三日後のこと、ルカから連絡があった。

《またアトリエに来ない?》

 彼女は気まぐれなやつだった。連絡を寄越したのは早朝の四時頃で、一緒に送られてきた写真には、カーペットの上でうつ伏せになって寝そべるナナの姿と、ニコンのカメラ、交換用レンズが数本、それから吸い殻で山盛りになった灰皿があった。

《また差し入れを持っていくよ。それから、撮影に使えそうなものも持ってく》

 僕がそう返したのは、八時過ぎのこと。

 その日、講義もなかった僕は、近くの東急ハンズで適当に雑貨を買いそろえ、スーパーでお弁当とボトルコーヒーを買ってから向かった。


 道中、僕はスマホでサイニーとグーグル・スカラーを端から調べていた。検索ワードは、「死体 綺麗に保存」、「人間 剥製」、「死体 冷凍保存」とか色々。ナナがどういう仕組みであの美しさを保てているのか、気になって仕方なかったのだ。

 しかし、検索で引っかかってくる論文はと言えば、移植手術のための臓器の保存方法だとか、犯罪捜査のための検体の保管方法だとか、絶対零度の中でナウマン象が見つかった事例だとか、ミイラの作り方だとか、そんなことばかり。ナナの正体に迫るような情報は、(もちろんのことだけど)どこにもなかった。

 

 アトリエに続く道は、三日前よりもさらに険しくなっているように思えた。古ぼけたエアコンの室外機がツタまみれになって道を阻む。触れたらいかにもかぶれそうな植物ばかりで、半袖で来たら体中が真っ赤になっていただろう。

 やっとの思いで裏口まで回ってきた。地面は昨日あった夕立でぬかるんでいた。一歩踏み出すたびにネチョネチョと音を鳴らし、空気と泥とを攪拌していた。

「ルカ、差し入れ買ってきたけど」

 立て付けの悪いドアを開けて、薄暗い屋内へ。

 しかし返事は無い。ただ空間の中央で、たくさんの照明に焚かれ、ナナがいるだけだった。彼女は真っ赤な絨毯の上に座り、黒のフレアワンピースをはだけさせている。背中のチャックが途中まで下ろされていて、赤いレースの下着が見え隠れしていた。

 僕は、彼女が死んでいると、もう意識がない存在だとわかっていたのに、それでも恥ずかしく思った。でも、しばらくして彼女が無反応なことに気付くと、まじまじとその肌を見てしまう自分がいた。

 絹のように透き通った肌。触れたらわかる陶器のような冷たさ。その触り心地はあきらかに人のそれなのだが、しかし何か違和感がある。肌が死んでいる。生きていない。温かくない。膚にある毛穴の一つ一つが死んでいて、呼吸していない。

 彼女があきらかに”物質”であると、そう主張しているようだった。

「……死んでるんだよな、これ」

 見た目にはわからない。

 でも、触れたらわかる。

 だけど、もし生きていたら。

 その美しさは、そこらの女子大生とは比較にならないほど。ルカが惹かれたのもわかった。こうして間近に見るとわかる。ヘーゼル色の瞳と、真っ赤な唇。僕はその唇に触れたく、その吐息が感じられる距離にいるのに、呼吸を感ぜられない違和感に困惑しながら……。

「ナナ、君は何者なんだ」

 返事はない。

 君はどうしてそのままの美しさを保っているんだ。

 誰が君をそうしたのか。

 誰が君を保存したのか。

 どんな魔法が君の時を止めてしまったのか。

 カメラがそうするように、時を止めてその瞬間を切り取ってしまうように。


 ルカが帰ってくる間、僕は彼女のアトリエを散策することにした。彼女を探しがてら、この廃墟がどんなものか気になったのだ。

 ルカは、ここが元々病院だか薬局だか、あるいは薬品の工場だと言っていた。それは確かに正しいようで、ベルトコンベアの跡地のような場所には、薬品を入れておく瓶の残骸やら、注射器の残りのようなものが散乱していた。ただし残っていたのは金にならなそうなものばかりで、電球だとか鉄で出来たものだとか、あるいは機械の類はすべて持ち去られていた。よくスクラップを盗んでは、金属売りに売り飛ばす輩がいると聞く。きっとここもそうなんだろう。金策に困った浮浪者や、金目のものを狙った泥棒がやってきて、めぼしいものはみんな取っていってしまったのだ。

 ここに残されたのは、誰にとっても価値がないゴミだけ。そして、一人の死体だけだった。

 うろうろと歩き回ったが、あるのはがらんどうのスタジオと、給湯室のような部屋(もちろん蛇口だとかは盗まれていた)、それから何も無い倉庫だけだった。

 一回りしてスタジオまで戻ってくると、フォト・スペースの前でルカが立っていた。真っ白い空間にナナを立たせたまま、彼女は床いっぱいにカメラを広げていた。

「なにそれ、撮影のカメラ?」

「ジャンク品。リサイクルショップで回収してきた。しめて三千円」

 僕がそう問うと、ルカは作業したまま答えた。

 見ると、どれも銀塩時代のカメラのようだった。コニカ、ミノルタ、旭光学……最近では目にしなくなった古いメーカが並んでいた。どれもボディには傷があり、真鍮製の黒いボディは、塗膜が剥げて黄銅色になっていた。

「どうするんだ、それ」

「とりあえず撮ってみるけど。無理ならナナに持たせるかな、アクセサリーとして」

「そうか。差し入れ、買ってきたけど。いる? 昼飯まだだろ?」

 僕はレジ袋を持ち上げて言った。

「いただくわ」


 買ってきたのは幕の内弁当が二つ。ルカの好物がよくわからないから、適当に買ってきた。

 ルカは可も不可もないように、ただ必要な栄養を摂取する作業のように弁当を食べた。ハンバーグの下に敷かれていた油を吸ったスパゲティまですべて。

 レジ袋に弁当のガラを捨てたら、撮影は再開された。僕はその様子を部屋の隅からただじっと見つめた。

 シャッター音が響き、ストロボが明滅する。アンブレラに閉じ込められたライトの群れは、一度ルカがシャッターを切るたびに「チューン……」と小さく鳴き声を鳴らし、そしてまたナナ目がけて一心不乱に光を投げかけた。その様子は太陽を無心で追いかける向日葵のようにも見えた。

 ルカはずっと黙りこくったまま、一時間ほどシャッターを切り続けた。ときおりカメラを下げ、小首を傾げては、ルカのポージングを変えたり、あの古めかしいフィルムカメラを首から下げさせたり、手に持たせたりしたが、そのとき以外はただシャッターを切り続けた。果たしてそのうちに彼女が――あるいは彼女の師匠が――気に入るショットが何枚あったかはわからない。もしかしたら一枚も気に入らないから、ただ撮り続けたのかもしれない。

 僕は何か手伝おうかと思ったが、ルカとナナとの間に広がる雰囲気に圧倒されて、ただ見ていることしか出来なかった。何か結界か、魔術のようなもので、そこだけ人払いがされているような。そんな気さえしていた。


     *


 結局僕にできるのは缶コーヒーの一本や二本と、ピースをもう一箱ぐらい買ってくるだけだ。赤羽駅方面、団地の裏を抜けた最寄りのセブンイレブン。僕は一服がてら買いに行った。とはいえ、実のところはあの「ルカとナナとの結界」に居心地の悪さを覚えて抜け出してきただけだった。

 しばらくして戻ってくると、ルカは疲れた様子で地べたに座り込んでいた。ナナはきわどいポーズを決めたまま、胸元を少しだけ晒して立ち尽くしたままだった。もちろんだがナナは下着などつけていなかった。

「満足のいく写真は撮れたのか?」

 僕は一缶百円のブラックコーヒーを差し出した。

「わかんない」

 ルカはそれを受け取り、投げやりに答えた。ひどく疲れ切って、声からも覇気が消えていた。何かを創る、形作るというのは、他人が思うよりも体力が要る行為だ。僕もそれはよく知っていた。僕なんて、ゼミに提出するエッセイを書くだけで疲れて寝込んでしまうのだから。芸術としての写真を撮ろうというのなら、その何倍というエネルギーが必要に違いない。

「ねえ、山口くんはさ」

 残り一本になったピースに火を点けながら、ルカが言った。

「どうして彼女が死んだままあの美しさを保っていると思う? わたしたち、命とか魂とか自由意志みたいなものを失ったとしたら、それは肉の塊に他ならないわけだけど。彼女はそう見えない。どうしてだと思う?」

「難題だね、それは」

 僕もラッキーストライクに火を点けた。灰皿は無く、このコンクリート打ちっぱなしの床がその代わりだった。

「でも、さっき僕が思ったのは、それは写真だってことだよ」

「というと?」

「たとえば、ルカが使ってるカメラはレンズとセンサー、あるいはフィルムを通してその瞬間の光を切り取っているとする。そうなると、この瞬間は時が止められて、永遠にその瞬間でしかなり得なくなる。そのフレームに収められた五歳の少女は、たとえ十年後に二次成長期を終えた高校生になったとしても、その写真のなかではいつまで経っても五歳児のまま。そしてその少女も、両親も、その写真を通してでしか五歳のときの彼女の容貌を思い出せなくなる……。つまり、そのときの形で、そのときの美しさで止められてしまう。その瞬間にすべては取り込まれて、その瞬間を通してでしか五歳の彼女は存在し得なくなる……。いまのナナは、そういう状態なんじゃないかって」

「はは、ひどく思想的で夢想的だね。目の前で起きていることなのに、遙か遠くのフィクションみたいに語るじゃない」

「でも、そんなことだろ。ナナは普通じゃ無い。リアルのできごとには思えないのだから。僕はいまだに彼女が突然動き出して、息をして、目で僕らをみて、何か僕らに呪詛を吐いてきそうにも思えるよ」

「まあ、確かにね。山口くんのそういう変な考え方、キライじゃないよ」

「それは良かった。じゃあ、ルカはどうなのさ。どうしてナナは”このまま”死んでいるんだと思う?」

「そうだね……」

 ルカは吐息混じりにつぶやき、ポケットからピース・ライトを取り出す。オイルライターで火をつけ、軽く紫煙を吐き出すと、やっと考えがまとまったようだった。

「たとえばさ」

 彼女は結論では無く、物の喩えからスタートする。

「わたしたちがナナのことを不自然に感じるのは、彼女は生きているみたいな姿で死んでいるからだよ。そうでしょ?」

「まあ、たしかに」

「死んでるのに生きてる、生きてるのに死んでる。それってなに? わたしね、それはゾンビだと思うんだ」

「ゾンビ?」

 突然のフレーズに、僕は思わず聞き返した。さっきまでフォトグラファーだった彼女は、とたんにビデオショップの店員みたいな早口さで滔々とうとうと語り出した。

「そう、ゾンビ。ゾンビは死んでいるのに、生きているみたいに振る舞うじゃない。体はズタズタ、心臓も動いてないし、脳味噌だって働いちゃいない。なのに、動いている。それってなぜかっていうと、まあホラー映画だからなんだけど。でもその理屈を考えるとさ、だいたいの映画はウィルスだとか病原菌だって言うのよ。人間を犯す病原菌が、その人の命と引き換えに体を奪う。いわば寄生虫みたいなものだよね。宿主の命を奪い、その肉体のコントロールを奪い、ウィルスが蔓延するためだけに肉体は暴れ出す……。って、はじめにゾンビを考えた人がそこまでのことを考えていたかどうかは知らないけれど。でも、たとえばナナも――」

 言って、ルカは銜え煙草のままナナの皮膚に触れた。ナナの肌は冷たい。理由は明白、血が通ってないから、生きていないからだ。

「たとえばナナは、未知の病原菌に侵された最初の罹患者で。そのウィルスの宿主である彼女は、本来死んでいるけれど、体の中を巣くう寄生虫たちのおかげで美しさを保てているとしたら……?」

「それじゃあ、ここは死に至る病の感染源グラウンド・ゼロになるって?」

「かもね。パンデミックの震源地。もしそうなったら、わたしが撮った写真はピューリッツァーものかも」

「あるいは未知の病原菌を連れてきた大罪人として後生罵られ続けるかもね」

「あるいは感染爆発を食い止めた英雄として勲章でももらうか」

「冗談だろ」

 僕はそう言って、ルカに続いて煙草に火を点けた。

 僕は口でこそ冗談めかして彼女の与太話を嗤ったが、しかし内心では妙な胸騒ぎを覚えていた。その原因が何なのか。しばらく胸の奥を反芻し続けていると、やっと正体がわかった。

 今朝方のニュース、NHKのキャスターがむすっとした顔のまま言っていた。中国かどこかでインフルエンザの変異型が現れて病院が大混乱だとかなんだかって。

 対岸の火事に、僕は何も思わなかったけれど。もしかしたらそういう物の発生源というのは、こういう一般人の奇妙な出来事と、ふとした思いつきが連鎖事故的に連なって、世界を震わせるのかもしれない。

 あれだ、香港での蝶の羽ばたきが、ニューヨークでハリケーンと化すように。


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