悲しみの名前

澄田ゆきこ

本編

 時間が止まったのはいつからだっただろう。

 夜勤明けの休日。昼過ぎに起きて、なんとなくそういう雰囲気になって、事が済んでしまうと、わたしたちはただただ時間を持て余す。共有している時間が長すぎて、話すことは随分前から尽きていた。

 わたしは彼がやるゲームをぼうっと見ている。彼の銃に打たれたよくわからない生き物が、スマホの中でのたうちまわって倒れる。見ていても退屈なばかりで、しばらく友達のインスタを見ていたけれど、それもすぐに飽きた。あくびをかみ殺して、ぬるい休日の午後にうとうとする。

 カーテンから差し込む光はいつの間にか西日になっている。昼に食べたカップラーメンの容器が卓上に置きっぱなしになっている。

 怠惰と言えば怠惰で、平和と言えば平和。わたしたちの関係はすべてがそこに収束する。


 彼はバイト先の先輩だった。わたしも彼もしがないフリーターで、お金がないから、夜勤によく入った。深夜、町は死んだように眠っているのに、店の中だけ蛍光灯が煌々と光っていた。その場違いな明かりの中で、誰もお客さんがいない時だけ、暇つぶしに話をした。

 わたしの好きなバンドについて、わたしよりも少しだけ詳しい彼は、シフトの度に嬉しそうに蘊蓄を語った。関西出身でもないのに、やたら関西弁を使いたがる変な人だった。お客さんが来ると、急に真面目な顔で「いらっしゃいませ」と言う、その切り替えの早さがちぐはぐで、少し面白かった。

 ある日、夜勤明けに、家に飲みに来ないかと誘われた。プライベートで二人になったことはないのに、一回目から宅飲み。下心は痛々しいほど透けていた。疲れて頭が回らないことを言い訳に、わたしはそれを了承した。前の彼氏と別れてからは一か月くらい経った頃で、無意味に人恋しさを持て余していた。

 惹かれるものはなかったけれど、一緒にいて居心地は悪くない。顔だって、見てられないほどひどいわけじゃない。断る理由も、積極的になる理由もなかったから、わたしは流される方を選んだ。つきあうことになったのは意外な展開だった。それもわたしは拒まなかった。彼もわたしも、きっと、互いに寂しくて、空白を埋めるのに都合がよかった。愛されるために愛しているふりをした。

 つきあっているうちに好きになれるんじゃないかと思った。人と距離を詰める緊張感を、恋だと誤認することもあった。行くところまで行ってしまったら、あとは停滞だけが残った。しばらくもせず、趣味が合うと思っていた部分はほんの少し重なり合っていた部分だけで、思っていたほど感性が合うわけでもないのだと知った。好きな曲を聞かせて、「ふうん、こういうの好きなんや」と生返事だけがかえってきてから、自分の好きなものをむやみに晒すことはやめた。うっかり本音をしゃべりすぎてしまった日は、デリカシーも悪意もない言葉に必要以上に傷ついて、なんであんなことまで話してしまったんだろうと、決まって後悔していた。

 嫌いじゃないけど、好きでもない。直してほしいところはたくさんある。食べ終わった食器を水につけないところ。便器を下ろすのを忘れるところ。やたらアドバイスしたがるところ。身体を重ねたあとに妙にそっけなくなるところ。へんな関西弁。

 指摘をするほどのことでもないか、とわたしは何度も言葉をのんだ。その度にお腹の奥に、名前のつけられない、悲しみのような、寂しさのようなものが積もっていった。それでも、波風を立てるよりも、やり過ごす方がずっと楽だった。彼もわたしに不満はあるだろうに、やはり表立って指摘することはなかった。

 他人同士なんだし、合わないところがあるのも当たり前だ。期待をしなければ、ある程度は満たされる。家族も友達も恋人も、わたしの人間関係は、いつも同じところに着地する。


 彼がSNSでしょっちゅう女の子と絡んでいるのも、男だけの飲み会と言いながら、二人で飲んだ子がいるのも知っていた。看過するのは別に難しくなかった。だらしない人とだらしなく付き合うことを選んだのはわたしだ。けれど、友達の、匂わせの香ばしい投稿に、彼としか思えない右手が映っていた時、急に、無理だ、と思った。血管の浮き上がり方もごつごつした形もよく見知ったものだった。人差し指にはわたしが買った安いシルバーの指輪がついていた。

 だからだろうか。いつもは受け流せる小言が、受け流せなかった。

「髪また染めたん? もっと大人しい色にすればいいのに」

 シャワーから上がってきたわたしを見て、彼が不満そうにぼやいた。いつもなら、それも甘えたスキンシップの一環だと割り切れた。

「ならそういう子とつき合えば?」

 自分の口から出た声は、自分でもびっくりするほど冷たかった。「冗談やん、冗談」と誤魔化す声が、いつもよりもざらざらと不快に感じた。

 別れよ、という言葉は淀みなく出た。「落ち着けよ」と言われたけれど、心は至極落ち着いていた。最初は抵抗していた彼も、友達の話を持ち出すと、きまり悪そうに黙り込んだ。

 止まった時間がようやく動き出して、つきあった時と同じ軽さで、わたしたちはお互いを手放した。

 彼の荷物が消えた部屋はやけに広く見えた。半年。長くも短くもない時間にどこか安堵している。そのくせ身体の真ん中がすかすかと虚しい気がしている。

 誰かといないと寂しいのに、誰かといると気詰まりで。わたしは本当に救えない。

 誰でもよかったんだ、お互いに。出先で雨に降られた時、とりあえずビニール傘を買うのと同じ。

 意味もなくお酒の缶を開けた。半年前は飲めなかったビール。思わぬところに彼の影響が残っていると気づき、ビールの味が余計に苦くなる。缶を持ったままベランダに出て、彼の前では絶対に出さなかったラッキーストライクに火を点ける。わたしが煙草を吸うことは、あの人はきっと知らない。わたしが一番好きなバンドの名前も。

 ベランダで夜風に吹かれていたら、ポケットの中でスマホが震えた。一瞬ひやりとしたけれど、彼ではなかった。画面には「お母さん」という文字が大きく映っている。タイミングがいいのか、悪いのか。

 近況報告を聞きたがって、母は時折こうやって電話をかけてくる。娘がまともに就職をするはずという望みももうかけられていない。フリーターということに口出しをしない代わりに、母は「あんたそんなんなんだから、はやくいい人みつけなさいよ」とせっついてくる。家にいたら煩わしく思って反発していたかもしれない。わたしが大人になったのか、距離がなせることなのか、「そうだね」とわたしは適当に返事をする。

 母はいつまでも、わたしを何も知らない子供だと思っている。昔は「ちょっとは女の子らしくしなさい」が口癖だった。「あんたは昔から色気がない子だったから」という母は、わたしに彼氏ができたことがないと思っている。

 ごめんね、お母さん。相槌の合間で煙を吐き出しながら、思う。わたしはもう、あなたが思うほど純真でも無垢でもない。

 結婚、という言葉をやけに匂わされて、ああわたしはあの人と結婚しようなんて少しも考えてなかったな、と思った。したくない、ですらない。可能性を視野に入れたこともなかった。わたしたちには現在しかなくて、過去も未来もなかった。前に「同性愛者は生産性がない」と言って炎上していた人がいたけれど、男女だったわたしたちにも、生産性なんてまるでなかった。

 紫煙が斜めに流れていく。夜風が身体に冷たかった。飲み込んだビールがますます身体を冷やした。明日の夜勤に彼はいるのだろうか。母の小言を聞き流しながら、明日どんな顔でバイトに行こうか、そんなことばかりを考えている。

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悲しみの名前 澄田ゆきこ @lakesnow

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