70代 鈴木善幸
名前 鈴木善幸 すずき ぜんこう
生没年 1911~2004
出身 岩手
在職 1980.7~82.11
与党 自由民主党
・首相経験者の中でもかなり長寿な方。既に亡くなられた方の中では、清浦圭吾元総理、西園寺公望元総理とならんで第3位です。
・明治生まれ最後の首相。
・麻生太郎現自民党副総裁の義父で、鈴木俊一財務大臣の実父。
・いい意味で、普通のおじいちゃんに見えます。往年の俳優にもいそうだし、近所にもいそう。悪口ではないです。
・もとは日本社会党から出馬したが、のちに吉田茂の民主自由党にうつり、池田勇人の側近となった。その後は大平派の一員となり、他派閥との調整役となった。田中角栄とは盟友。
・大平内閣では自民党総務会長となったが、大平の急死を受けて首相の座が空白となった。その人選を巡って様々な候補が挙がったが、最終的には(消去法的に)田中と近い大平派である鈴木の名前があがり、総理総裁となった。知名度はなく、アメリカのメディアには「ゼンコー フー?(Zenko who?)」と言われた。大平急死までの党内が分裂状態だったため、鈴木は「和の政治」をスローガンに掲げた。
・自派である宏池会以外の反主流派からも閣僚を入れ、最終的には全派閥を主流派入りさせた。
・一方、対米関係は、外務大臣の園田直が、鈴木・レーガン共同声明を「声明には鈴木総理の意思が反映されていない。声明は条約・協定・覚書とは異なる。外交上の拘束力はない」と発言したため、大きな問題となった。園田は緊急記者会見を開き釈明したが、結果としてはアメリカからの信頼を落とす形となった。
・角影内閣、暗愚の宰相とも言われ、また対米関係の著しい悪化によって岸信介ら親米派によって倒閣運動も起こったが、巧みな党内人事の成果もあり、内閣を脅かすほどのものではなかった。そのため、1982年の総裁選で再選されれば長期政権も視野に入っていた。。しかし、1982年10月、突如総裁選不出馬を表明したこれはメディアすらも把握していない事態であり、現在でもその理由は完全には明らかになっていない。
・しかし折に触れて次の首相は中曽根康弘であることを示唆していたこともあり、後任を巡る混乱はなかった。
・首相退任後、中曽根康弘首相が田中派のみを優遇し、鈴木内閣の外交を批判すると、鈴木と田中・中曽根の関係は悪化。鈴木は福田赳夫などと組み、田中派の二階堂進自由民主党副総裁を擁立しようとして中曽根内閣を倒し、田中・中曽根体制を倒そうとしたが挫折し、これに加わった党長老の三木、福田、鈴木は、党内での影響力を低下させていく。同時に田中派だった二階堂が、田中角栄の意向に反して総裁選に意欲を見せたことで、田中派の結束にもほころびが見え始めた。
1986年には宏池会会長を宮澤喜一に譲り、90年に政界を引退した。
・奥様のさちさんは2015年、95歳で亡くなった。長生きはすばらしいですね。こどもの俊一さんや娘の麻生ちか子さん、義理の息子の麻生太郎さんもぜひ長生きしてほしいです。
・外交には疎かったものの、内政では功績を挙げたと言えるように思えます。
・閣僚の中には郵政大臣として塩川清十郎氏、運輸大臣兼国家公安委員長として石破二朗(茂さんの父)氏、官房長官として宮澤喜一氏がいました。改造後は農林大臣に安倍晋太郎さんがいます。
1981.2 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世初来日
.3 中国日本人残留孤児47人初来日
.5 鈴木・レーガン共同声明(日米は「同盟関係」)
.9 首相として初めて北方領土と復帰後の沖縄訪問
1982.4 五百円硬貨発行
.7 歴史教科書問題発生 中国との関係
.9 鈴木首相訪中
.10 鈴木首相退陣表明
歴代総理並べてみた 蓬葉 yomoginoha @houtamiyasina
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