夏休み前の一幕

 カーテンの向こうから、強く存在を主張する陽光が教室の中に入ってくる。


 窓はどれも閉め切られているのに、一つ一つの音が聞き取れないほど重なり合った蝉の声が響いている。


 エアコンが効きすぎて肌寒い図書室の広い机を一つ占領して、あずさとタケは追試代わりの大量の課題と向き合っていた。


 タケのさぼり防止と、ついでに教える係として同席していた大哉は図書室の中へ目を向ける。


 夏休み突入前の短縮授業だからもう少し人がいるかと思えば、意外と利用している生徒は少ないようだった。


 みんな遊びに行ってるんだろうな、と思っていると入り口辺りに人影が見える。


 しかし、その生徒はこちらを見た瞬間ぎょっとした顔で背を向けて逃げていった。


 なんだ? と思って生徒たちが見た方向に視線を戻せば、プリントの山を前にして口を引き結んだタケがいた。


 明らかな不満と、課題への面倒くささを隠しもせずにプリントを睨みつけている。


 見れば、広げたプリントは一つも手が付けられておらず白紙のまま。思わずため息がこぼれた。


「タケ、にらんでるだけじゃ終わらないぞー。頼むから手動かしてくれー。わかんないとこあるならちゃんと教えるからさー。ほんと、ペン持つのもいやですみたいな顔しないでくれ。


 あんた、マジでこれちゃんとやらないと留年するぞー。留年したらおれと違う学年になるから、新しい監視役が来るかもな―。おれはそれでもいいけど、タケは困るんじゃねぇの? ほら、監視役はおれじゃないといやなんだろー?」


「…………わかった」


 物事を了承する顔ではなかったが、ひとまずペンをもってプリントに書き込み始めた様子を見て胸をなでおろす。


 何も否定されなかったことに口のはしが吊り上がりそうになって、とっさに手を動かして口元を隠した。


「タケさん、勉強が嫌いなんですか?」


「やる意味が分からない。ここで語られる物事は鬼のオレには本来、必要もなければ触れる機会もないものだ。鬼が人間の教養を得て何になる。……先輩は」


「はい?」


「……いや。いい」


 ぜったい今、めんどくさくなってやめたな。


 確信をもって断言してもいい。しかし、それを内心に抑え込んだまま大哉は目を閉じた。


 なんということはないはずのこの時間が、ひどく得難く幸せなものなのだと何となく思う。


 文字を書く音、ちょっとした衣擦れの音、エアコンの音に蝉の声。


 あっという間に沈黙が落ちたこの場所は、ありきたりな生活音に溢れている。


 カーテンの遮られて和らいだ陽光を背中に受けながら、背中を丸めて組んだ腕の上に顎をのせた。


「平和だなぁ」


 しみじみとしたつぶやきにあずさはペンを止めて顔をあげた。


 遮られてなお目に染みる光に心臓がざわめく。そっと手首を握り締めた。


 まだ光は恐ろしく、直視することも浴びることも落ち着かないけれど。


「これが、私の生きる世界」


 隣から突き刺さる視線をあえて無視して、ペンを投げ出して背もたれに体を預けた。


 チラリとタケの手元のプリントを見れば、角ばった文字がまっすぐに並べられていた。


 やる意味が分からない、というわりには空欄は見受けられない。


 何かを感じ取ったのか、タケはペンを握ったままあずさへ顔を向ける。


「……先輩、何がそんなに面白いんだ」


「面白い、というよりは本当に真面目なんだなって思ったんです」


「真面目? 桃園のことか?」


 心底不思議そうな声に、タケが大哉をどう思っているのかがにじみ出ている。


 それがなぜか微笑ましいように思えて、あずさは自分の表情が少しだけ緩むのを感じた。


「タケさんのことですよ。でも、うん。桃園くんも真面目でいい人だなって思います。コウちゃんのことを助けてくれて、守ってくれたのもありますけど。


 やっぱりタケさんと一緒にいる時の様子とか、話してみた印象とか、そういう所からもそう思います。それに、コウちゃんがあだ名をつけてるってことは、それだけでいい人なんだなって」


「そういうものか」


「そういうものなんです。コウちゃん、優しくて明るくて誰とでも仲良くなれるんです。クラスの人ともよくしゃべったりしてます。けど、あだ名をつけるくらい仲良くしたいって思う基準があるらしくて。


 私にはよくわからないんですけど、でもコウちゃんがあだ名で呼んでる人はみんないい人だから。だから、私はコウちゃんがあだ名で呼ぶ人はいい人だって思うんです」


 タケは目隠しの奥で目を細めた。


 わかっていたことではあるが、あずさと香の間には強い信頼関係があるらしい。


 それはしかし、まぶしいもののように見えてその実共依存の関係にも見えた。


 あずさの今の発言と言い、大哉から聞いた香の様子と言い、それを危惧させる影が垣間見えているような気がしてならない。


 面倒なことをするな、という心の声を踏み台にしておせっかいな言葉が飛び出す。


「……他人への評価を、平木香に依存しているのか」


「よくそう言われます。でも、コウちゃんが仲良くしてる人でも私とは仲良くできない人だっているし、私も仲良くしたいとは思わない人がいます。それはよくわかっているつもりです。


 だから、あくまでもコウちゃんのあだ名は基準の一つというか、それがあると話しかけやすいかなってくらいのことなんです。多分」


「そうか。それならば、いい。……オレも、先輩も桃園も、平木もいいやつだと思う」


「はい!」


 ここにコウちゃん先輩がいなくて本当によかったなぁ。


 二人の会話を聞きながら、大哉はこっそりと思った。香が今ここにいたなら、顔を真っ赤にして顔を覆っていたに違いない。


 あずさに一方的に褒められて顔が熱い大哉がそう思うのだから、おそらくそうなのだろう。


「コウちゃん先輩、もったいないことしたなぁ」







「へっくしょん!」


 むず痒さの残る鼻をこすりながら、香は顔をしかめた。何かよくわからないが、自分の噂を誰かがしている気がする。


「おや、夏風邪ですか?」


「ちょっと噂されただけー。それよりさぁ、まだ終わんないの? もう三時なんですけど」


 丸椅子に座った香は、対面にいる白衣の医者に文句をたれる。


 昼過ぎに来て、さっさと帰れるはずだったのに検査結果待ちだとかですでに数時間待たされていた。


 ブーブー、と不機嫌そうな少女に苦笑して、医者は立ち上がった。あくまでも柔和な笑みは崩さず、それが香には少し不気味に見えた。


「えぇ。ちょっと混みあってましてね。もともと結果が出るのが遅い検査なんですが、余計に遅れているみたいです。ちょっと見てきますので、ここでお待ちくださいね」


「はーい。あーあ、あずちんと一緒に勉強会したかったなぁ。タケっちまた変なことしてなきゃいいけど。

 イチオー、大ちゃんがいるはずだから大丈夫だと思うけどさ。……このままアタシ、あずちんの横にいれなくなんのかな」


 足の間に置いた手を握り締める。


 光を怖がっていたあずさに何もできなかった自分と違い、タケはしっかりと説得して回復へと向かわせた。


 いなくなったのは影に飲まれて落ちたからだというが、その時そばにいて守ったのもタケだ。


 自分がいたところで何ができたわけでもない。


 あの時はあずさの不調と怯えに気づいた上で、その解決はタケに任せると決めた。あずさもそう望んでいると、何となくわかっていた。


「でもさ、でも。アタシだって」


 嗅いだことのある甘い匂いが、いつの間にか漂っていた。


『平木様は、本当にご友人の鏡にございますね。ええ、はい。もちろん、お力をお貸しいただけるのでしたらすぐにでもお助けいたします。ほら、このように』


『平木香。お前はただ、そこにあるだけでいい。それだけで、先輩には何物にも代えがたい至宝だ』


 そう言ってもらえたんだ。その価値が、その力が自分にはあるはずだ。


 記憶の中から呼び起こした声の断片を何度も、何度も繰り返し再生させる。


 そうすれば自信が持てるはずだと思った。


 何かできることがあって、何かできていることがあるのだと信じられるはずだった。


「そんなわけ、ないじゃん」


 あずさが母親に支配されていることも孤独に過ごしていることも知っているのに、何もできていない。


 あずさが悪夢を見て鬼とかいう化け物に襲われていることを知っているのに、何もできない。


 親友のピンチに、香はあまりにも無力だった。


「でも、でも!」


 にじみだした涙を振り飛ばすように頭を振る。


 きつく歯を食いしばって、それでも! と心中で叫ぶ。


 甘い匂いが強くなっていた。


「アタシだって、あずちんになんかしてあげられるんだから!」


 毅然と顔をあげて、自分に言い聞かせるように断言する。


 胸の前でつくった握りこぶしを見下ろして、力強く頷く。


 あずさのそばに居続けるために、絶対に手放さないためにやれることは全部やる。



 決意を新たに晴れやかな表情を浮かべる少女がうつるモニター画面から目を離して、医者は複雑な文様のえがかれた符を耳元に当てた。


 数秒後、どこかの誰かと見えない回線がつながる感覚と共に報告を始めた。


「監視対象の御厨あずさへの依存度を確認。思考誘導による不安感の増大を確認。孤独感に対する過剰反応と精神安定の欠如を確認。忘却の香による緩和を確認。


 その後、安定性の下降を確認。香の濃度をあげることによる安定性の上昇を確認。精神安定に伴う思考の強制終了を確認」


「そうか。使い物になりそうか?」


 必要な記録を残しながら、医者はもう一度モニター画面を見た。


 そこに映し出された香の様子は、すでに平常のそれに戻っている。


 少しだけ黙考して、いくつかのカルテや記録を見返しながらゆっくりと口を開く。


「記憶が不安定な消去を行われた結果、欠落の存在を認知しているようですね。その欠落の正体を見つけられずとも、それに類する状況に置かれることを忌避していると考えられます。


 会話、人との接触数、忘却の香の濃度などの条件を調整すればマインドコントロール可能であると結論できるかと」


「よかろう。正確な要素の調整値を出しておけ」


「かしこまりました」


 ぶつん、と回線が切れる感覚と共に符を耳元から離す。


 よっこらせ、とイスから腰をあげてドアノブに手をかけた。


 今日のところはこれであの子を帰してあげられると思うと、少しだけ肩の力が抜ける。


「まったく。この世はひどい理不尽で満ちているね」


 自分の娘と同じ年頃になるのだろう少女の、これから先の道行を思って医者は自嘲を浮かべた。


 その理不尽の片棒を深く担いでいる自分が、言えた義理ではなかった。


「まぁ、恨むならば御厨あずさの、いや、違うかな。恨むならば、多くの理不尽をまき散らし、怒りの種をあちこちに植えつけた寄絃の連中を恨んでくれ。


 連中がもう少しでも人の心を持ったまま行動していたら、こんなことにはならなかったんだからさ」


 ポケットに入れたままの家族写真を握り締めて医者は歩く。その目には隠しようのない鋭さが宿っていた。



「すみません、お待たせしました。いやぁ、ほんとにごめんね。検査結がようやく出たので、今日はこれの説明をして終わりになります」


「やったー! やっと帰れる!」


「検査結果ですが、特に異常は見当たりませんでした。ですが、口頭問診の際の受け答えに若干気にかかるところがあります。


 おそらく事故の影響で、自分でも自覚できていないストレスや恐怖症を抱えている可能性があります。こちらで予約を取っておきましたので、この日時に精神科へお越しください」


「え?! えー? 精神科って、アタシ別に」


「人には離せない悩みや、なんでしたらご友人も一緒に来て親並み相談なんかもできますので。気楽に、日ごろの愚痴をぶちまける場所に困ったから来た、くらいで全然大丈夫です。


 一人暮らしをされているということですが、そういった事での困りごとなども相談を受け付けてますよ」


 にこやかに、有無を言わさない圧を感じて香は思わず口を閉じた。


 やっぱりだ。やっぱり、この人なんかある。


 うすうす感じていた違和感が、ここに来て爆発した。


 今までの問診や検査の何もかもが違和感のあるものという認識から、一気に怪しいものという認識へと変わっていく。


 鋭い直感がささやくのに頷きながら、香はひとまず差し出された診察券を受け取る。


 にこやかな人当たりのよさそうな医者が、今はとにかく胡散臭くて仕方がない。


「それでは、お大事に」


「……はーい」


 会計を済ませて、病院を出る間際。香はためらいもなく精神科の予約が書かれた診察券をゴミ箱へ投げ込んだ。


「さーてっと、あずちんたちまだガッコにいるかな」


 香は蝉の大合唱と、髪を焦がす鋭い陽光の中を足取り軽く駆けだした。

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そしていつかは鬼になる ウタテ ツムリ @utatetyan

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