旅日記
橘暮四
大空放哉居士を偲ぶ
九月も後半、一人旅をしようと発起した。大学生の夏休みは割合に長いが、それももう終わる。夏が終わる前に、何かしたいと思った。そこで私は、尾崎放哉の足跡を辿る旅に出ようと決めた。尾崎放哉は「咳をしても一人」で有名な自由律俳人である。彼はエリート人生に破れ放浪生活を送ったあと、瀬戸内に浮ぶ小豆島の朽ちた庵で生涯を閉じている。私は彼の人生に憧れていた。何もかも捨てた無常の人生があってこそ、あんなに美しい句が出来上がるのだ。そんな人生を、擬似的にでも辿ってみたら、何か自分の中で変わるかもしれない。私はわくわくしながら計画を立てた。気分はまるで、芭蕉の旅路を辿る蕪村のよう。残暑が香る九月中旬午前九時、私は京都の下宿を出発した。
まず向かったのは同じく京都にある知恩院の常称院。東大路を下り、東に折れて琵琶湖疏水を渡ると、古門を抜けた。その少し奥にある。目印も看板もなく、グーグルマップを使わないとまず目に付かないところだった。どうやら今は中に入ることはできないらしい。固く閉ざされた木製の門を左に曲がって、駐車場らしき広場に出ると、それらしい建物を見ることができた。外見はありがちな瓦葺の木造建築。他にも周りを物色してみたが、それぐらいしか分からなかった。ここには放哉の影は感じられない。そもそも放哉は、この寺で寺男となったが住職に無礼を働いて追い出されたのだ。職を失うきっかけともなった、酷い酒癖の悪さのせいで。よく考えれば、追い出した人間の名残りをわざわざ百年先まで残しはしないだろう。私は二、三枚写真を撮って、さっさと退散した。
そしてバスで四条まで向かい、地下鉄や阪急を乗り換え乗り換え、二時間ほどかけて神戸の須磨までやってきた。次の目的地は須磨寺。放哉が先の常称院を追い出された後、転がり込んだ寺だ。須磨寺駅を降りると、やけに多い参詣者に目が行った。さらに参道には雑多な屋台までもが並んでいる。はてなと思っていると、なるほど今日はお大師様の縁日らしい。しかも今日は敬老感謝の祝日だ。道理で子どももたくさんいる訳だ。境内に足を踏み入れると、線香の芳しい香りが鼻腔をくすぐった。見渡す限りいくつものお堂があるが、そのどこででも参詣者たちが熱心にお経を唱えたり、お詣りをしている。子どもたちはあまり興味がないのか、建物の間に立てられた屋台に目を輝かせながら走り回っている。私はお堂にも屋台にも目をくれずに、放哉の影を探した。何とも罰当たりな奴だと自嘲していると、正岡子規、次いで与謝蕪村の句碑を見つけた。どうやら須磨寺にはたくさんの句碑が並んでいるらしい。なら放哉のそれだってあるに違いないと境内を隈なく散策するが、一向に見つからない。何百段もの階段を登った先にある奥の院にまで足を伸ばしても見つからず、疲れた脚で本堂まで戻ってくると、本堂側の池に寄りそうように放哉の句碑が見つかった。「こんな良い月を一人で見て寝る」。灯台下暗しとはこのことである。罰が当たったのか。或いは仏様が、縁日の雰囲気を全部感じられるようにしてくださったのか。そんなのはわからない。偶然かもしれない。だけど、ある偶然に奇跡という名前を付ける価値は知っている。私は独り善がりに満足して、熱気の残る境内を出た。
そのあとは寄り道もしながら、夜には神戸三宮に辿り着いた。ここから小豆島に向かうフェリーに乗り込む積りだ。しかしフェリーの出航時間までは割合時間があるため、軽く夕飯を済ませ、ネットカフェでシャワーを浴びた。シャワー上がりにジュースとソフトクリームを楽しむ。たった数百円でこんなにもサービスを享受してしまってもいいのか?何となくだけれど、余りにネットカフェに入り浸るといつか罰が当たりそうな気がする。今日はそんなことばかり考えている。思考をリセットして、明日の予定を詰めようと決めた。小豆島には尾崎放哉の残した足跡がたくさんあるため、出来るだけ効率的に回りたい。無い頭を懸命に捻っていると、なぜ私はこんなにも放哉の人生に憧れているのだろう、とふと思った。だってそうだろう。少ないバイト代を使ってまで、わざわざ離島まで行くのだから。私は以前から、この問題に対して二つの説を立てていた。それは、放哉の人生を尊敬しているから憧れている、或いは軽蔑しているから憧れている。どちらもありそうな気がするし、どちらもないような気がする。ずっと解決しなかった問題が今すぐ解決するはずもない。思考を放棄するとフェリーの時間が来た。
私はフェリーに乗り込む。この便は夜行便のため、着くのは大体六時間後。歩き回って疲れたので、畳の座席に寝転がると割とすぐに寝付いてしまった。
瀬戸内海が反射する透明な陽射しが窓から入り込み、私は目を覚ました。到着十五分くらい前。まあまあ深く眠れたので疲れはないが、いかんせん身体の節々が痛い。寝心地は夜行バス以上ホテル未満という感じか。まぁ、けちって個室を取らなかった身なので文句は言えまい。大きく伸びをして出発の準備を整えていると、ちょうどフェリーが港に着いたようだ。フェリーを降りて大きく空気を吸う。思ったよりも温かい。奥の方に、夏の匂いを感じた。まだまだ夏は終わっていない。さぁバスに乗り込もうとポケットに手を突っ込むと、あるはずの感触がない。ズボンのポケットやカバンの中身を全部ひっくり返してみたが、やはりICカードが見つからない。そこで思い至る。きっと三宮で落としたのだ。気づいたところでどうしようもない。あのICカードには二千円ほど入っていた。致命的ってほどではないけれど、残りのお金は騙し騙し使わないといけないな。そう思って、出来るだけ長い区間歩いていこうと決めた。幸いまだ朝は早い。海を眺めながら行こう。そうして呑気に歩き始めて三十分ほど経ったころ、だいぶ息が荒れていることに気がついた。というのも、いかんせん小豆島は坂が多くてきつい。平坦な京都に慣れていたモヤシはすぐにへばってしまい、遂に適当なベンチに座り込んだ。もうバスに乗ってしまおうと思ったが、どうやらバスは一時間に一本しか出ないらしい。すっかりへたりこんで二、三分呆けていると、不意にクラクションが短く三回鳴った。弾けるように顔を上げると、目の前に軽自動車が止まっている。助手席の窓は開いていて、運転席のおじいさんと目が合った。聞くと、山道を一人で歩く私を見かけて、気になっているとベンチにへたり込んだので、もしかしたら、と思ったらしい。そしてそのおじいさんも私と同じ方向へ向かうため、助手席に乗せてあげても良い、ということである。私は申し訳なさと恥ずかしさに襲われたが、悲鳴をあげた私の身体が袖を強く引っ張ったので、お言葉に甘えることとした。傾斜のある曲がりくねった道を、車はゆっくりと進んでいく。車窓に流れる風景や建物について、そのおじいさんは疎らに語って下さった。高校の前を通る。高校はこの島にそこしかないらしい。おじいさんのお子さんの時分はもう一つあったらしいが、廃校になってしまったそうだ。少子化の波という奴だろう。そこから更に十五分ほど経つと、わりかし大きな街に出た。おじいさんは大きな通りから一本入った路地で私をおろして下さった。私はほとんど着の身着のままで旅に出て、お礼になるような代物は何も持っていなかったので、せめてお代だけでも、と思い財布を取り出したが、おじいさんはいい、いい、と笑うと颯爽と去っていってしまった。ふっと、心が温かい気がした。人の優しさは温度を持っている。逆に、おじいさんが去っていくまで少しおじいさんのことを疑っていた自分を嫌悪した。こころの外側が温かくなっていく一方、芯の方が急速に冷えていくのを感じた。
その路地から更に二本入ると、右手に墓地の広がる丘が見えた。そして左手には看板。「障子あけて置く海も暮れ切る」
紛れもない、放哉の句だ。看板の裏手に回ると、小さな庵が目に映った。そこで私は気がついた。南郷庵だ。西光寺の奥の院。放哉が晩年の一年弱を過ごした場所。どうやら今は記念館になっているらしい。私は低い石垣のそばを抜けて庭に入った。いくつかの句碑に並んで、木蓮と胡桃の木がひっそりと立っていた。寄り添っているようにも見えた。木蓮も胡桃も、放哉が好きだった木だ。彼の死後に植えられたのだろうか。庭をひとしきり物色したので、ついに庵の中へ入る。ガラリと戸を開けると、炊事場と二畳の土間に出た。見渡していると、中から職員さんが出てくる。私は安い入館料を払い、庵の奥へと入っていった。土間の先にはまず八畳の部屋があり、その奥に一段上がって六畳間。放哉の書いた日記、「入庵雑記」によると、この六畳間に仏像を飾っていたそうだ。それは今は置かれておらず、代わりに、ガラスのショーケース内に展示品が並んでいた。放哉が荻原井泉水などの人物に宛てた書簡など。特に「入庵食記」が記憶に残った。これは彼がこの庵に入ってからの食事を書き留めたものだった。文字はあまり読めないが、次第に分量が少なくなっていき、最後の二日は日付しか書かれていない。その日付は四月五日で終わっている。命日の二日前だ。私は何だか恐ろしくなる。一人の人間が生きた証、そして死んだ証が、リアリティと共に目の前に存在している。生の概念は質量を持っている。
ひとまわりしたところで外へ出て、庵をぐるりと回ると視界が広がった。海が見えた。綺麗だった。放哉は海の見える場所を所望していたらしい。なるほどここなら文句なしだ。
庭を抜けて私は、左手の墓地の方へと進んだ。どうやらそこには放哉の墓があるらしい。「放哉さんの墓」と書かれた看板を頼りに、丘の急な階段を登っていく。だいぶ登ってきたな、と思っていたら、階段の左手奥にそれらしき墓を見つけた。酒の缶がいくつか供えられている。しかし大きさや形は普通の墓とほとんど変わらない。放哉は小豆島時代も住民に好かれていなかったからだろうか。彼をほんとうに気にかけていたのは荻原井泉水や井上一二などごく少ない親友だけだったそうだ。私は手を合わせる。それでも、彼の作った作品を愛する人はいるのだ。種田山頭火という俳人がいる。彼は荻原井泉水が主宰する雑誌「層雲」の選者で、無論自由律俳人である。放哉と直接の関係はなかったそうだが、放哉も「層雲」の選者であったため、お互い認識くらいはしていただろう。山頭火は放哉の死後、この墓を訪れた。そして「鴉啼いてわたしも一人」と呟いたそうだ。おそらく、放哉の「咳をしても一人」への返答。会ったこともない二人が、美しい作品で繋がった。私はこの話をどうしようもなく気に入っている。
次は西光寺の本堂へ向かった。この付近は「迷路の街」と呼ばれるほど道が入り組んでいたが、仏塔が遠くからでも良く見えるため、さほど迷わなかった。西光寺に到着して境内を見渡す。その仏塔以外は普通のお寺だ。しかし、通路の左手奥には句碑がある。放哉の句と、種田山頭火の句が一緒の石碑に刻まれていた。美しいと思った。
海沿いの道へと戻ってくると、エンジェルロードの看板が見えた。潮の満ち引きの関係で、海に現れるという道。小豆島では一番有名だろう。せっかくなので行ってみることにした。道の途中で看板があり、見るとどうやら男女で手を繋いで渡ると結ばれるらしい。そんなことが書いてあった気がする。ロマンチックだなぁと思っていたら着いた。しかし生憎エンジェルロードはまだ海に浸かっていたし、隣に恋人もいない。ドン・キホーテのように勇猛果敢、単騎突撃してもよかったが、虚しくなるだけだろう。写真だけ撮って退散した。
また海沿いの道を歩いていたら、百日紅の花が視界に映った。寄って見ると半分ほどの花が萎んでいる。残りの花も、心なしか元気がない。百日の紅花ももう少しの命だ。夏が終わっていく。
こんな風に目についたものに寄り道したり、適当に昼飯を食べたりしながら最後の目的地へと向かった。三十分ほど歩いて辿り着く。土庄港。高松などと繋がるフェリーが往復する港だ。私は周囲を散策する。五分くらいそうしていると、港の裏側、人目を忍んでいるかのような句碑を見つけた。「目の前魚が飛んで見せる島の夕陽が来て居る」。放哉がこの港に降り立った時に詠んだ句とされる。つまりは小豆島で初めて詠んだ句だ。彼はどのような思いでこの句を読んだのだろうか。どのような思いでこの島にやってきたのだろうか。立派な家柄を捨て、東大の学歴を捨て、大企業の職を捨て、妻子を捨て、俗世も人間関係も全部捨てた彼は、何を思ったのだろうか。私には分からない。
数分経つとバスが来て、私はフェリーの出発地である坂手港へと戻ってきた。三時過ぎのフェリーで神戸に戻る積りなのだが、まだ一時間以上暇があった。そこで、歩いて二十分ほど先にある海岸に行ってみることにした。その海岸へは、右手に海、左手に山の単調な道のりを行った。九月の平日なので観光客も島民もいない。静かな波の音と蝉の声だけ聞こえている。私は出鱈目に歌を歌いながら歩いた。マスクも外して、夏の匂いを思いきり吸い込んだ。日差しが照っている。空は透明な色をしていた。海は緑青色。海の底まで良く見えた。海岸に入り、海の方へと続く岩をとんとん、と渡っていった。私が岩に足をつけると、黒い虫のような生き物たちが蜘蛛の子散らすように岩陰に隠れていく。岩に渡る。虫が逃げる。それが何だか愉快で堪らなかった。幼い子どもに戻ったような心持で、暫く一人遊んでいた。
出発の時間になり、私は港に戻ってフェリーに乗り込む。夜行便と違って、今度は三時間半で到着する。私は窓際の席に座って、適当な本を開いた。二時間強ほど経って、窓に差し込む光が赤みを帯びてきたころ、やけに周りの乗客が少なくなっていることに気がついた。はてなと思い、本を閉じて船内をうろつく。最上階の展望デッキに上がると、たくさんの乗客がそこに集まっていた。彼らは進行方向の先の大きな橋に目を向けている。もうすぐあの橋の下を通過する。なるほど橋を下から見てみようという魂胆らしい。橋が近づいてくる。皆が上を見上げる。私も見上げる。船が橋の真下に入った。鉄骨が良く見える。わぁ、と小さな男の子が声をあげた。そして橋はゆっくりと、後方へと離れていった。乗客たちは暫くそれを眺めていたが、一人、また一人と船内へと戻っていった。そして展望デッキには、私のほかに一、二人しか残らなかった。私は遠ざかる橋を見つめ続けている。橋の少し西の方で、太陽が傾いていた。黄色味がかった夕陽が海に光の道をつくっている。私は夕陽の方に向き直して、綺麗だな、なんて月並みな感想を抱いた。そういえば結局、私は放哉の人生を尊敬しているのか軽蔑しているのか分からなかったな。まぁでも、放哉の人生には迫ることができたからよかった。そんなことを考えているうちに、夕は深まっていく。ついに山の稜線に夕陽の端が沈んでいった。夕陽は次第に形を失い、赤くなっていく。空の色も変わりつつあった。絵の具が溶けるみたいに。ふと太陽が沈む山のふもとを見てみると、ちょっとした繁華街なのだろうか、街の光の粒がきらきらと輝いていた。しかも小さな観覧車まである。緑色のイルミネーションを光らせていた。その街の光景は、まるで宝石箱のようだった。
その時私は、急に胸の奥が締め付けられるような心持がした。あぁ。この街はきっと、子ども時代のメタファーだ。ほとんど確信に近かった。子ども時代の輝いた経験の宝石箱が、ノスタルジックな茜色を背景に遠のいていく。思い出は夕焼と同じ色をしている。それはつまり、子ども時代が思い出になることを意味している。私が大人になることを意味している。街はどんどん遠ざかる。夕陽はどんどん沈んでいく。後ろを振り返ると、東の空はもう夜の色になっていた。待ってくれ。まだ夜に、大人にさせないでくれ。もう少しだけ、子どものままでいさせてくれ。すると、視界の端の排煙筒から流れる黒煙が風になびいて、人のような形に見えた。海に飛び込む自殺者のようだった。私は無意識に柵をぎゅっと掴んでいた。しかしそれは一瞬で、人型はたちまち夕焼の空に消えていった。そして私は気づく。ほとんど天啓みたいに。
私は、尾崎放哉の人生を軽蔑している。
彼は、あんなふうに、それこそまるで自殺者みたいに、全てを捨てるべきじゃなかったんだ。だってそうだろ。私たちは皆、夕陽が沈むのを経験しなくちゃいけない。夜を受け入れなくちゃいけない。大人になっても生き続けて、あの子ども時代の思い出を忘れないでいることこそが、思い出を愛するってことだろ。どんなに汚くてどんなに辛い大人の世界でも、そこで生きることを棄ててしまったら美しい思い出は見れないんだ。私たちは正しい意味で、大人にならないといけない。
ついに夕陽が完全に沈んだ。十代最後の夏が終わった。私は船内に戻る。もうあの街は振り返らない。大人になったのだ。
九時ごろ京都に帰ってきた。踏切を待ちながらふと空を見上げると、大きな丸い月が光っていた。そうだ。今日は中秋の名月。とても美しいと思った。
旅日記 橘暮四 @hosai
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