Act.5 古龍、悔いなく
遠く空の彼方に、かの姿はある。
それは、銀の流星のようだった。
「グォォォォオオオオオオオオオォォォォオオオオオオオォォォォンッッ!!」
天地を揺るがすほどの、轟音。強烈な衝撃が、全身を震わせた。
それが、生物の咆哮だと理解できたものは、多分、この場所にはいなかっただろう。
窓ガラスが吹き飛び、巻き起こる風がテーブルクロスを引っぺがす。貴族の屋敷の庭に降り立ったそれは、白銀の毛を陽光で煌めかせる。
「なにがぁっ!?」
貴族の男は驚愕の声を上げるが、アラドンは上げなかった。
正確に言えば、彼の目に映ったものに驚いたために言葉を失っていたのだ。
弾け飛んだガラスは全て綺麗にアラドンを避けて、ふわりとした風が彼の体を包み込み保護している。ゆっくりと地面に足は降ろされ、巨体が近づいてくるのを待つ。
思考が現実の光景に追いついた時、彼は笑みを浮かべて叫ぶ。
「ニーナ!」
『アラドンくん!』
嗚咽の混じったような古龍の声が響く。壁を突き破り少年の体に頭を近づければ、少年のほうから抱きしめる。
巨大ゆえに腕を回すことはできないが、毛皮の中に顔をうずめる。
「君に……君に会いたかった、ニーナ!」
『ごめんなさい。わたしあんなひどいこと言った癖に、こんな風に会いに来て……』
「いいんだ。君は来てくれた。それだけで、いいんだっ!」
人が溺れそうなほど大粒の涙を流す白銀の古龍アルティニーナと、同じく涙を流すアラドン。その一人と一体の姿に、貴族の男は驚愕とともに笑みを浮かべる。
「ほら見ろ、私の考えは間違っていなかった!」
下品な笑みを浮かべながら、声を張り上げる。崩れた壁の砂埃に汚れたローブを放り捨て、大袈裟な身振りでニーナを仰ぎ見る。
「白銀の古龍よ! 私はあなたのお気持ちを深く理解いたしました。なればこそ我らが次期王アラドンを、至高の玉座に付けるべくこの私ム――」
それ以上、彼の言葉は続かなかった。
ニーナの鞭のようにしならせた尾の一撃を、貴族の男に見舞ってやったのだ。広い食堂を転がって、固い壁に叩きつけた。
最強生物というのは、肉体的な意味でも該当する。
たとえ人なら押し留めることもできない大岩が降ってこようと、竜はそれを逆に砕いて見せる。人など尾の一振りで絶命させることさえも可能だろう。
幸いというか良心的というか、繊細に手加減された一撃は貴族の男の意識だけを奪い去った。自らの名をニーナに向けて名乗ることも許されず、ただ静かに横たわる。
アラドンに顔を擦り付けるニーナは、倒れた男に見向きもしない。
竜の興味は、庇護を受けたものにしか向いていない。
ただアラドンは人間の感性に従って、ニーナに問いかける。
「いいのか、これ。多分契約違反だろ?」
街を守る――つまりそれは防壁の中に魔物を入れず、防壁の中の建物を壊さないという内容のはずだ。明確な文章がある訳ではなく、ただお互いの言動による確認だけだ。しかし、誇り高き竜がそれを破るはずもない。
――はずなのだ。
『いいんです。わたしは欲張りな龍なのですから、黄金だけじゃ足りません。わたし魔物退治頑張りましたから、アラドンくんは追加報酬として貰っていきます!』
実際にすでに魔物の討伐は何度か行っている。城門に魔猪の首が掲げられたというのは、アラドンも聞いていた。
「だからこれは正当な報酬要求なんです」
ニーナはそういって、アラドンをその手に抱えた。
同時に、周囲がガラガラと崩れ始め、砂埃が周囲に立ち込める。
さすがに無茶が過ぎた。石と木でできた貴族の館は、壁に空いた大穴と、突撃の余波で折れた柱により支えを失い、ぐらりと傾き始める。
「まずい、ニーナ、逃げないと!」
竜は人間よりはるかに頑丈だ。だが食堂という屋敷の一角とは言え、それなりに量の材料を使って作られた建物が頭上から降ってきては、ケガでは済まない。
まつ毛すら鋼鉄を凌駕する古龍と雖も、激突してきた衝撃全てをなかったことに出来るわけではない。
慌てるアラドンに対し、ニーナは、頭を上に向ける。
『大丈夫です。アラドンくんは、腕の中でじっとしていてください』
両手でアラドンを包み込むと、胸元の毛の中にそっと隠す。渦巻く風が防壁となり、彼を守護する。
そしてニーナ自身は崩れかける屋敷の天井に向け口を大きく開く。
牙の立ち並ぶ顎の奥から吐き出されるのは、古龍の焔。
全てを焼き尽くす、究極の熱。
『
『――――――――
天へと昇る炎の滝が、屋根を吹き飛ばし空への通り道を作る。
突如として土煙に包まれた領主の屋敷に街の人々は困惑していた。
次に現れた燃え盛る柱に眼を奪われ、次いで訪れる衝撃波に尻餅をつく。
驚愕する市民の視界に、翼を大きく広げ、大空へと舞い上がる古龍の姿が映った。
街を守り、魔猪を撃退したはずの守護竜の突然の襲来に、応戦する者も追いかける者も誰もいなかった。
尤も、応戦しようなどと言ったところで吹けば飛ぶような人間になす術はなく、追いかけようにも空を翔ける翼の持ち主に追いつけるはずもない。
呆然と、遠くの森に飛んでいく姿を、眺めるしかなかった。
◆◆◆
雲を裂いて飛ぶニーナの体に、改めてアラドンは腕を絡める。
まるで赤子が母の腕により縋る姿のようにも見えるが、ニーナは黙して受け入れる。
「ニーナ、ありがとう……! ずっと、ずっと会いたかった!」
『お、お礼なんて! だって、わたしが勝手に決めて、勝手に送り出して……勝手に連れ戻して……我儘なんです!』
「本当だよ! 勝手にオレの幸せを決めて、勝手に送り出して……。オレは、待ってって言ったのに……」
涙を零し、笑っているのか起こっているのかわからないような顔をするアラドンは、顔中から溢れる液体でニーナの毛を濡らす。
『ごめんなさい。でも、あの時は、そうした方が、わたしが我慢すればいいって思って……。でも、だめでした! やっぱりアラドンくんと一緒に居たかったんです!』
「ああ、オレもだ。だからそんな我儘なら、いくらでも歓迎だ!」
アラドンの言葉を聞いた瞬間、ニーナの白銀の毛がほどけるように消えていく。
その中から現れた少女としての姿のニーナは、翼と尻尾を残し、半人半竜のような姿のまま涙目で彼の体を抱きしめる。
少年もまた抱きしめ返せば、二人は揃って顔を赤くする。
「また一緒にワインを造りませんか? ジャガイモを植えて育てませんか?」
「ああ。出来上がった野菜でスープを造ろう。二人で、とびっきり美味しい奴を!」
「背も測りましょう。これから毎年、アラドンくんが大人になるまで……」
最後に交わした言葉を、果たせなかった約束を果たすと誓い合う。
「いつかきっと、君の背を越えてみせるよ。そしたら、少しは格好よく見えるかな?」
ニーナと彼女にしがみつくアラドンは流星のように空を翔け、半年ほど前に二人が出会った場所へと辿り着く。
古龍と人が契りを交わした古代遺跡――そこは古き祭祀場。
すでに忘れ去れているが、遥か古に初めて人と竜が契約を交わした場所だった。
それこそが、初めての人と竜の約定。この森に住んでいた先代古龍も祝福した、異なる種族の間で結ばれた婚儀だったという。
それを知らずに降り立った二人は、お互いの手を握る。
「ニーナ、オレはいつか君を置いて歳をとってしまうけど。君を悲しませてしまうけど。それでも一緒に居たいんだ」
「お父さんやお母さん、友達を失くしたわたしにとって、寂しいという感情はもうないものだと思っていました。けど違いました。わたしはアラドンくんと一緒に居たい。たとえいつか別れの時が来たのだとしても」
古龍は人を守る。人は古龍を忘れない。それこそがここで交わされた古の誓い。
もう廃れてしまっていたはずの、遠い昔の物語。
それは今、再演される。
互いを大切だと思う心、それが――
「なあ、オレは今初めて――」
「わたしは三百年ぶりに――」
――竜と人の想いに、翼を与え飛び立たせる。
『恋をしました』
重なり合った言葉に二人は、くしゃっ、と笑みを浮かべた。
恋に翼を得たる如し セラー・ウィステリア @cerrar-wisteria
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