、この静かな部屋を冷たくしていく。


 しばらくすると、死神の足音が止んだ。隼人は顔を挙げ、すっかり赤くなった目を死神のほうに向けた。視界をにじませる涙を指でこすって払いのけると、隼人の眼にタンスの上を凝視する死神が映った。


 死神の目線の先には、1つのフォトフレームがあった。そこにはまっている写真には、顔を赤くしてうつむいている隼人と優しい笑みを浮かべている1人の少女の姿があった。閉ざされた空間に1つ、暖かい世界が映し出されていた。隼人の視界が、またにじむ。


「この女はどこにいる」


 嗚咽おえつする隼人に、答える余裕はなかった。空っぽになった心は、思ったよりも重い。隼人が今感じ取れるのはその重さと、涙が頬を伝っていることだけだった。


「どこにいる、って聞いてんだよ」


 死神の低い声は、隼人の脳だけでなく心臓をも震わせた。死神の眼窩にある光が隼人を照らすが、暖かみは一切感じられない。


 隼人は写真の少女がどこにいるか、知っていた。今、少女は、5階建ての建物の中で寝ているだろう。今は深夜1時25分、ほとんどの中学生は寝ている時間だ。いや、少女の就寝に時間は関係ない。少女は1日中寝ている。寝息を立てて、うなされて、眠っている。


 そしてこれからずっと、少女が目を覚ますことはないだろう。


「あなたには関係のないことです」


 隼人は声をひねり出して答えた。隼人は、死神を少女に近づかせたくなかった。死を象徴するものを、少女とつなげたくなかった。


「自分の幼馴染が俺に殺されると思ってるのか? 心配するな、俺の仕事は人を殺すことじゃねえ。死んだ人間の魂をあの世に導く、それだけが仕事だ。もし仕事と関係なく人の命を獲ったら、俺は存在ごと消される」


 死神はローブの内側からタブレットのようなものを出し、画面を指で上下にスワイプし始めた。タブレットの裏には「人間戸籍」と書かれたシールが貼ってあった。眼窩の光が右から左へと忙しく動く。タブレットの光は、死神の頭蓋骨を輪郭まではっきりと照らし出している。


 死神はタブレットをローブの内側にしまい、隼人の方を向いた。


「人間は死ぬと魂が肉体から出てくる。その魂を俺ら死神がすぐにあの世に導かないと、そいつは悪霊あくりょうになっちまう。悪霊の処理はとても面倒なんだ。もしこの女に死を迎える予定がなかったら、俺は大人しく帰る。だから、俺をこの女のところに案内してくれねえか」


 死神は隼人と同じ視点の高さまで腰を下ろしていた。低い声は、少し柔らかくなっていた。彼女が眠っている理由は、隼人には分からない。彼女がいつ死ぬのかも、隼人にはわからなかった。しかし、隼人には1つ考えがあった。もし彼女が死ぬのであれば、自分も死ねばいい。そうすれば、あの世でまた、彼女と一緒に暮らすことができる。


 ドアは既に開いていた。隼人は、彼女がいる病院へ行く準備をした。

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境界契約 黒倉錠 @kurokurajou

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