戦争の歴史は語り継がなければならないものでしょうか

雪子

曽祖父が亡くなって思うこと

 この話では、戦争と人の死というセンシティブな話題について触れていきます。そのため、表現や内容には細心の注意を払って執筆していく所存ですが、もし何か気に障るようなことがございましたら、先にお詫びしたいと思います。

 

 皆様、唐突ですが『衛生兵』という存在をご存じでしょうか。

 Wikipediaで検索いたしますと、


”軍隊において衛生班に属し、医療に関する業務を行う兵士。戦闘支援兵科の一種である。その任務の特殊性と専門性及び人道上の理由から、戦時国際法上における医療要員として、他の兵科の軍人とは異なる各種の保護資格等が与えられている” …①


 というように定義されています。補足いたしますと、衛生兵は国際法規で保護され、衛生兵を攻撃することは認められておりません。しかし衛生兵を欠くと、治療する兵士が減り、敵に大きなダメージを与えられるので誤射を装って狙われることもあったと聞いたことがあります。

 私の曽祖父は、第2次世界大戦で衛生兵として戦地に赴きました。


 そんな曽祖父が105歳で、今年の夏に亡くなりました。お盆直前の暑い日でした。

 曽祖父は、健康体そのもので頭もはっきりしており、ごはんもしっかり食べ、自分のことは自分でなんでもこなし、100歳を超えているとは思えないほど若々しい人でした。強いて言えば耳が遠く、会話をする際にホワイトボードが必要であったくらいで、都合の悪いことは聞こえないふりをして見せたりなんかもするおちゃめな人でした。

 そんな曽祖父でしたが、数か月前から飲み込む力が弱くなってきていました。ご飯が食べれなくなっていくということです。曽祖父は入院し、そのまま老衰で亡くなりました。

「これだとひいおじいちゃんは、閻魔様に会ったあとキュウリの馬に乗って、すぐに戻ってこないといけないね」

 と、亡くなった曽祖父のせわしなさに、少し笑みをこぼしました。


 『笑み』と申しますと、人が亡くなってるのに不謹慎だと感じる方もいるかもしれません。しかし私にとって曽祖父の死は、劇的で悲しくやりきれないものなどではなく、105年という想像もできないような長い時間を生き抜いた曽祖父のきたるべき最善の終末として感じられたのです。


 曽祖父のお通夜は、コロナ禍ということもあり、非常にこじんまりとしたものでした。比較的近くに住んでいる近しい親戚がぽつりぽつりと集まっただけの、小さなお通夜。

 私はお通夜が始まる前の時間に、埋まらない席を見つめながらふと思いました。

「曽祖父には、見送ってくれる友人もいないのか」

 と。

 確かに、コロナ禍で親族以外の人は呼んでいません。ご近所の人も呼んでおりません。

 しかし、そうでなくてもおそらく曽祖父には見送ってくれる友人や知人がいない、もしくはいたとしても非常に少ないのではないかと思い至ったのです。

 105年という長い年月の中で、ひいおじいちゃんは『見送り続ける』立場だったのではないか。そして最後には、見送り続けたにも関わらず、いえ、見送り続けたものの宿命として、見送ってくれる人がいないまま亡くなったのではないか。

 そう思うと、胸がチクリと痛み、長生きすることのむなしさについて考えさせられました。

「長生きしてね」

 などという、会うたびに挨拶のような気持ちで口にした私の願いは、少しも嘘ではなかったけれど、そのむなしさや大変さに思い至らなかった自分が急に恥ずかしくなったのです。

 

 お経を聞きながら、生前の曽祖父のことを思い出していました。

 まだ首も座っているか分からないくらい小さい私を抱いた写真を、大事に飾り続ける曽祖父。

 会話の途中で急に入れ歯を外しておどけてみせる曽祖父。

 しわしわになった手を合わせて「よう来てくれたね」と私たちの訪問を喜んでくれる曽祖父。

 ひいおばあちゃんとずっと仲良しだった曽祖父。

 私が知りえる曽祖父は、下手をしたら学校の友達よりも一緒にいた時間が少なかったため、いわば他人の友人よりも不思議に包まれた存在だったのかもしれませんが、確かに曽祖父は『私の曽祖父』として、私を大事にしてくれたと思っています。


 お通夜が終わり、その帰り道、花火が上がっていました。その花火を見ながら、先ほどよりは感傷的ではなく冷静になった頭で曽祖父のことを考えました。そして思ったのです。

「私は戦争のことについてひいおじいちゃんに何も聞けなかった」

 と。

 私の母や、おばには酔うとよく戦争について語っていたという曽祖父。どこからか、誰のかも分からない血のついた水筒を持ってきて戦争について語っていたといいます。

 そんな曾祖父は、私を含むひ孫たちにあまり戦争の話はしませんでした。

 興味がなかったと言えば嘘になります。直接経験した曽祖父の『生きた経験』を聞くことや、語り継ぐことに、ある種の義務感のようなものを感じたこともあります。

 しかし私は曽祖父に、

「戦争の話を聞かせて」

 と話を切り出したことはありませんでした。正確にいうと、切り出せなかったのです。

 戦争について語ることは曽祖父にとって辛いことかもしれない。母やおばには話すのに、私には話をしないことには何か理由があるのかもしれない。

 そんなふうに思うと、いつも出かかった言葉を飲み込むしかなかったのです。

 それが私の考えすぎであったとしても、です。風化していく記憶のなかで、曽祖父の戦争経験が語れるくらいには遠い昔のことになっていたとしても、少しでも曽祖父が苦しいと思うことを、思い出させたくなかった。

 また、戦争について尋ねることは、曽祖父を『戦争を体験した貴重な存在』として認識していることの証明のように感じられ、曽祖父という一人の人間としてというよりは、『戦争体験者』というレッテルを貼り付けて曽祖父を見ているような気がしてならなかったのです。

 これを、人は『逃げ』と呼ぶのでしょうか。辛い経験も、風化させてはいけない、語り継ぐべきだ、などというのでしょうか。それが生き抜いたもの、これから生きていくものの『義務』であると。

 確かにその通りだと思います。忘れてはいけない歴史というものが、世の中には間違いなく存在する。戦争の歴史はその最たるものだと言っても過言ではないでしょう。

 しかし、自分の血のつながった曽祖父に、

「どんなに辛い記憶でも、語り継がなきゃいけないんだよ」

 と、面と向かってそんなことが言えるかというと話は別です。

 急に、語り継ぐことや話を聞くことが、少し嫌悪感を伴った『きれいごと』のようなものに聞こえてくる。

 ここで引用することが正しいのかはわかりませんが、太宰治の『斜陽』の中に、


”戦争の事は、語るも聞くのもいや、などと言いながら、つい自分の「貴重な経験談」として語ってしまった” …②


 という一節があります。

 曽祖父にとって戦争体験が、本当は語るのも聞くのもいやなのに、つい語ってしまう、世の風潮的に語らなければいけないもののように感じられるものであったとしたら。相反する気持ちの中で、どんなふうに曾祖父の心が痛むのかと考えると、私の胸も鈍く痛みました。


 戦争について語ることは、間違っていないし、大切なことであると思います。私が曽祖父の話を聞くことできなかったことは、『もったいない』ことであったかもしれません。

 曽祖父が、私の想像通りの気持ちを抱えていたかもわかりません。むしろ、自ら聞きに行ったら『勉強熱心だ』と言ってくれたかもしれない。それは分かりません。

 しかし、今回私は『語り継がなければいけない風潮』の中で、考えるものがあった。この気持ちを、文章にしたかったのです。


 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。この文章が、読んでくださった方にとって何か印象に残るものであったならば幸いです。




【引用】

①衛生兵  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E7%94%9F%E5%85%B5 (2021年9月23日アクセス)

②太宰治『斜陽』 https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1565_8559.html


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