後編

 温かいお湯が、体をすべり落ちていく。

 いずみは、自身の家の浴室でシャワーを浴びていた。

 頭から、このモヤモヤを取り除いてしまいたかったから。

 でも、モヤモヤは消えるどころか、心の中で大きくなるばかりだ。

 あのドラゴンが、もうすぐ死んでしまうかもしれない。

 最初、りゅうり人からつげげれらた時。

 何を言っているのか、理解ができなかった。

 消えてしまいそうだった泉をなぐさめてくれた、未知の存在。

 会話をしていくに連れて、その存在はどんどんと大きくなった。

 出会えて良かったと、心から言えるほどに。

 『辛いかもしれないが、まぎれもない事実じゃ。こいつ、全く動かないと思わなかったか? もう起きて行動することも辛いのだろう。いつってしまうかは、我にも分からん』

 なんとか、治療ちりょうできないのかとは、もちろん聞いた。

 だが。

『こいつは、病気ではない。単純な老衰ろうすいじゃ。こうなってしまっては、ただ見守ることしかできん。だから、せめてその時までに、後悔のないようにすることじゃな』

 後悔のないように。

 龍の守り人は、優しく言ってくれたが、どうすればいいのか分からない。

 泉は、祖母を亡くしたことはあるが、その時も親に連れられて、顔を何度もあわせただけだ。

 祖母に対して、泉は何もしていない。

 だから、分からない。

 死にゆく存在にしてあげられることはなんだ?

 あのドラゴンのために、自分ができることはなんだ?

「……くそ!」

 何も思いつかない。

 その苛立いらだちで、思わずかべなぐってしまう。

 どうすればいい。

 自分に何ができる。

 思考がぐるぐると何度も何度も回る。

 それでも、何も浮かばない。

 どうしょうもない無気力感を覚えながら、浴室を出て体を拭く。

 そのまま、ベッドへと直行し、倒れこむ。

 ベッドに沈んでも、考えることは変わらない。

 ――俺は、たくさんのものを貰っておきながら何も返せないのか。

 罪悪感で支配されそうになっていた時。

 ベッドに置きっぱなしだった、スマートフォンが震える。

 無気力に画面を見る。

めぐみか……」

 釣部恵つるべめぐみ。かつて、大学時代に共に時間を共有した女友達からの連絡だった。

 たまにだが、恵は連絡をくれることがあった。

 何か用があるわけではないらしいく、雑談をするくらいのものだったが、ドラゴンと出会う前までは、泉の心をいやしてくれた数少ない存在だった。

「そうだ!」

 泉は、思い立ちスマートフォンを操作する。

「恵!」

「ど、どうしたの、いずみ? いつもチャットだけだったのに、通話なんて……」

 なんだか、恵の声が上ずっている気がしたが、今は気にしているひまはない。

「実は、相談したいことがあって……」

 そう言って、泉は話し始める。

 当然ながら、実はドラゴンと……なんて言えないので、ある程度のうそを混ぜながら。

 最近、とある人と知り合って、よく話をするようになったこと。

 その人は、消えてしまいそうだった自分を立ち直させてくれた、恩人と呼べる存在だったこと。

 その人が、もうすぐ死んでしまうかもしれない、ということ。

 そこまで話して、泉はぽつりとこぼす。

「……俺は、どうすればいいんだろう? 俺は、あいつのために何ができるのか、わからなくて……」

「そっか」

 恵は、ただ静かに泉の気持ちを受け止めてくれた。

 そして、優しく言葉を返す。

「私は、その人のこと、全然分からないけどさ。もし私がその人だったら、泉がそばにいてくれるだけでいいかなって思うよ?」

「…………そばにいるだけ?」

 そうだよ、と恵は返す。

 そばにいる。

 本当にそれだけでいいのか?

 あのドラゴンには、本当にやり残したことはないのか?

いずみはさ。その人と会話しているだけで、それだけで良かったんでしょ?」

「……そうだな」

 何気ない会話だけで。そばにいてくれるだけで。それで良かった。

 あの特別なことなど何もない。

 ただドラゴンと一緒にいる。

 そのことが、何事にも代えがたい特別なことだった。

「なら、きっとその人も泉がいてくれるだけで、それでいいと思っているんじゃないかな。だってさ――」

 優しい声で、恵は教えてくれる。

 まるで、もうすぐいなくなってしまう誰かのように。

「そばにいてくれるって、すごい嬉しいことなんだよ?」

 ……その言葉に泉は、気づく。

 もういなくなってしまう、かけがえのない存在。

 何かもっと特別なことをしないといけないと、恩返しをしなければならないと思っていた。

 でも、すでに泉は、特別なことをしていたのだ。

 もう迷いは、消えた。

「も、もちろん、私も泉がいてくれるだけでうれし」

「ありがとう、めぐみ!」

 泉は、一方的に電話を切るとすぐさま準備を始める。

 あのかけがえのない存在のそばにいくために。

 ……その頃、恵はというと。

「わ、わりと勇気出した言葉だったのに……」

 奥手な彼女は、スマートフォンを握ったままへこむことしかできなかった。


 翌日の昼。

 泉は、ドラゴンのいる川辺に来ていた。

 ドラゴンは、眠っていたが泉に気づいて目を覚ます。

「ん……泉か。って、何をしているんだい?」

「何って……テント立ててる」

「いや、それは見てわかるが……」

 少し困惑こんわくしているドラゴンを見て、泉は作業中の手を止めて思わず笑ってしまう。

 いつも落ち着いてるドラゴンの新たな一面を見れたことも嬉しかった。

 同時に、この楽しい時間がもうすぐなくなってしまう寂しさもあった。

 泉は、なんだか複雑な気持ちなって、笑っていた表情がくもる。

 ドラゴンは、そんな泉を首をかしげて見る。

「泉? どうしたんだい?」

「ああいや、なんでも」

「ふむ。で? なんでテントを?」

「ここに泊まるんだよ」

 泉の返答を聞いても、ドラゴンの疑問は解消されることはなかったようで、首を傾げたままだった。

 さすがに説明不足がぎるか、と泉は反省する。

「……君は、自分がもうすぐ死んでしまうのは、知っているのか?」

「……ああ。り人から聞いた」

「だから、その時までそばにいたいなって思って」

「それは、いいな。最期の時に、一人というのも……寂しい」

 その言葉を聞いて、泉はテントの設営を再開する。

 いつも一人でいるので、ずっとそばにいられるのは鬱陶うっとうしい、と思われるかと思ったが、どうやら杞憂きゆうだったようだ。

 テントの設営が終わった泉は、アウトドアチェアをテントの近くに設置し、本を読み始める。

 そこから数日間、泉とドラゴンはただお互いにそばにいるだけの時間を過ごした。

 ときおり会話をするだけのもので、それ以外は何もしなかった。

 会話も今はどんな本を読んでいるのかとか、あまり特別なことではなかった。

 その姿は、守り人から死の宣告を受けた前の二人のものに戻っていた。

 まるでカフェでコーヒーをたしなむ時間のように、のんびりとした、どこか満たされた時間だった。

 泉がそばを離れるのは、何度か食料品を買いに行く時とトイレの時だけで、それ以外の時間はドラゴンのそばを離れなかった。

 そして、数日経ったある日の夕方のことだった。

 ドラゴンは眠っており、泉は本を読んでいた。

「お主は確か、神楽かぐらと言ったか?」

 泉は、その声に顔をあげる。

「守り人さん……」

 気配どころか足音すら一切しなかったが、泉は気にしていなかった。

 ……守り人が来たということは。

「……いよいよ、なんですか」

 泉の言葉に、守り人は頷く。

 覚悟はしていた。

 だが、やはり悲しみがあふれてくる。

 涙が、ほほを伝うのが分かる。

「……いずみ

 振り返ると、ドラゴンは目を覚ましていた。

「もう、分かって、いる、みたいだね」

「……ああ」

 ドラゴンは、弱々よわよわしく体を持ち上げる。

 それは、泉が見たことない姿だった。

 その存在感に圧倒される泉をドラゴンは舌でとららえる。

「うわっ!?」

 おどろく泉を角の間に乗せると、ドラゴンは言う。

「しっかり、捕まっているんだよ」

 何をするのか泉が聞く前に、ドラゴンは空へと飛び立った。

 ぐんぐんと上昇を続けて、あっという間にくもを抜ける。

 雲を抜けた先には、果てしなく広がる雲海うんかい橙色だいだいいろに照らす、まぶしくかがく夕日が見えた。

 その景色に、泉は息をむ。

 その景色は、泉が今まで、いや今後見る景色の中でも、最も美しいものだった。

「泉」

「……なんだ?」

「ありがとう」

「こちらこそ」

 時間にして、十分ほどだろう。

 でも、何事にも変えられない十分間だった。

 空の旅を終えた泉とドラゴンは、川辺に戻ってくる。

 ドラゴンから降りた泉は、改めてドラゴンと向き合う。

 ドラゴンは、泉の顔を見て満足そうに頷くと、目を閉じる。

 ……そして、もう目を覚ますことはなかった。

「……守り人さん。この後、ドラゴンはどうなるんですか?」

火葬かそうして、墓に埋葬まいそうさせてもらうよ。言っておくが、規律で墓地は我々守り人だけしか入れん。悪く思うなよ」

 り人は、身にまとったローブからつえや何かの液体が入ったびんなどを取り出す。

 泉は、それをだまって見ていた。

「ふむ。お主、いい顔になったな」

「え?」

「ふふ、自覚なしか。まぁ、もう大丈夫じゃろう?」

「はい」

 いい返事じゃ、と答え、守り人は本格的に火葬の準備を始める。

 杖で地面に何かを書く守り人に、泉が話しかける。

「あの守り人さん。お願いがあるんですが……」


「おーい、めぐみ龍輝りゅうき。こっちだよ」

「もーお父さん、早いよー」

「そうだよ、泉。私たちのことも考えてよね」

「悪い悪い。龍輝をようやく紹介できると思うと、ついな」

「ねぇねぇ、お父さん。これ、木で出来てるけどおはか……なの?」

「そうだよ、龍輝。お墓は石だけじゃないんだ」

「ふーん、ここは誰のお墓なの? お父さんの知り合い?」

「そうよ、龍輝。お母さんも初めて誰のお墓か聞いた時は、びっくりしちゃったな」

「えー、だれ? 教えてよ、お母さん。」

「ふふ、ヒントはお父さんがいつもつけてるネックレスがヒントかな?」

「あの、なんか堅いやつ?」

「そうだよ、あれはうろこっていうんだよ」

「うろこって、お魚さんについてるやつだよね? お父さん、そんなのつけてるの?」

「そうだよ。でもね、この鱗は魚のでも蛇のでもないんだよ、龍輝」

「えー、じゃあお父さん。それはなんなの?」

「ふふ、実はね、これはドラゴンの鱗なんだ」

「……どらごん?」

「ああ。実はね、龍輝。昔、お父さんはね――ドラゴンと友達だったんだ」

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忘れることのない夕日 きと @kito72

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