付録 ソルジェニーツィンの闘い
第1節
ソルジェニーツィンの自伝という副題が付いた『仔牛が樫の木に角突いた』(以下『仔牛』と略記)と、ソルジェニーツィンの離婚した妻であるナターリヤ・レシェトフスカヤが書いた『私のソルジェニーツィン』が図書館にあったので、『収容所群島』第三部の読書を中断して、読んでみた。
先ず、『仔牛』だが、私が読んだ本は、染谷茂・原卓也訳で、1976年に新潮社から出版されたものだ。本文の後に「付録」とソルジェニーツィンの年譜を載せた600ページに及ぶ大部の書だ。収容所服役、刑期を終えた後の流刑、そしてガン回復後、という期間における「地下作家」としての執筆活動から書き出されるが、事件が逐次的に記述され始めるのは1961年からである。そして、1974年に「祖国への裏切り」の廉で国外追放されるまでのことが書かれている。自伝という副題があるが、内容はこの期間におけるソルジェニーツィンの闘いの記録だ。
ソ連の国家機関や作家同盟との闘い、あるいは文芸雑誌「ノーヴィ・ミール」編集長との駆け引きなどが詳細に綴られている。ソルジェニーツィンの孤独な闘いがソ連国内でどのように進行したのかが良く分かる。現代史の貴重な資料だ。その時々のソルジェニーツィンの判断や思考、心情なども率直に書かれていて、ヒューマンドキュメントとしても興味深い。
読み進めながらわかってきたことは、先ず、ソルジェニーツィンの登場はフルシチョフの「スターリン批判」によってであったということ。「イワン・デニーソヴィチの一日」の発表はフルシチョフの許可によって可能となったのである。この頃は「雪どけ」と言われた時期で、文学界に対する統制も幾分緩和され、ソルジェニーツィンの幾つかの短編も発表されている。ただし、『ガン病棟』と『煉獄のなかで』は掲載を断られ続ける。作品発表をめぐる「ノーヴィ・ミール」編集長トワルドフスキーとの十年にわたる交渉・駆け引き、そして交流が興味深く書かれている。検閲体制が、長くそのなかで生きてきた詩人トワルドフスキーの本来の気質をいかに圧迫し、歪めたかが描かれている。ソルジェニーツィンは、ある局面では敵でもあったトワルドフスキーを暖かく見つめている。晩年のトワルドフスキーは、ソルジェニーツィンが『収容所群島』を読ませようと思うほど、彼の立場に近づいていた。
ソルジェニーツィンはラーゲリ(収容所)で死んでいった多くの人々の思いを背負っている。それが彼の闘いのエネルギーだ。フルシチョフは「スターリン批判」の後、ソ連社会の自由化を積極的に進めたわけではなかった。「何事も中途半端」とソルジェニーツィンが評するフルシチョフは、政権末期には逆戻りさえ示した。1965年にフルシチョフが失脚すると、スターリン時代への回帰傾向が強まる。しだいに状況はソルジェニーツィンの「首を絞めてくる」(第三章の小見出し)。しかし、その中で彼は表と裏の両面で闘い続ける。表では国家機関や党中央や作家同盟などへの抗議や要求の手紙を時機を見ながら的確に出していく。それらの諸文書は「付録」に載っている。裏では地下出版(サミズダート)を活用して自分の主張や作品の流通をはかる。ソルジェニーツィンは外国の新聞のインタビューも利用する。ノーベル賞を受賞してからは、外国のメディアのインタビューは闘いの強力な武器となる。これも「付録」に載っている。
いつ逮捕されるか分からない状況の中でソルジェニーツィンは果敢に闘っている。彼自身「鍛えぬかれた囚人(ゼック)」であり、また、収容所のなかで命を落していった「囚人(ゼック)」たちの「不滅の魂」が彼を支え、つき動かしている。
『収容所群島』はソ連国家の闇の部分を暴露・告発した作品だ。闇は権力者にとっては秘すべき恥部だが、この国家の本質を示すものだった。この書物の出版こそ、祖国と「囚人」に代表される人民によってソルジェニーツィンに託された使命だった。1973年8月、この原稿が国家保安委員会によって押収された時、彼は 『収容所群島』の、西側での出版を決意する。権力がこの原稿を手に入れた以上、その抹殺を図ることは必至だった。著者の抹殺も予想され得た。この書が闇に葬られれば、ソルジェニーツィンは付託された使命を遂行できず、その生涯も意味を失うのだ。一刻の猶予もなかった。別の原稿を既に送ってあった。彼は出版の指示を与えた。同年12月、『群島』第一巻がパリで刊行された。これを機にソ連国内ではソルジェニーツィンを「祖国への裏切り者」とする非難の大キャンペーンが展開される。
少し長くなるが、ソルジェニーツィンの闘いの精神を示すものとして、1973年8月に「ル・モンド」紙のインタビューに答えた発言の一部を引用しよう。
「一人ぼっちの人たちの自己犠牲的な決意というこの路線こそ、我々の未来にとっての光明なのです。人間という存在のこうした心理的な特殊性には、いつもおどろかされます。つまり、幸福に気楽に暮らしているうちは、自己の存在の周辺のごく些細な不安さえ恐れて、他人の(将来の仲間の)苦しみなぞ知るまいと努め、多くの重要な精神的な中心的なことにおいてさえ譲歩してー自分の幸福を長引かせることさえできればいいと願うものです。ところが、人間がもはや赤貧の裸一貫で、生活を飾ると思われるあらゆるものを奪われるような、最後の境界に追いつめられると、ふいに、自分の生命そのものを渡しても、原則だけは渡すものか(!)と、最後の一歩で踏みとどまる堅固さを自己の内に見いだすのです。
最初の特質ゆえに人類は、到達した台地の一つにも踏みとどまることができませんでした。第二の特質のおかげで、あらゆる深淵から這い上がったのです。(略)歴史の破滅的な歩みは修正しがたいものであり、世界でもっとも強大な「力」には自己を確信しきっている「精神」も影響を及ぼすことができないという考えには、同意するわけにいきません。ここ数世代の体験から完全に証明されたとわたしには思われるのですが、迫りくる暴力の移動可能な一線の上に、「これ以上は一歩もだめだ! 」と宣言した人間の犠牲と死に対する覚悟を固めてしっかり立ちはだかる、人間精神の不屈さだけが―精神のそうした不屈さだけが、個人の世界、全世界、全人類の真の擁護にほかならないのです。」
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