The winner takes it all

衞藤萬里

The winner takes it all

 僕が三回生、彼女が二回生の秋の終わり。去年から猛威をふるっていたコロナ禍が、ようやく落ち着きはじめた。それでも構内の人間は、まだみんな顔の下半分をマスクで隠している。そうせざるをえない。講義はリモートと対面と、行事や活動の自粛など、試行錯誤の連続で、大学は目まぐるしくあわただしい半年だった。

 導きだした答えに、誰も正解かどうか自信が持てない、そんな季節で、ゼミの後輩の陽子が、初めて僕の部屋に来た夜のことだった。

 ここまで到達するには、なかなかどうして、いろいろな紆余曲折があったのだが、今は割愛する。割愛するが、女の子が男の部屋に来るってことがどういう意味か――諸賢には容易にお察しいただけるに違いない。

 そう、みなさんがご想像する時間があって、この短い物語がはじまるわけなのだが、そのときの僕は穴があったら入りたい気分でいっぱいだった。


 古くさい小説なんかで、俗に“生まれたままの姿”などと形容される状態で、僕と陽子はひとつの布団にもぐりこんでいた。ふたりでかなりのカロリーを消費した後だった。

 僕はうつぶせで、彼女と顔を合わせられなかった。

「……ごめん、かっこ悪くって、下手くそで」

 必死で心の中を整理して、ようやくそれだけ云えた。

「大丈夫、気にしないでくださいよ、センパイ」

 おそるおそる彼女へ顔を向けると、怒ってるわけでも、あきれてるわけでも、軽蔑してるわけでもなさそうで、頬づえをついたままほんのり笑っていた。

 眼が細く、どこか猫のような印象を与える彼女だが、特に今は歳に似合わない大人びた色気があった。むき出しの肩が、男にはない丸みを描いている。

 みっともなかった。身の程知らずに後輩をリードしようとしたのに、ちっともうまくいかなくって、結局、見るに見かねたのだろうと思うけど、歳下の彼女に上手に先導された結果になってしまった。

 いくら経験値が少ないからっていって、あんまりみっともなかった。

 行為の前に探るように彼女に訊ねたら、人並みですよって笑ってたが、あれで人並みだったら、僕なんてまだ仮免許も取れていないぐらいだろう。

 なにしろこちらは、経験人数ひとり以上ふたり未満で、しかもワンシーズンもたずに戦力外通告を出された体たらくだ。

 それにくらべて、彼女はとにかくすべてに手慣れてて、余裕があって、すごく上手だった。

 まったく歯がたたなかったって感じだった。

 あぁ……みっともない。

「そんなに落ちまないでくださいよ。あ、センパイ、あたしのこと遊んでるって思ってません?」

「そんなこと……」

「人並みですよ、あたしなんて」

 にこにこする陽子。

 一昨年ぐらいまで高校生だったはずなのに、あれほどの経験値とは一体何ごとであろうか? これでは僕のような男の立場がないではないか。十代女子の風紀の乱れに、深く憂慮するぞ僕は。

「いろいろ、ごめん……」

 本当に、いろいろだった。察してくれ。

「あたし、充分満足させてもらいましたよ」

 余裕しゃくしゃくだ。気をつかってくれてるってのはわかる。ますます引け目を感じてしまう。

「穴があったら入りたい気分だ」

「さっき入ったじゃないですかぁ」

「うわぁ、オヤジだ、オヤジがいる!」

「あははは」

 陽子は笑いころげる。何という対応力! やはり僕なんか、かなう相手じゃなかった。


「ハローグーグル」

 陽子は枕元のスマホに声をかける。そして、僕の知らない曲名をかけるように云う。情事の後のこの軽妙さ。

 流れた曲を耳にして、陽子は唇をとがらせた。

「もう、また全然違うのがかかる。この異次元解釈やめてよね、ほんと……でも懐かしい、これあたしが高校のころ流行ってた」

 僕も聞き覚えのある曲だ。でもたしか、ずいぶん前の曲だ。

「誰かが最近カバ-したの?」

「え?」

 陽子は首をかしげる。

「これ、本人の曲ですよ、多分?」

「じゃ高校の頃ってことないだろう? だって十年ぐらい前のドラマの主題歌じゃなかった?」

「そう、あたし観てましたよセンパイ」

「再放送?」

「リアルタイム」

「ん……?」

「……え?」

 僕が首をひねると、陽子も意味がわからないという顔をする。

「そんなはずないよ。高校生とか記憶違いだろ。小学生とかじゃない?」

「……え?」

 陽子は本当に驚いたような表情だった。

「違いますよ、このドラマ、塾のない日の夜九時からやってたから、毎週見てたんですよ。はっきり記憶して……」

 云いかけた陽子が、言葉を切った。しばらく何か考えるような表情だった。

「あぁっ!」

 そして突然、びっくりするような大声をあげた。

「ちょっとちょっとセンパイ! センパイ、あたし何歳だと思ってるんですか!?」

「え……? 二年だから十九歳? 二十歳?」

「うわっちゃ~」

 陽子は顔をおおった。

「とっくに知ってるかと思ってた……」

「どういうこと……?」

「あたし、別の大学で院まで行って、それから三年ばかり就職してたんだけど。やりたいことがあって、ここに入りなおしたんですよ」


 彼女が云っていることの意味が理解できるまで、かなり時間が必要だった。

「え、つまり……?」

「あたし、二十九、来年は大台なんですよ」

「え……?」

 つまり僕より八歳年上……うそっ!?

「別に、隠してなんかいないんですけどねぇ……」陽子はあきれ顔だ。「本当に知らなかったんですか? 周りの人だって知ってる人ぐらいいると思うんですけど……」

 あぁ、そういえば……彼女ぐらいの美人だったら、もっと男が寄ってきてもおかしくないはずなのに、なぜかみんな距離をとっていたようにも見えたけど、あれってつまり……

「おかしいと思ったんだぁ……」

 陽子がごろんと仰向けになり、手で顔をおおった。

「そりゃそうですよね、近くにもっと若くてかわいい子がいっぱいいるのに、わざわざあたしなんかに手ぇ出すわけないですよねぇ……勘違いだったんだセンパイの」

「年上だなんて思ってもみなかった……」

 しかも八つも。むしろ普通に後輩だと思ってた。

「女見る眼なさすぎですよ、センパイ」

 苦笑する陽子。年齢を知ると、途端に彼女のしぐさひとつひとつが、大人びたものにみえてきた。

 三十歳直前の女の人って、母の一番下の年の離れた妹がちょうどそれぐらいだから……正直に云っていいのかちょっとわかんないけど、お姉さんっていうより、その……おばさん……ってカテゴリに片脚のその指先ぐらい、ちょんって突っこんでるぐらいのイメージで……僕には。

「でも、そんな歳には見えない」

「ほらほら、この目じりのあたりとかさ」

 そう云って陽子は自分の眼のあたりを指さす。でもぷっくりしてて、二十歳の子と何がどう違うのか、僕にはまるでわからない。

「じゃ、その、人並みって……」

 口ごもったが。陽子は察したようだった。

「そりゃまぁ高校、大学、院、それから会社員時代と、それなりにこなしてきてますからね、センパイ」

 陽子は指を折りながら、からかうように云う。

 仮免前の僕が勝てるわけないはずだ。ますます敵わないって想いにとらわれる。へこむ。

「じゃ、何で僕のことセンパイなんて云うんだよ……ですか!」

「え、だって大学じゃセンパイじゃないですか?」

「だって、陽子……さんの方がずっと歳上で……陽子さんの方こそ敬語使わないでください」

「敬語やめてくださいよ、セ、ン、パ、イ」

「あ、今わざと使ったでしょ?」

「あはは、わかった? でも今さらそういうのなしでね」

「やりにくい……」

 不意に陽子……さんは、僕をぎゅっと抱きしめた。胸のふくらみに、僕の顔は埋まってしまった。彼女の身体の曲線全部が僕の身体のあちこちに密着した。

「敬語禁止」

 耳元でささやかれてしまった。

「あたしがおばさんって知って、萎えました? 三十前って聞いたら、やっぱ、きっついですよね。いいですよ、センパイ知らなかったんですから、今日のことはなしにしたって。そんな気にしなくたっていいですからね」

 頭をなでられながら、優しくささやかれた。

「でも、そういうのって……」

 何か卑怯みたいな気が……

 陽子はふふふと意地の悪い笑い声をあげた。

「あたしも若いツバメがほしかった……」

「オバサンだ! やっぱりお前はオバサンだ!」

 何かもう、全然かなわないって思った。女の人は恐ろしい。

「ねぇねぇ、ちなみにリアルタイムで見てた、仮面ライダーとか戦隊ものって何ですか?」

「え? えぇっと、幼稚園のころだから響鬼とか、カブトだったかなぁ? あとマジレンジャーとかボウケンジャー」

「世代が違う~!」

 僕が答えると、陽子は大笑いする。大はしゃぎだった。

「センパイが産まれたころ、あたしは小学生、センパイが小学校に入ったころ、あたしは中学生、センパイが中学に入ったころ、あたしは大学生かぁ、う~ん、やっぱりギャップがなぁ、おもしろいですねぇ」

「うわぁぁ」

 僕は頭を抱えた。女の人は恐ろしい。まるで勝てる気がしなかった。


* * *


 それが今から、七年も前のことだ。なぜかそのことを、憶いだした。

 今日、妻の陣痛の間隔が短くなったと電話があった。

 僕はうろたえた。上司に話をして、早退させてもらうように頼むつもりだ。事前には話していて、諒解はもらっている。

「そんなに慌てないで」

 痛みに耐えながら、妻は電話の向こうで笑っていた。

「大丈夫だから、あたしに任せなさいって、センパイ」


(了)

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