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「彼女、死んでるよ」
ルカはそう平然と言いのけた。
それはさも自然なことで、ルカの声音は「今日わたしは生理だからイライラしてる」と言っているときと同じトーンだった。
ルカは何かを隠すふうもなく、悪びれる様子も、怖がる様子も見せず、その『死体』に触れた。そしてデッサン人形でもいじるみたいに腕を動かし、足を動かし、首を曲げてポーズを取らせた。手の指を開かせて花を持たせてみたり。さっきまでルカが吸っていたピースを持たせてみたり……。
僕は取り憑かれたように、その死体を見つめた。そのうちいても立ってもいられなくなった。
「ルカ、ファインダー覗いてもいい?」
「いいよ。見てみなよ、楽しいから。そのために山口くんのこと呼んだんだもの」
ルカのカメラ、シルバーメタリックにやや歴戦の傷がついたニコンのDf。取りつけられた大口径の単焦点レンズは、ポートレート撮影用にとバイト代三ヶ月分貯めて買ったものだった。
ファインダーを覗くと、まずルカが見えた。モデルのポージングを終えたらしく、一休憩するようにピースに火を点けた。相変わらず彼女はうまそうにピースを吸った。僕は思わずシャッターを切った。
「余計な写真撮らないでよ。わたし、撮るのは好きだけど、撮られるのは苦手なの」
「よく知ってる」
「じゃあ、ちゃんとモデルを撮ってよ」
紫煙を吐き、ルカは満を持してと言わんばかりに、画角から退いた。
ルカが退いたあと、そこにはレンズとプリズムを通して描写された死体があった。
でも、その像を――レンズと光学ファインダーによって切り取られた像を見たとき、僕はそれが死体だとは思えなかった。完璧に装飾の施された完璧な被写体がそこに存在したとさえ思えた。テレビの向こう側にいるような女優やモデルが目の前にいて、僕はそれと一対一でフォトセッションに臨んでいるような。そんな気持ちになった。
「驚いたでしょ」
「うん」
「クソみたいな就活のことなんて忘れちゃうくらいに」
「うん、これは……」
思わずシャッターを切る。半押し、レンズがオートフォーカスし、モデルを切り取る。背景の廃屋がぼけて消え、代わりに彼女の完成された死の表情を浮かび描き出した。
その無表情とも、微笑みとも、悲しみとも言えない感情表現。本当ならば「無」だと、「死」と言って片付けてしまえばどれほど楽なことか。でも、そうした言葉で表してはおこがましいというか、彼女に失礼だというか、そう思えてしまう僕がいた。
簡単なフォトセッションのあと、僕らは廃屋の給湯室で休憩を入れることにした。給湯室といっても、もう扉が無くて、フォトスタジオから完全に直結していたのだけど。
ルカが持ち込んだシングルバーナーとビアレッティの直火式エスプレッソメーカーで、濃いめのコーヒーを入れた。角砂糖を二つ。二人でピースを吸いながら。
「あの子、どこで見つけたんだ」
僕はピースが半分まで燃え尽きたところで言った。
「この廃屋の中で。初めから死んでたし、あの状態だった」
「どうして腐ってないんだ?」
「わからない。防腐剤でも入ってるのかしらね。わたし、そのへんのことは文系だからよくわかんないけど。でもまあ、彼女と出会ってから一ヶ月は経ったけど、腐ったりはしてない。異臭もない。おかしいのよ、この廃墟。妙に匂いがない。まるで無菌室のよう」
「本当な人形だったりとか?」
「かもね。でも、あんなにリアルな人形は見たことない。わたしね、一度だけ一体数百万円もするラブドールを見たことがあるの。すごいのよ、肌も人間みたいなさわり心地で、髪の毛もちゃんと植毛されてて、瞳もすごく綺麗。それにちゃんと乳首やおまんこもついてて、きちんとヌードになっても萎えないように作り込まれてるの。でもね、」
「でも?」
僕はコーヒーを飲んだ。ルカはピースをやっと半分吸い、灰を近くの側溝に落とした。
「不気味の谷って知ってる?」
「人形だとかロボットだとかに違和感を覚えるとか、そういう」
「うん。人の形に近づけていったとき、ある点で人間は親近感ではなく、忌避感を覚える。もっと人間に近づけられれば、その忌避感の谷は超えられるのだけど。それにはかつてない高いハードルがある。人形って、どうしてもそのハードルを超えるのが難しいの。日本の変態技術者が汗水垂らして作った精緻なラブドールでさえね」
「それが、彼女にはない」
「そう、無いの」
ピースを吸う。コーヒーを飲む。いつものルカ。でも、僕らは明らかに奇怪なことに手を出していた。
「わたしさ、個展を開こうと思ってて。師匠の知り合いが画廊をやっていてね。そのオーナーさんが場所代は安くするから個展をやらないかって。若いアーティストに発表の場を与えたいんだってさ」
「営業トークに乗せられてないか、それ」
「かもね。でもね、わたし思ったの」
よっ、とコンクリートに座り込んでいたルカは、煙草を銜えたまま立ち上がった。
「画廊に彼女の写真を並べたとき、目の肥えた評論家どもはどんなコトを抜かすのかなって」
「手の込んだドッキリというか、なんというか」
「でも、面白いでしょ」
言って、ルカは僕を退かして、再びカメラを握りしめた。三脚からカメラを外し、手持ちで撮影を始める。シンクロしたストロボたちが右から左から、死体めがけて熱いフラッシュを焚いていった。
ひとしきりのフォトセッションを終えると、ルカは片付けを始めた。カメラと機材は大きなキャリーケースの中に詰め込み、そして死体は綺麗に着衣を整えると、撮影ブース近くのソファーに横たえさせた。
そのソファーは、おそらくこの廃屋にあったものなのだろう。元は革張りの豪奢なものだったのだろうが、滑らかな生地はあちらこちらが破け、中から土色をした綿が飛び出していた。まるではらわたの裂けたぬいぐるみみたいだった。
「その子、そこにおいておくのか?」
ブラウスにスラックス姿のまま、彼女は寝転ばされた。体は硬直して動かない。死後硬直というのだろうか? デッサン人形がポーズを取ったまま動かないように、指先は透明な何かを掴んだまま、足は見えない床を踏みしめたまま、ソファーに横倒しになった。
ルカは最後に、彼女の目蓋を静かに閉じた。死者にそうするように。いや、その子は死者であることに間違いなかったのだが。
「うん。なぜかね、腐らないのよ。わたしが彼女を見つけたときも、このまま放置されていた。夏の暑い日に、この廃屋に、そのままね。まあ、日当たりが悪いからよく冷えるけどね、この部屋」
「にしたって……。まるで剥製だ」
「かもね。彼女のハラワタを割いて見たことはないけど、もしかしたらそうなってるかも」
「ぞっとする」
「いまさら何を」
最後に毛布をかけてやり、彼女は静かに眠りについた。それはしばらくのあいだの休息だった。
「山口くんにさ、実はお願いがあって」
「お願い?」
「うん。名前、この子の名前を考えて欲しいのよ。わたし、色々考えてみたんだけど、どうしてもしっくりこなくてね。わたしより山口くんの方が文才あるから、きっと君にお願いした方が良い名前がつくと思って」
「文才なんて無いよ。ルカだった同じ文学部だろうに」
「サボりがちだけどね」
「うん。そうだね」
僕はソファーの前に腰を下ろした。ホコリっぽい床に片膝立ちになって、静かに毛布を退けた。青白い肌と、黒く艶やかな髪があらわになった。しっかりと化粧もされている。死に化粧、という感じでは無く、いまどきの女学生がやりそうなそれだった。
「”ナナ”とか、どう?」
「どう書くの? 意味は?」
「カタカナで”ナナ”でいいよ。ほら、似てるだろ、あの女優に。ほら、ナントカ・ナナっていたじゃないか」
「あー、言われてみれば確かに」
「それに今日が十月七日だから」
「十月七日は死体記念日?」
「うん。君が死体が綺麗だと言ったから」
ふん、とルカが鼻で笑った。
「ナナ、ね。いいじゃん、それ。そうしよう。彼女はナナ。死体のモデル、ナナで」
†
ルカは、ナナのことを撮り続けた。ルカにとって彼女――あるいは、”それ”――は完璧なモデルであり、主題であった。たとえばそれはW・B・イェイツにとってのモード・ゴーンのような存在なのだと思った。
永遠の主題。
その少女の死体を撮り続けることがライフワークだと、ルカは感じているようだった。取り憑かれているようだった。
ナナは、あのアトリエのなかでしか、あのフォトブースと、ファインダーの中でしか生きらない。外に出すわけにはいかないし、ひとたびソファーに横たえれば、彼女はいよいよ死者に戻ってしまう。
だから、あの中でしか完結しえないから。
ルカは、ナナを撮ったのだと思う。
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