第2節

 さて、次は『私のソルジェニーツィン』だが、私が手にしたのは中本信行訳、サイマル出版会刊行の本だ。刊行年は明記されていないが、「訳者まえがき」の末尾にある日付は1974年10月となっている。その「訳者まえがき」には「夫ソルジェニーツィンを献身的に助け、やがて夫に愛人ができて苦しみ、自殺をはかり、ついに1973年3月15日に離婚するまでの二人の生活を赤裸々に語っている。とりわけ、彼女が自分の職をやめて夫の仕事を助け、『かわいい女』になろうとつとめるが、文学的成功を得た夫につぎつぎに女性ファンと愛人ができ、彼女の愛が裏切られていく過程は、痛ましい思いにさそわれる」と書いてある。因みにこの文章の表題は「はじめて明かされた素顔」だ。これを読んで私はソルジェニーツィンにもこんな面があるのかと少し驚くとともに、著者のレシェトフスカヤに対しては夫を愛し、全てを捧げた貞淑な妻なのだろうと想像した。西欧のマスメディアが版権の獲得競争を繰り広げ、ソ連国内ではまだ出版されてない本書を、いち早く日本で公刊する機会を得た訳者の喜びが著者寄りの記述をさせたと思われる。それはとにかく、ソルジェニーツィンの実像を掴むにはこの本も読む価値はあると私は思った。

 ソルジェニーツィンの額の右側には傷跡があるらしく、レシェトフスカヤはその「傷跡の秘密」を暴くことから書き始めている。彼女はこの「秘密」を本人からではなく、彼の同級生で、彼女の友人でもある人物から聞き出した。その「秘密」はサーニャ(ソルジェニーツィンの愛称)の異常に強い「感受性」にあった。サーニャは他の子が自分よりいい成績をとると、「内心おだやかならず」、自分の回答が「5点」をもらえないと、「まっさおになり、卒倒しかねなかった」。「些細なことにも病的に反応するので」、「批判的なことは少しも言え」ず、「級長だったサーニャが、最も親しい友であるぼくと」他の二人を「風紀紊乱の罪におとしいれたときにも、ぼくたちは黙っていた」。「教師たちも、サーニャの神経過敏症を気にしながら動いていた」ので、「自分は並外れた人間であるという信念」がサーニャに生まれたが、あるとき、歴史担当の教師がサーニャに「お説教をし始めた」ところ、彼は「本当に気を失い、机に体をぶつけ、額が切れ」たという。この話はいかにもソルジェニーツィンが少年時代からプライドばかり高い、嫌味な人間だったという印象を与える。レシェトフスカヤがこの話を聞き出したのは1973年で、ソルジェニーツィンとの離婚が正式に認められた年だ。彼女は離婚に至った「現在を理解し」、「いままでの出来事を理解する」ために、「そもそもことの起こりは、どこか遠い昔にあるような」気がして、この話を聞き出すのだ。ソルジェニーツィンの性格に離婚の責めを負わせる意図がうかがえる。ソルジェニーツィンを愛し、献身した妻にしては棘のある書き出しだ。しかし、この時にはもう私は意外とは思わなかった。『仔牛』末尾の「年譜」を読んで、レシェトフスカヤが、ソルジェニーツィンとの婚姻関係があるのに、結婚を申し込んできた大学助教授のB・C(彼女は本名を伏せている)と生活を共にした事実を知っていたからだ。このような過去のある女性ならば、このような記述もあり得ようと思った。

 ソルジェニーツィンが時間を惜しんで創作し、読書していたこと、執筆を続けるためには健康体の維持が必要だと、自己流のヨガをやっていたことなどは参考になる。ロシアの諺や寓話を調べ、辞書を読むことを日課のようにしてロシア語を研究していたことなどは、彼の自国の文化や言語への深い関心を示すもので、 これも参考になる。これらはこの書のメリットだ。

 全体を通じてソルジェニーツィンに対する棘のある記述が続く。極め付けはソルジェニーツィンが審理において友人たちを陥れるような証言をしたと書いている箇所だ。ソルジェニーツィンは友人宛の手紙のなかでスターリンを批判する言葉を書き、それを摘発されて逮捕された。その審理のなかで友人を売るような証言をしたというのだ。それを語るのは「傷跡の秘密」を語ったあの友人だ。彼は当局に呼び出され、ソルジェニーツィンが書いたノートを見せられたが、それにはその友人が「人民の敵であるのに、自由の身でいられるのが不可解」と書いてあったという。ところが彼は逮捕されてはいないのである。この事件で逮捕されたのは文通していた二人だけで、レシェトフスカヤを含めて誰にも累は及んでいない。こういう思わせぶりな記述が文通相手だった友人についてもなされている。彼は10年の刑をくらったのに、ソルジェニーツィンは8年の刑だったのはなぜか、という具合だ。しかし、ソルジェニーツィンは8年の刑の後、「永久流刑」に処せられるが、文通相手は9年目には「特赦」になっている。

 何より印象的なのは夫の闘いについての共感が全く書かれていないことだ。夫が命をかけて闘っているソ連社会の問題について何の関心も抱かず、むしろ夫の行動に対して批判的な記述しか目に付かないのだ。これでその人を愛していたと言えるだろうか。しかもレシェトフスカヤは離婚した後、国家保安委員会のメッセンジャーとしてソルジェニーツィンの前に現れる。今後二十年間何も発表しなければ、『ガン病棟』を出版してもよいという取引の仲介役だ。 『収容所群島』の西側での出版を恐れる当局が、それを何とか抑えようとする策略だった。

 ソルジェニーツィンは二十歳でレシェトフスカヤに愛を告白し、二十一歳で婚約、二十二歳で結婚した。間もなく召集。砲兵中隊の大尉となって前線で従軍中に逮捕された。レシェトフスカヤの方は、その後ロストフ大学の助手となり、さらにモスクワ大学物理化学科の大学院生となる。収容所にいるソルジェニーツィンは、囚人が夫では彼女の就職にさしつかえるので、離婚を提起する。レシェトフスカヤはリャザン大学の助教授となり、B・Cとの関係が生じる。レシェトフスカヤがB・Cとの共同生活を始めるのは、ソルジェニーツィンが「永久流刑」の宣告を受け、胃癌が再発するという最悪の時機である。彼はその時、自分の死と、「それまで生きてきたことの全意義にひとしい、書きあげたものすべての破滅」を見ていた。「妻はほかの男といっしょになっていた。それでもわたしは最後の別れに彼女をよんだ。原稿を預かってくれることもできただろうが、妻は来てくれなかった」と彼は書いている。離婚手続は進行中だが、まだ結婚は解消していない。これはソルジェニーツィンに対する完全な裏切りだろう。5年間のB・Cとの生活の後、レシェトフスカヤはB・Cと別れ、ソルジェニーツィンのもとに戻る。その時彼は、フルシチョフのスターリン批判によって有罪判決が撤回され、自由の身となっていた。ソルジェニーツィンはレシェトフスカヤを責めることなく受け入れ、二人は新たに結婚届を提出して生活を始める。

 この女性を選んだのは確かに ソルジェニーツィンの誤りだった。彼女は「一度もわたしを理解したことがなく、一つとしてわたしの行動の真意がわから」ない女性だった。しかし、「わたし自身が悪いのだ―わたしは監獄では人が監房に入ってくるやいなや、その人間を見抜いたものだが、自分といっしょの女性を一度もよくみなかったのだ。わたしはその人間をくすぶらせ、燃えあがらせてしまったのだ」と彼は書き、彼女を責めようとはしていない。

 「訳者まえがき」にレシェトフスカヤが「自分の職をやめて夫の仕事を助け」とあったが、彼女が大学の勤めをやめた事情については、「私の大学は私にとってますます、たんに自分と夫のための稼ぎの道具にすぎなくなってきた。取り組むからには何事でも、私は熱中してやるのが好きだった。大学には、もはやそれがなかった。私はあたかも燃え尽きてしまったようだった…。(略)夫の手助けや、音楽、英語、写真のほうが、講義の仕事よりもはるかに大きな満足をもたらしてくれた」と彼女自身が書いており、強いられたものではなく、むしろ彼女自身の都合によるものだったことが示されている。

 幸いなことにソルジェニーツィンは彼の仕事を理解し、相談相手となり、支えてもくれる伴侶を見出した。二番目の夫人だ。彼は1964年には彼女と恋愛関係になり、それをレシェトフスカヤに告白して、別居生活に入る。1969年には彼は自分の遺産のすべて、つまり書いたもの全部を彼女に渡す決心をし、一年間をつかって仕事の引継ぎをした。

 もう一つ、この本から観取できたことを書いておこう。それはラーゲリ(収容所)がソルジェニーツィンを鍛えたということだ。レシェトフスカヤも、彼女らしく自分に引きつけた、屈折した書き方だが、それを書いている。「ソルジェニーツィンは他人の痛みを理解しはじめる」「サーニャは自分の性格が温和になったこと、自分の心がほぐれてきたことこそが、自分の不幸をつぐなっているのだと考えている」と彼女は書いている。ソルジェニーツィンが彼女が描くように自己中心的な薄情な少年だったとしても、ラーゲリはそれを矯正したのだ。ラーゲリで彼が人間と人生について何を学んでいたか。それは彼女にはわかっていない。しかし、ラーゲリの苛酷な生活はソルジェニーツィンを、人間と真実を鋭く見つめる作家に育てていった。「他人の痛みを理解しはじめ」たと彼女が感じたのはその証左だった。

 最後に、ソルジェニーツィンが中学を卒業したころから構想していたという長編小説が気になっている。彼はそれをライフワークとして1969年から執筆し始める。『仔牛』では『R17』と記されているが、正式の題名は『赤い車輪』だ。1917年のボルシェヴィキ革命の見直しを意図した作品という。この作品の執筆のために彼は『群島』の出版を遅らせていたようだ。彼は『仔牛』にこう書いている。「言い訳ではない、なぜなら『群島』は革命の嫡子、革命の生んだ子にすぎないからだ。そして『群島』について隠蔽されている以上に、革命については更に深く隠され、掘おこしがたく、さらにゆがめられているのである。(略)もし『群島』が出たあとはもう、わたしに『R17』を書かせないということになるとすれば、それまでに出来るだけ多くそれを書いておかなければならない。」その第一部『1914年8月』は既に出版され邦訳もある。その続編はどうなっているだろうか。原作そのものは完成している。2006年から刊行が始まった『ソルジェニーツィン全集全30巻』では最終巻となる第四部「1917年4月」も刊行されているようだ。早急な邦訳の出版を待ち望んでいる。

                                      



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ソルジェニーツィン『収容所群島』を読む―第二巻(三・四部)を中心に― 坂本梧朗 @KATSUGOROUR2711

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