翌日もルカはイライラしたようすで個展に向かった。僕は卒論の仕上げをせねばならず、図書館に引きこもることにした。

 大学図書館の地下は人と顔を合わせることが少ない。だから本の世界に入り込めるし、逆に言えば余計なことばかり頭に浮かんでしまった。

 考えていたのは、やはりナナのことだった。

 彼女の正体はまだわからない。どうして死んでいるのか。どうして死んだまま朽ちていないのか。目の前で起きている怪現象に、僕らは何ら科学的理解を示せなかった。ただ不思議だという三文字で片付けることしか出来なかった。

 片手間に防腐処理の本も読んで見たが、もちろんナナのようなケースが載っているはずが無かった。本の内容はミイラの作り方とか、葬儀での死体の扱いかたとか、モルグでの処理方法とか、そんな内容ばかりだった。

 そんな答えしか無いと、もちろん僕だって不思議で仕方なくなる。喉元まで出かかっている寺院名があと一歩で出て来ないような感覚。その実僕らは、深い深淵の向こうにある答えを探していたのだけれど。

 そのうち僕が卒論そっちのけで調べだしたのは、あのアトリエ――薬局だか薬品工場だったか――が存在していた頃の記録だった。

 僕は珍しくレファレンスカウンターで、司書の教授に尋ねた。

「今から四十年ぐらい前からの東京都赤羽区の地図とかってありますか? もしくはその当時の新聞とか」

 司書の回答は、「ある」だった。

 大学のPCからアクセスできるデータベースの中にそのどちらもが入っていたのだ。古地図も、古い新聞記事も。すべてPDFでデータ化、アーカイヴ化されて、ネットの海に転がっていた。

 僕は戦後から順を追って地図を見続けた。やがて一九七〇年代の地図でそれを見つけた。

「ミツシマ薬局……?」

 間違いなくあの場所だった。

 見れば薬局の隣には、病院もあった。名前は同じくミツシマ病院で、大きさから見てそこそこの病院のようだった。

 それから年代を追っていくと、どうやら八〇年代後半ぐらいから病院が消えていることに気付いた。何があったかはわからない。同時期の新聞のアーカイヴスも追って見たが、主だった記事は見当たらなかった。『赤羽の病院で女性が監禁殺害』とわかりやすく書いてあれば、まだ良かったかもしれない。殺人事件や行方不明の少女なら三十年のうちに何件かあったようだが、それがすべてあの廃墟につながっているはわかるはずなかった。

 結局、収穫はなく。僕は未完成の卒業論文と共に、退館時間に図書館を追い出された。


     *


 図書館を出ると、ちょうど狙い澄ましたようなタイミングでルカから連絡があった。

《いまから来れる?》

 文面はそれだけ。

 どこに来れるか、は書いてなかった。が、アトリエのことに決まっていた。

《いいけど、相談があるの。山口君にしかできない》

《じゃあ行くよ》

 京浜東北線に飛び乗り、南浦和行きを赤羽で降りる。それから例によってニューデイズで缶コーヒーとサンドイッチだけ買うと、アトリエに向かった。夜の団地裏の通りは薄暗く、女性が一人で歩くにはずいぶんと物騒な雰囲気だった。

 それから藪をかき分けて、あの廃屋のなかへ。室内は暗幕で締め切られ、常光灯がナナを照らし出していた。余計な光はすべてシャットアウトされていた。

「調子はどう?」

 缶コーヒーを差し出しながら問う。

 ルカは首を横に振った。

「こないだのヌード写真あったじゃない」

「うん。どうだった?」

「てんでだめでした。初歩的なことがなってないって」

「初歩的なことって?」

「コミュニケーション」

「というと?」

 僕は聞いたけど、ルカは答えなかった。買ってきたUCCのブラックコーヒーを一気に飲み干して、空き缶をその場に捨て置くだけだった。

「わたし、山口くんに頼みがあるって言ったよね」

「ああ。たしか、僕にしか頼めないって。まさか本当に3Pさせるとか言わないよな?」

「言わないよ。山口くんを撮らせてほしいの。ただそれだけ」

「僕を? 作品にでもする気?」

「しないわよ。ただ練習をするだけ」

「その、“コミュニケーション”の?」

「うん、そんなところ。ナナをいったんどけるから、そこに立ってくれない?」

「それならお安いご用だけど」

 ルカは言うなり、床に置いていたカメラを取り上げ、ナナをコンクリートのほうまで退かせた。そうして僕は、ここ半年以上ナナが占拠していた撮影ブースに踏み入れることになった。

 そこは思った以上に過酷な空間だった。降り注ぐ光はまぶしく、目を開けるのさえ辛い。彼女が死体だったからこそ何不自由なくしていたが、生身の人間にはすこし窮屈だ。しかもそれだけの宏量の灯りなのだから、熱も同様に発している。涼しいからと羽織っていた上着もすぐに脱ぎ去りたくなるぐらいだ。

「じゃあ撮るよ」

「いいけど。何かした方がいいポーズとかある?」

「うーん、まあ笑ってよ。そのほうがきっと良いと思う」

 僕は不器用に笑った。きっとぎこちない写真が撮れたと思う。

 それからルカはしばらく無言でシャッターを切り続けた。僕も合わせて、それっぽいポーズとか角度とか考えてみたけど、何が正しいとか、何が美しいとかはわからなかった。すべてはルカのファインダーの中で行われていて、僕には触れようが無かった。

「思うんだけど」

 ルカが何も言わないから、僕から口を開くことにした。

「何を?」

「ナナのこと。思いつきだけど、小説にしたらどうかなと思って」

「いいじゃん。山口君は文才があるから、書いてみるといいよ」

「でも重要なことが一つ欠けているんだ」

「なに?」

「この物語にはオチがない。僕らはナナの正体がわからないままだ。僕らは科学者じゃないから調べられないし、警察に届け出るのも今更できない。かといって、ナナに直接聞くこともできない」

「死人の口なしだから」

「そうだ。だから、書いても面白くないかなと、いま思った。もし書くとしたら、彼女がどうして死してなお美しいか、理由を創らないと」

「ウィルスだとか、写真で時間を切り取られたとか」

「そういうこと」

「それは至難の業ね。そういえばそんな話、椎名林檎の歌詞にあったよね」

「ギプスだろ。『写真になっちゃえば、あたしが古くなるじゃない』とかそういう」

「うん、そういうこと」

 僕らはそれから十分少々写真を撮り続けた。でも、それがよい作品かというと、きっと違ったと思う。不器用でぎこちない笑みの、冴えない大学生が写っていただけだろうから。

 現にそのあと、パソコンで僕の写真を見させてもらった。どれも身体がガチガチで、慣れてない感じがしていた。

「これじゃ作品には使えない。でもまあ、たまにはいいでしょ。こういうのも」

「まあね。ところで師匠さんが言ってた『コミュニケーション』ってけっきょく何のことだったんだ?」

「さあ。自分で咀嚼して考えろってことよ。うちの師匠は多く語ってくれないの」

「昔気質だ」

「職人なのよ。アーティストってそういうもんでしょ」

 ぱたん、とパソコンを閉じる。ルカは満足したのか、してないのかわからない表情をしていた。

「それはそうと、小説にしてみるって良いアイディアだと思う。書いてみたら?」

「どうだろう。さっきも言ったけど、オチがないから。ナナの正体が不明じゃ、読者が納得しないだろ。ミステリならそれは通用しない。そもそもナナはこの廃屋のどこから見つけて来たんだ?」

「知りたい?」

 ルカは握りしめていたカメラを置く。ある種の覚悟みたいなものがそこに見えた。



 午後二十二時すぎ。まだ終電はあるが、それでも遅かった。でも僕はまだアトリエにいた。ルカの案内で、アトリエの奥深くに案内されていた。

「わたしね、実はなんとなくナナの正体がわかる気がするのよ」

 そういうルカだったが、しかしその言葉の裏に確信めいたものはなさそうだった。

「あくまでも想像だけどね。実はさ、わたしもこの場所は最初、別のポートレート撮影で使おうと思ったの。友達が『廃墟とおじさん』っていう写真集を作っていてね。中年の普通のおじさんを、廃墟のなかでカッコよく撮るっていうのがテーマの写真集なの。それに参加しようと思って、色々場所を探していてね。それで偶然見つけたのがここだった。それで、この廃墟のなかで良いロケーションがないかなって探していて。そのうちに見つかったのがナナだった」

 重たい引き戸を開け、倉庫らしき部屋に入る。薬品の茶色い小瓶がいくつも散乱している。巨大な本棚にはもう本が無かった。

「この本棚の裏に階段があったの。地下室よ」

「地下室なんてあったのか?」

「うん。たぶん秘密の地下室なのよ。ライト貸して」

 僕が持っていた懐中電灯を受け取り、ルカは階段を一歩ずつ下がっていく。その先には南京錠が仕掛けられた扉があった。でも、錠前はとっくに朽ちて外れていた。

「地下室って、すごいアングラな雰囲気じゃない? 文字通り地下アンダーグラウンドなわけだし。だから良い雰囲気かと思ったけど、違ったのよ」

 がさっ、と大きな音を立てて扉が開く。

 それから僕はぎょっとするような光景を目にした。

 それは、大量の人形だった。

 種類は様々だった。日本人形からフランス人形、マネキンから、さらに奥には等身大の精巧な人形や、空気で膨らますものまであった。ただすべてに共通していたのは、それがすべて女性を模した人形であることだった。

「たぶん性玩具ラブドールよ、これぜんぶ」

 ルカは言った。手前にある等身大の少女を引き寄せて。

「このなかでナナを見つけたのよ。最初はビックリした。怖くて逃げだそうと思った。でも、これはこれで画になるかもと思って、我慢して中を探してみた。これはきっとこの廃墟の持ち主――薬剤師か医師かはわからないけど――のコレクションだったんだと思う。性玩具のコレクション。自分の一方的な性欲を押しつけるためだけの。そしてそのなかに、一体だけあまりにも精巧な人形を見つけた。でも、それは人形じゃなかった。人形だけど、人形というには精巧すぎた」

「それは死体だった」

「そう。人形にさせられた死体だった。都合のいい性玩具にさせられた、たぶん。それがわたしの推理。そしてわたしも前の所有者と同じだったんだと思う。わたしもナナのこと都合のいい創作のはけ口に使った。それだけ。そのほうが傷つかなくて済むから。……コミュニケーションって、そういうことなのかな。人間を人間たらしめる生命力とかって、そういうこと?」

「わからない。けど、これは……」

 僕は言葉を失い、しばらくその人形の群れを見ていた。このことを公表するかとか、警察に通報するかとか、そんなこと考えすら及ばなかった。ただ眼前にある奇妙な光景に圧倒されるだけだった。

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五角柱形のディスコミュニケーション 機乃遙 @jehuty1120

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