五角柱形のディスコミュニケーション

機乃遙

 久方ぶりに東京メトロに乗った。駒込で乗り換えて京浜東北線に乗り込むためだ。

 乗り換えの王子駅のニューデイズで、僕と彼女の分の缶コーヒーと煙草を買ってから、レジ袋片手に一本あとの南浦和行きに飛び乗った。電車の中は平日の夕方ということもあり、それほど混んではいなかった。塾帰りの小学生たちが座席の上で膝をジタバタさせている。夕暮れは車内に強い西日を与えたけれど、しかし誰もブラインドを下げようとは思わず、ただ手元のスマートフォンに目を下ろすばかりだ。

 僕もその一人で、左手にレジ袋をつかんで、右手はメールの履歴を見ていた。

 就活のメールはすべて迷惑フォルダに入れた。もう十月だというのに就職先は決まっていない。「大学院に行きたい」と理由もなく親父に話すと、「好きにしろ」と学費だけ用意してくれた。僕は逃げたし、社会に背を向けたのだった。それが世間様にとって良いことかどうかと言えば、良いはずがなかったけど。でも、僕にはそうするしかなかった。文学を研究したくなかったわけではない、本当はずっと本の中で暮らしたかった。自分を邪魔しない無意識たちと過ごしているほうが、僕は気が楽だった。

《あとどれぐらいで着く?》

 リクルーターからのメールを片っ端から迷惑フォルダに入れていると、ルカからメッセージが来た。

《いま王子を出たから、十分以内に赤羽につくけど。君のアトリエって駅からどれぐらい?》

《自転車で五分くらい。向かえに行くよ。駅で待ってて》

 グーサインのスタンプ。

 僕はスマートフォンをポケットに突っ込み、耳挿したイヤフォンの電源を入れた。自動再生は小沢健二の『流動体について』を流した。


     *


 大澤ルカ。

 彼女が僕とつるみ始めたのは、大学二年の秋ぐらいだったと思う。九月の終わりぐらいで、その日は季節外れの寒さだった。いつもなら、まだ半袖で過ごしていても不自然ではないのに、その日はダウンジャケットを着たっておかしくなかった。

 僕らは同じイギリス文学のゼミを取っていて、その日はゼミの飲み会だった。下半期スタートの懇親会とか言って、十人ぐらいのゼミ生で親睦を深めましょうって。一人の女学生が思いついたのだった。

 正直、僕は出る気なんてサラサラなかった。だって、飲み会なんて出るガラじゃあないし。大学生の騒がしい飲み会は好きじゃないし、何よりその親睦会を思いついた女学生というのが、僕にとってはいけ好かない女だったのだ。旅行系のサークルに入っているという彼女は、去年のミスコンの二番手で、今はJALだかANAだかに入りたくて、必死に学生時代の美談を作ろうとしていたのだ。僕は彼女にとっての『学生時代に頑張ったこと』にされてしまうのはまっぴらだし、そんな彼女の勢いに付き合えるほどのバイタリティもなかった。

 でも、彼女が無理矢理に来るようにと押し迫るものだから、結局この全員参加の飲み会に馳せ参じるハメになってしまったわけだ。

 池袋の魚民で、僕は一番端の席でハイボールを舐めていた。会話に参加する気も起きなくて、僕はただ彼女たちの意識の高い就活話を右から左に受け流してた。

 そのうちやる気がなくなったので、煙草を片手に席を外れた。「ちょっとお手洗いに」と言っても、彼らは僕の方を見向きさえしなかった。彼女らにとっては「グループのリーダーとして活躍した武勇伝」さえあれば、ほかには何も要らないのだから。

 サラリーマンが戻した吐瀉物を横目に、僕は小便を引っかけ、店の出入り口脇にある喫煙所に背を持たれた。

 すると、同じタイミングで喫煙所に立ち寄った女がいた。銀縁のメガネにピクシーカット、ヴィヴィアン・ウエストウッドの変形シャツをオーバーサイズで着こなしていた。手元にはピース・ライトとマッチがあった。

「山口くん」

 彼女はピースを一本銜え、マッチで火を点けながら言った。山口というのは、僕の名前だった。山口コウタ。何のひねりもない普通の名前だ。

「わたし、大澤ルカ。同じゼミの。っていっても、いつもサボってるからわかんないよね」

「えっと……」

 そうじゃなかった。

 大澤ルカのことは知っていたが、見た目がだいぶ変わっていたから気付かなかったのだ。夏のころの彼女は、暑苦しいようなロングヘアだったから。それがライザ・ミネリのようはショートヘアになっていたから、わからなかったのだ。

「くだらないよね、ミユキのやつ。こういう飲み会、ホントくだらない」

 彼女は僕の返答などお構いなしに話し、惜しげも無くピースを真っ赤に染めながら吸った。

「山口くんって、こういうところ来るタイプの人間? ていうか、煙草吸ったら? 吸いに来たんでしょ?」

「うん、まあ」

 僕はポケットからイムコのライターを取り出したが、しかしフリントを擦ってもウンともスンとも言わなかった。オイル切れだった。

「火、貸してあげるよ。マッチで良ければ」

「ごめん、ありがとう」

 ラッキーストライクに火を点け、僕は天井に向けて紫煙を吐き出した。

「なんかつまんなくない? わたし、無理矢理誘われたから来たんだけど。誘われておいて、結局ミユキの仲間内で騒いでいるだけで。なんかほんとくだらないんだけど」

「大澤さんも無理に呼ばれたクチ?」

「ルカでいいよ。山口くんも?」

「うん、まあ。初めから仲良しグループだけでやってればいいものをね」

「良いカッコ見せたいんでしょ。でも、向こうからやたら話しかけられるのもイヤだけど。わたし、ああいうタイプとは話が合わないから」

「わかるよ、僕もミユキさんみたいなキラキラした女の子とは一緒にいられない」

「それ、山口くんってそんな感じがする。初めて話したけど、なんとなくわかるもの。わたしに似てるのね」


 しばらく僕らは無言で煙草を吸った。仕切り板の向こうでは、ミスコン二番手の女が焼き鳥を取り分けていた。

「ねえ、山口くんさ。暇なら抜け出してわたしに付き合ってくれない?」

「付き合うって?」

「これに」

 彼女は背負っていたリュックサックを広げると、中から何かを取り出した。銀色をした無骨な物体。巨大なレンズを備えた、それは一眼のデジタルカメラだった。

「実はさ、わたし最近大学サボりがちなのには理由があって。写真家になりたいの。それで、コマーシャルフォトをやってる師匠に弟子入りしようと思ってて。それでね、弟子入りするにはいい写真を撮って来いって言うのよ。で、それが師匠のお眼鏡にかなえば弟子入りさせてやるって言うの」

「ふうん。写真やってるんだ」

「そう。でね、ポートレート……って、人物写真のコトなんだけど。それを撮りたいんだけど、モデルになってくれる友達が全然いないのよ。わたし、性格が悪いし社交的じゃないから」

 言いつつ、彼女はニコンの一眼レフを僕に向け、一枚シャッターを切った。そこには紫煙をくゆらせる冴えない僕が写ったはずだ。

「だから、山口くんさ、これから夜のポートレート撮影の被写体になってくれない?」

「被写体って、僕よりミユキさんみたいにミスコンに出るような綺麗なモデルを撮った方が良いよ」

「綺麗なモノを綺麗に撮ったところで、それが美しいに決まっているじゃない。わたし、何か歪な美を見いだしたいの」

「それは僕が歪っていうのこと?」

「かもね」

 カシャン、とシャッターが落ちる音。

 それが合図で、僕らは飲み会を抜け出すことを決めた。


     *


 その夜撮った写真は、あいにく大したものにはならなかった。でもルカの熱意を認めたのか、師匠は彼女の弟子入りを認めたらしい。

 以来僕は、ルカの撮影を手伝ったり、彼女がサボった講義のノートを見せてやったりしていた。もっとも、三年の秋に彼女は必修の単位を落としたため、見事留年が確定したのだが。

 赤羽駅で降りると、ちょうど駅前のロータリーにママチャリを漕ぐ彼女がいた。カゴはコンビニのレジ袋で一杯だった。

「お疲れ。はい、差し入れ」

 そう言ってガサゴソと取り出したのは、ペットボトルのコーラとピースが一箱。彼女のお気に入りだった。

 僕らは駅前の喫煙所で一服すると、それから荒川沿いに歩き出した。巨大な公営住宅と団地が立ち並ぶ住宅街、その向こうに彼女の”アトリエ”があるらしい。

「アトリエなんて、大学生の見習い写真家がどうやって見つけたんだ」

「ちょっとね。っていうか、正規の方法で見つけたわけじゃないのよ」

 僕の歩幅に合わせて、ルカは自転車を押していく。チェーンがカラカラと空転している。

「非正規ってこと? まさか不法侵入?」

「まあ、実はそんなとこ」

「いいのかよ、それ」

「いいのよ。誰も使ってないみたいだし、ホームレスの寝床にされるよりいいんじゃない?」

「そうかもしれないけど……」

 しばらく、コーラを飲みつつ歩いた。道中のコンビニで空いたペットボトルを捨て、さらに五分歩いたところで、やっとその場所に着いた。

 荒川沿いの土手下の町。小さな民家と集合住宅の間にある、雑木林のさらに奥にそれはあった。

 コンクリート打ちっぱなしの壁に、錆びきったトタンと瓦屋根。二階建ての小さな廃屋。壁はツタでビッシリと覆われ、そして腐りきった室外機が風車のように回っている。一歩林のなかに踏み入れると、廃墟というか、薬品のような、鼻につくツンとした刺激臭がした。

「こっち、道が木で塞がれちゃってるから、かき分けて来て」

「かき分けてって……よくこんなとこ見つけたな」

「でしょ?」

「誇らしげに言うことじゃ無いぞ」

 放置された松林は、腕に刺さってチクチクと痛んだ。靴の合間を縫って、靴下に入り込んでくるやつもいる。こんなとこまで来るのは相当な変態か、冒険好きの小学生男子か、穴場を見つけたホームレスかだろう。

 やがて林を抜けると、やっとその家の全貌が見えた。思ったより大きい。この東京二十三区にこれだけの廃墟が放置されているだなんて、思えないくらいだ。だが、実在した。目の前にあった。

「こっち。正面の扉は錆びて開かないから、裏口から入るよ」

 煤けたコンクリート壁を回って、ツタの生い茂る地面を踏みしめながら裏側へ。景色は変わらず、ただ小さな扉だけがあった。腐りかけの木の扉で、表面には「従業員専用 立ち入り禁止」のステッカーが貼ってあった。でも、文字は消えて、かろうじて汚れの跡で読めるレベルだった。

 ルカはためらいなくその扉を開けた。木が腐ってるのだろう、ドアノブはひねっても意味が無く、ぐにゃりとイヤな音を鳴らして開いた。

 中からは、ひんやりと冷めた空気が漏れてきた。

「こっち」

 真っ暗な廃屋の中を、ルカは慣れた足取りで進んでいった。

 廃墟の中は、思ったより綺麗だった。外でした薬品のような匂いも、そこまで強くはない。アルコールのような匂いがツンと鼻孔を突くが、それだけだ。動物の糞だとか死骸だとか、何かが腐った匂いだとかはしなかった。ただ、室内は肌寒く、まるで冷蔵庫の中に押しやられたような気分だった。窓も少なく(というか、ツタに封じ込められていた)日が差し込むこともなく、真っ暗だった。

 裏口はどうやら何かの通用口だったらしい。アルミ製の靴箱と、放置された来客用スリッパが散乱している。奥には給湯室もあったが、蛇口から給湯器まですべて引き剥がされていた。誰かが盗んでいったのかもしれない。

 そうして少し進むと、彼女のアトリエ――撮影スペースがあった。

 広いスタジオのような空間。吹き抜けの天井に、四方に開けた空間と、コンクリートの床。周りにはモノ一つ無い。ただ中央部には、白布で出来た撮影ブースと、スタンドで立てられたストロボライト、三脚、そして一人の女が立っていた。

 ルカは鞄の中からカメラを取り出すと、それを三脚に取り付ける。その間も、レンズの前でモデルはポーズを取り続けていた。頭の先から足の指先まで、ピンと伸ばして、ズレることも無く、

 思えばこの瞬間にはもう違和感を覚えていた。

 そしてその違和感は正しかった。

「ルカ、その人はモデル?」

「うん。最近はこの子ばっかり撮ってる。たぶんわたしは、この子と会うために、このアトリエを見つけたんだと思う」

「ふうん。初めまして、こんにちは」

 僕は遠くから声をかけたが、しかしモデルの子がポーズを崩すこと無く、そして返事をすることもなかった。ただ黙ってその場に立ち尽くしている。

 僕は何か不安に駆られて、そのモデルの少女に近づいた。

 昆虫の殻のような深く黒い髪。小枝のように細い身体に、身長は高く一七〇センチ弱はあろう。真っ白い陶器のような肌に、血のように赤い唇。白いブラウスとパンツスタイルが似合っていた。

 でも、おかしいのだ。

 彼女はその場にただ立ち尽くしている。何をするわけでもなく、人形のように。

 ――まさか本当に人形?

 ――マネキン?

 ルカならやりかねないと思った。前に一度粗大ゴミに捨てられていたラブドールを集めて写真を撮っていたこともあったから。

 だが、こいつは違う。

 それは明らかに人だった。でも、人形のように動かない。ヘーゼル色をした大きな瞳は、瞬きもせずレンズをすかし見ている。大きな一〇五ミリ単焦点レンズの向こう、絞り羽根の向こうにあるルカの目を見ていた。じっと、動くことも無く、瞳孔は開いたまま、遠くの空を。

 僕は見てはいけないものを――この世のモノではない別の何かを見た気がして、恐ろしくなった。

「ルカ、どうしてこの子は無反応なんだ」

 瞬きもしなければ、吐息も感じられない。

「うん、だって」

 ルカは再びシャッターを切りながら言った。

「彼女、死んでるよ」

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