それから一ヶ月ほど、僕はルカのアトリエには行かなかった。理由はいくつかある。

 一つ目は、院試に向けた勉強が本格化して、そろそろ卒論も大詰めに差し掛かってきたということ。

 二つ目は、実家にしばらく帰っていたこと。祖父が入院し、母がしばらくのあいだ家を空けるというので、そのあいだ実家にいる犬の世話をして欲しいと言われたのだ。勉強はどこでも出来るし、実家近くの図書館に行けばある程度のことは調べられるし、仕事人間の父は犬の世話なんてこれまでした試しがなかったから、引き受けた。うちの犬はクヌギと言い、小麦色をした柴犬だった。

 三つ目は、きっとナナのことが怖くなったのだ。おそらく、それが最大の理由だと思う。それまで彼女の存在はフィクションの向こう側のようで。僕の目がナナを見るとき、そこにはいつも薄く曇ったパネルを一枚通して見るような気分だった。パネルの向こう側は別世界で、あの向こう側がこちらに侵入してくることは絶対にない。僕ら生者の世界と、彼女たち死者の世界は一本の明確なラインで線引きされていて、それ以上はお互いに相互不干渉を貫いている、そんな気がしていた。

 でも、違うのかもしれないと思えてきた。

 それもこれもルカがウィルスの話を持ち出したからだ。あの話のせいで、僕の中でナナの存在は突然に現実味を帯び始め、それまでのフィクションとしての彼女が崩壊し始めた。薄く曇ったパネルは、ゆっくりと曇り止めが塗られていき、向こうとこちらの気温差は徐々に無くなり、結露した窓は綺麗に乾いていく。水垢の一点もなく、隅々までセームで拭き上げられたガラスのように……。

 そんな僕が久々に彼女のアトリエを訪ねたのは、前回の来訪から一ヶ月後のことだった。

 別段、ルカを避けていたわけではない。彼女も例のコマーシャルフォトグラファーをしている師匠に作品を提出しなければならず、その展覧会も近づいていたからだ。ルカは思い通りの写真が撮れずに苛立っていた。

 精神が逆立っているときは、下手に他人と触れあわない方が良い。お互いに。それは僕の処世術で、このときもそれは正しかった。

 そういうわけで、僕らはしばらく距離を置いていた。


 僕らが再会したのは一ヶ月後。その日、僕はクヌギを母に返し、新幹線で上野駅に戻った。

 ルカの師匠と、その弟子たちの個展が開かれていたのは、そんな上野駅から十五分ほど歩いたところにあるアート・ギャラリーだった。辺鄙な所にあるので、客入りが微妙なのは目に見えていた。行ってみると、予想どおり見物人は少なかった。

 喫茶店の二階にある画廊、名前は「ギャラリー・リンネ」と言った。オーナーの名前なのか、はたまた別の何かからとった名前なのかはわからなかった。

 中に入ると、僕以外に若い女が一人入っていた。それ以外はカメラマンの卵らしき男女が二、三人いるきりだった。ルカはその二、三人のうちの一人だった。

 先客の女性――下北沢にいるような古着に身を包んだ、ヒッピー風の芸大生然とした女性だった――は、僕が来るなり挨拶もせずに画廊を出た。何か居心地の悪さを覚えて、そのまま消えていくみたいだった。

「どう、展覧会は」

 僕がそう声をかけると、ルカは不服そうに腰を上げた。どうやらパソコンでレジ打ち作業をしていたらしい。見れば、展示品のポストカードを売っていた。一枚二百円と少し割高だった。

「どうもこうもないわよ」

 ルカは苛立ったように声を荒げる。

「作品、見てみたら? 見てから話すよ、山口君には愚痴りたいことがいっぱいあるから」

「そう。じゃあ、まずは作品を拝見するよ」


 五分もあればぐるりと一周できてしまいそうなスペースには、所狭しと写真が並べられていた。大判に出力し、木板に貼り付けられて、クリーム色の壁に鋲を打ってかけられていた。

 はじめに、彼女の師匠であるカメラマンからの挨拶文があった。この展覧会の意義、目的、彼のカメラマンとしての主義や思想がつらつらと書かれていたが、あまりにも思想的な言葉が多くて、僕には半分も理解できなかった。

 それから彼の写真が十枚ほど並んだあと、弟子の写真が並んだ。およそ二十枚くらい。大判からL判まで様々。写真の下には撮影者の名前と作品名が書かれていた。大半はポートレートで、流行のアンニュイで退廃的なメイクをした女の子が物憂げに笑う写真が多かった。

 僕はルカの名前を探したが、しかし最後の最後まで彼女の名は登場せず、そのまま個展はエンドロールを迎えた。彼女の名はどこにも無かった。

 戻ってくると、僕の表情からルカは何かを察したみたいだった。

「わかった?」

「うん。ナナの写真は?」

「説明するよ。ここじゃなんだから。外にでない?」

「いいけど、いいのか、店を空けちゃって」

「いいのよ」

 ルカはそう言うと、「真鍋君」と奥にいた色白の背の高い青年を呼んで、彼に店番を任せた。

「行こう。アトリエのほうが話しやすいから」


 僕らは上野駅まで歩き、そこから京浜東北線に乗った。外は薄暗くなり始め、道ばたには酔っぱらいたちが現れていた。

 ちょうどよく赤羽行きがあったので乗り込んだ。みんなその次の大宮行きに乗りたいらしく、車内は空席が目立った。

 赤羽についたら、さらにもうしばらく歩いて、あの藪の中をかき分けて、彼女のアトリエに。

 それは、いつもと変わらずにそこにいた。

 薬品のツンとした匂いが鼻につく。開けた空間に一人たたずむ死体の女。真っ黒いシャツワンピースを着た彼女は、まぶしそうに右手を顔に当てていた。きっとルカがそういうポーズを取らせたのだろう。

「で、ルカ。いったいなにが――」

 僕がそう言いかけた、次の瞬間だった。

 ルカが履いていたコンバースのスニーカーがコンクリートの床を蹴りつけ、破裂音を鳴らした。かと思うと、彼女は勢いよく飛び上がり、右の拳を大きく振り上げて――

 それを、ナナの顔面に向けて振り下ろした。

 拳はナナの頬に直撃し、死体は縦に半回転ひねりをしながら床に転げ落ちた。ただその衝撃とは裏腹に、ナナの肌に傷がついた様子は無く。むしろルカの手の甲が赤く腫れ上がっていた。

 僕はナナに駆け寄り、その身体を抱え起こした。もちろんナナが痛がるはずはなかった。ただ黙って、開きっぱなしの瞳孔でどこか遠くを見つめているだけだった。

「どうして?」

 僕がそう問うと、ルカは頭をもたげ、しばらくのあいだ眉間に皺を寄せて唸った。やがてピース・ライトを上着のポケットから取り出すと、安息地を求めるように火を点けて、小さく紫煙を吸った。

「ナナの写真を展覧会に提出した」

「それで、その写真は?」

「破り捨てられた」

「師匠に?」

「そうよ」

 ルカはピースの先端が真っ赤になるまで勢いよく吸った。辛い煙が彼女の舌を襲い、ルカはまた苦い表情をした。

「撮ったなかでも特に自信があったやつを五十枚ほど見繕って出した。その中でも特に気に入ってる一枚があって、それはあの個展の目玉になるって絶対に思ってた。でも、あいつはそれを破り捨てた。どうしてだと思う?」

「……。」

 僕は黙っていた。

 こういうとき、女性が求めているのは答えじゃない。同意だ。無言という同意。だから僕は余計なことは喋らず、ただじっとルカの瞳を見つめ返した。

 ルカはまたピースを吸った。

「『生命力を感じない』ですって。そりゃそうよ。だって死体を撮ってるんだもの。そこから生命力なんて感じたら、その人の感性はそれまでってことよ。でも、だからなに? 生命力って作品に重要なこと?」

「先生はなんて言ったんだ」

「活力を感じない。この作品は精緻な作りをしているけれど、そこからモデルだとか、わたしの息づかいのような物を感じない。これはただコンピュータ・グラフィックスと同じだって。そう言った。でも、なにそれ? 結局あいつらが撮ってる写真だってね、金で雇ったモデルにああせいこうせいって指示して、作り物の光を当てて、すべてが偽物なのに。それをさも『現実でござい』っていう風を装って。最終的にはライトルームやフォトショップで膚や目や顔も全部加工して綺麗にしてしまうのに。それとわたしの作品の何が違うっていうのよ? 何も違わないわよ。ただ一つ違うのは、モデルが生きてるか死んでるか、それだけ。でも、死んでるからって何なの。死体から生命力を感じ取れないほど、わたしたちの頭は想像力に欠けているわけ?」

 まくし立てるように言い、すべてを言い切ると、ルカはやっと落ちついたように腰を下ろした。ピースはもうフィルターの根元まで焼けていたが、それでも彼女は吸い続けた。やっと葉っぱがすべて燃え尽きると、その吸い殻をナナに投げつけた。フレアスカートの裾がちょっとだけ焼け焦げてから、吸い殻はコンクリートに飲み込まれていった。

「ごめん、完全に愚痴だった」

「いいよ、別に。でも残念だったな」

「そうね。わたし、いい作品が作れると思ったのに」

「結果はダメだった?」

「さあ。あの人にしてみればダメ。でも、わたしはなかなかいい線行ってたと思ったの」

 ルカは二本目の煙草に火を点ける。

 それからも彼女の愚痴はあふれ続けた。

「たぶんね、わたし思うのよ。あの人は『生気』とか『生命力』とか言うけどさ、そんなの嘘だって。ねえ、今回の個展で優遇されてた真鍋君の写真は見た?」

「あの一緒に画廊にいた?」

「そう。彼の作品ね、『ワルツ#2』ってタイトルだったんだけど。まあ、良い作品なの。彼の知り合いのシンガーソングライターの女の子を撮ったらしいんだけどね。光の切り取り方がうまいの。でも、わたし評価されたのはそこじゃないと思う」

「じゃあ、どこが評価されたの?」

「その女の子が下着姿だったこと。朝、起き抜けに彼女がギターを弾いているところを撮ったのよ。サンデイ・モーニング・コールってね。寝間着代わりの黒の下着姿のまま、アコースティックギターを弾く女の子って。なんかさ、結局あいつらの言う生気とか生命力って、たぶんエロティシズムとか、ヌーディズムだと思うのよ」

「本当に?」

「ほんとよ。少なくともわたしはそう思う」

「じゃあナナをヌードモデルにするか?」

「それ、考えてたの。でも、それだけじゃ足りない」

「足りないって。何が?」

「セクシャルの方。ねえ、山口君。わたしとナナと3Pしない?」

「は?」


 もちろんそんなことはしなかった。

 ただ、ナナの服を脱がし、彼女にペニスの代わりに煙草を咥えさせた。「赤い口紅がついた煙草がエロティックだ」とルカが言うものだから、彼女は僕の煙草を一本ひったくると、ナナの口に押し込んだ。

 でも、僕にはなんとなくわかっていた。この作品が評価されるはずが無いって。

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