白川の杜 談話室にて

みずまち

白川の杜 談話室にて

 木枯らしが吹く肌寒い季節でしたね。

あの頃の校舎は古い木造で、薄く入ってくる隙間風は私たちの小さな身体をいつも震わせていました。

 窓硝子には霜がもうじきつく頃だったでしょう。私は秋がとても好きでしたので、緋色に色付いていた紅葉が色を失い、老いて地へ落ちていく風景を毎日廊下から眺めておりました。その風景が、とても悲しかったのです。

 冬。冬は嫌いです。今でも好きにはなれませんわ。学校はミッションでしたので、冬になれば大変盛り上がる祝祭もあったのに。何故かしら。

 寄宿舎のある学校でしたので、私は十二歳からその学校へ入れられて十五までそこで学びました。

そこを卒業して十六で隣町の私立校へ行った時の私の驚きといったら! あんなに自由な学び舎があれば、それはそれは田舎の親たちは皆こぞって寄宿舎へ放り込むでしょうねえ。寄宿舎の方がずっと規律に縛られておりましたもの。

なので、私にとって私立校は楽な場所でした。何一つ厳しくもない規律に、柔らかな先生方。

 その街で育っていた同級生たちはその規律や先生方に対して時折反旗を翻しておりましたが、私にとっては何の束縛も苦痛も感じられ無い優しいものでした。

 ごめんなさい、話が逸れてしまいましたね。これまで生きてきて一番悲しい思いをした事、でしたかしら。

それは大人になった今ではなく、窮屈に感じていたその寄宿舎で生きていた時代でしたわ。

 十三、いいえ十四の歳の頃だったと思います。その田舎町にあるミッションの学校で長く過ごして、朝もお昼も夕方も、神様にお祈りを捧げる事が日常になっておりました。

 そんな変化の無い日常を送っていたからでしょうか。

私には悲しく感じられたのです、窓から見える落ち葉たちが。

 十四と言えば多感な時期でしょう。

その落ち葉たちに私は同情をしていたわけではなく、自分を重ねていたわけでもありません。音も無く落ちていく枯れ葉を黙って目で追い、嗚呼哀れな秋の終わりがきたのだと、その空気感に浸っていたのです。

 周りから見れば奇妙な子だったのでしょうけれど、その頃私がいた学校ではそういう、少し感受性が強くて繊細な子供が多かったのね。

だから私が廊下で立ち止まって、窓の外を休憩時間中ずうっと眺めていても誰も何も指差して笑ったりなんてしなかったわ。

 ああ、ごめんなさい。またお話が、私きっと話したくないのね。知らず知らずの内に避けようとしているわ。だって懺悔のようで。

もう私はあの学校を卒業してあの田舎町も信仰も全て捨てたというのに。まだこうして意地悪な記憶は追いかけてくるんですのね、思い出って怖いわねえ。

 ……ええ。大丈夫です、お話しする事は出来ますわ。早くお話しないと、次の方がもう眠ってしまいそうですものね。ほら、小牧さん起きて! うふふ。

 何分くらい窓からその落ち葉を眺めていたでしょうか。

かさりとした、乾燥した落ち葉を踏んだような音がしたのです。それと同時にどことなく大人の匂いが私の鼻先をかすめました。

「もし、もし。おねえさま、御免くださいまし」

 私がその音と匂いがした方へ顔を向ける前に、幼い声がそう呼びかけたのです。

目を向けたそこには、そのお声の通り幼い少女がいらして。

 御免くださいまし、なんてその場にいる人間にかけるご挨拶ではないのに。その少女は目上の私に頑張ってお声掛けしたのでしょうね。まだぷっくりとした両頬を赤く染め、小さな唇をきゅっと横一文字に結んでいて。

おかっぱ頭が愛らしい少女は潤んだ黒曜石の瞳で私を真っ直ぐに見つめておりました。

「何かご用」

 その時の私は少し意地悪でした。

秋の終わりに浸っては、大嫌いな冷たい冬の隙間風に少しだけ苛立っていたのです。下級生を相手に、お恥ずかしい。

 それでもそんな冷えた私の声に少女はめげず、微かに濡らせたその黒曜石を逸らさずにいましたわ。

「おねえさま。これを」

 彼女が差し出した物は生成り色をした固形石鹸でした。

石鹸の中心には古き西洋王室御用達の百合の紋章が彫られておりました。私は一目でこれが安く、何処へでも手に入れられる品物ではないと察しました。

 はしたないですけれど、私はそんなに育ちは良くない人間でしたので。ええ、両親は商売をしていたの。ですのでそういった外来の品物には目が肥えていたんですね。

「菫の香りがするわね。この香りはここからきていたの」

 先程感じた大人の香りの正体はこの石鹸だったのです。

けれどすぐに差し出されたお品に手を出すのはとてもとても下品な事。

私はその石鹸を一瞥して、胸いっぱいにその香りを吸い込みました。私の好きな香りだったのです。

 私のその言葉に彼女はとても喜びました。差し出していた両手と、石鹸をのせていた黄色い絹を小さく震わせて、緊張と歓喜に震えておりましたわ。

「まあ」

 私はすぐにそんな彼女が愛おしくなって、鼻先がつんとしてしまい思わず涙が溢れそうになったのです。

感動した私は彼女の冷たく、震える両手と共にその石鹸を自分の掌に掬うようにのせて、そっと鼻先だけを近付けて香りを嗅いでみました。

(なんて、美しい香りがするのでしょう)

 これまで嗅いだ金木犀や薔薇、甘い鈴蘭の香りともまた違う。大人の、本物の菫の香りでした。私はすぐにその石鹸の虜となりました。

きっと私のような人間は将来、簡単に甘い恋に溺れてしまうのでしょう。その瞬間に自分の悲しい未来を見通してしまいました。

香りを味わう私の睫毛を、冷たい隙間風が撫でていたのも覚えています。

 ちょっとだけ、その時の彼女のお顔が気になって目を向けてみたのです。その時の彼女のお顔ったら……!

先程までの黒曜石を、黄金色に光るトパーズのようにぱっと輝かせて私を見ていたのです。

私ったら恥ずかしくなって、顔を上げてすぐに取り上げるようにその石鹸を奪ってしまいました。お礼も言わずに、無情でしょう?

 ……後から友人に聞いたお話ですけれど、この当時下級生が上級生に石鹸を渡す行為は白百合を寄せる事だったのです。

白百合とはお花の事ではないの。この年頃の子供達にはありがちな小さな恋心を表すようなものだったのです。

 ここの学校では同性しかいなかったものですから。多感な時期に異性に持つはずの恋心を、どうしても同性に繋げてしまうのですよ。それを当時は白百合と呼んでいたの。あら、先生ったら驚いてしまって。当時はそんなにおかしくはない行為でしたのよ。

 私はそんな事を全く知らず、その少女の気持ちを受け取る行為をしてしまったのね。……ほんと、無知は残酷ですわ。

彼女の綺麗な瞳に見惚れてしまっていると、その少女は小さくお辞儀をして、襟元に結んでいた真っ赤な艶のある細いリボンを靡かせて去って行ったわ。とても、とても可愛い子だった。

 情熱に燃える初々しい真っ赤な赤いリボンは初回生。瑞々しくも青臭い青春を象徴する青いリボンは中回生。そして全てを見通して風に揺られる木の葉のように、落ち着いた仕草で下級生を見守る緑色のリボンは上回生。

 当時の私は青色のリボンを結んでおりました。その色の通り毎日変化していく自分の身体と感受性についていけずに揺れて、反抗期と自立の違いも分からず大きなお顔をして両親の背を見ていましたわ。

先生達や同級生には時々アンニュイな雰囲気をわざと作ってみせたりなんかして。あの時の私は、何をあんなに自分を特別視したがっていたのかしらね。

 石鹸を差し出してくれた少女は初回生。これまで見た事もない初回生でした。

少し戸惑いましたが、恥ずかしながら商人の子供であった私は使っていた石鹸がもうなくなりかけていたので、その時は丁度良かったと思っていたのです。

それでも石鹸の中心に彫られていた百合の気高き紋章には気後れしてしまい、暫くそれを使う事は出来なかったのです。

 ……それから、ええと。

どのくらいの月日が経ったでしょう。そうね、雪解けが始まっていらしたから、三月のはじめくらいだったんでしょうね。

 私ったらすっかりその石鹸の存在を忘れてしまったの。

あの時、使うにはまだ惜しいと同室の子たちにばれないようにカーテンレールの隅っこへ隠したままだった。それなのに私が朝一番に起きてそこのカーテンを開ける時、ふわりと香る菫の風に「あらこの匂いは何かしら」なんて思っていたりもしたのよ。

自分で置いた石鹸の存在なんてすっかり忘れてしまって。とぼけた子供でしたのね、本当に。

 私がどうやってその石鹸の事を思い出したかですか。

それは日曜日のミサの時でした。ええ、あの日はとても晴れて日差しが眩しい日でしたので覚えております。

 ミサの日に聖堂……チャペルへ入るには順番がありました。

生徒たちが入っていくのは学年順で、初回生、中回生。そして最後に上回生でした。私も初回生の頃は小さな身体を震わせながら、冷たい廊下で同回生達と身を寄せ合って待機していたものです。

それでも聖堂の中はより冷たく、上品なお香の香りが迎えておりました。

 その日は珍しくも背中に暖かみを感じていたものですから、きっと背の高いステンドグラスから入ってくる明るい日差しに騙されていたんでしょう。信仰ってすごいわね。

 私はその頃背は中くらい、でしたでしょうか。なので列の中では真ん中の、少し後ろに並んでおりました。

聖堂へ入った時、まだ寝ぼけていた私はいつもの威厳としたお香の香りに少し頭を冴えさせ、ふと視点をそこへ定めました。

 そこにはあの時の初回生がおりました。

きゅっと小さな唇を――嗚呼、あの時あの子の唇は寒さで色素が薄ばんでおりましたでしょうか――横にやはり一文字へ結んでおり、ぷっくりとした頬は少し赤く。赤色のそのリボンの紐は少しだけ歪んで結ばれておりました。

 私は直ぐにあの時の子だと気付きました。それと同時に、あの日の石鹸の香りが私の鼻先をかすめました。今、その石鹸は無いというのに。

聖堂の威厳あるお香など何処へやら。人の五感というのは大変都合の良いものですね。

 聖堂の真ん中へ引かれた赤い絨毯を歩きながら私は内心どきどきしておりました。後に入った中回生は一番先へ入った初回生の立つ列を通り過ぎて、その直ぐ後ろの席へつかなければならないからです。しかもその子は通路側へ、我々が歩く側に立っていたのです。

一歩一歩そちらへ近付いていって、そしてその子の隣を通り過ぎる時でした。

 私はちょっとした悪戯を思い付いたのです。それまで一切そんな事など思いもしなかったのに、私はその子の隣を通り過ぎる瞬間に袖摺れをしてみたのです。

袖摺れの意味をご存知? ふふ、今度貴方のおばあさまにお聞きしてみるといいわ。我々女学生にはちょっと大胆な事なの。私も中回生で初回生相手に粋がっていたのね。

 かさりと、いえ、ふわりとした感触が私の右腕を通り過ぎました。まるで柔らかな羽毛布団が私の右腕に当たったかのような。お互いの肌は勿論触れ合ってはおりませんわ、でも互いの白い制服のブラウスは触れ合った。

 ――あの時、確かに私たちは触れ合ったの。

 最初で最後の触れ合いだったわ。神様が見ておられる聖堂の中で、私たちはとんでもない事をしたの。

 その時の彼女の顔は見なかったわ。見れなかったのかもしれない。けれど、少し息を飲む音が聞こえた気もしたの。

それは私の耳が都合良くそう聞かせただけなのかもしれないけれど。

 それからの私はもう上の空で、その直後の上回生の入場も、神父様のお言葉も、聖歌も通り風で。とにかく早くお部屋へ戻ってあの石鹸を手にしたい一心でした。

 お部屋へ戻った時の私はそれはもう、おかしな子に見えたでしょうね。急いで椅子をカーテンレールの真下へ置いて、精一杯そちらへ手を伸ばして。

その石鹸は無事そこにありましたが、少しだけ埃を被っていたわ。それでも私はその日の夜に漸くその石鹸を使ってみたの。

 お湯に溶かして泡立ててみると菫の香りが復活して、私の身体も浴室も、もうみんな溶かしたわ。

大人と気品に溢れた香りをあんなに幼い少女から頂いたと思うと、私は胸高まってずっとどきどきしていた。

 その日は共同の大浴場ではなくて部屋に備えられていた狭いユニットバスを利用したのだけれど、同室の子たちにはずっと香りの原因を探られてしまって。

それから私は同室の子たちが大浴場へ行っている間に、時々ユニットバスを利用してはその石鹸を使っていたの。

 ……その石鹸が半分くらい、いえ、半分と少しになった頃でしょうか。こほっ、こほ……。ごめんなさい、少し喉を詰まらせてしまって。ああ、今日も冷えますわね。冬はやっぱり好きになれないわ。

「初回生のこと、聞きまして」

 そのお噂を聞いたのはやはり廊下、でした。

季節はまた憎らしい冬がきていて、私は窓硝子にほんの少しついた霜を指先で触れて、その霜で時々円を描いたり線を引いてみたりなんかして。そうやって一人で遊んでおりましたの。

「お可愛そうに、まだ青いリボンも結んでいないお年で出征だなんて。あの子、伯爵の子だったのでしょう。だからどこかで御眼鏡にかなったのではないかしら」

 背後で噂話をしている上級生のお声が何故か鮮明に入ってきて。

それと同時に、その噂されている出征した幼い伯爵の子が誰なのかも分かりました。

 不思議でしょう? 何故かは分かりません、本当に分からなかったの。今でも、分からないわ。

出征、というのは殿方にはとてもとても言えない事なんですけれど。当時上回生のお姉さま方は殿方へ嫁ぐ事、結婚をする事をそう呼んでいらしたの。理由は……ご想像にお任せするわ。

「嗚呼、お可愛そうに。あんなに色白く愛らしく生まれてきたのに。あんなに小さいと、今頃きっと戦地で震えているわ。大きな音で大砲に撃たれていないかしら。嗚呼、嗚呼、お可愛そうに」

 ――お可愛いそうに。

 ――お可愛いそうに。

 口々に囁かれるその言葉に、私の視界はぐらりと揺れました。がさがさっと耳元で枯れ木たちが揺れ動いた音がして、菫の匂いが……そうして私は意識を手放してしまったのです。

 目を覚ました時にはもう夕暮れで御座いました。

保健室で眠っていた私は、あなたは突然倒れたのよ、と先生に教えられ背中を撫でられました。

それでも私の頭の中はあの子と、石鹸の事で頭がいっぱいだったのです。

 少し痛む頭を抑えながら私は先生の心配なさる手を振り切って自分のお部屋まで走りました。

走る最中、冷たい冬の知らせの空気が肺に入って喉を痛めました。それでも私は溢れる涙を止められずに走りました。走りました。走りました。

冷たい空気に喉を刺されたから泣いているのではないのです。私は悲しく絶望して、そしてとても悔しくて泣いていたのです。

 自分のお部屋へ駆け込むとまだ同室の子たちは大浴場から帰ってはいませんでした。いえ、きっといたとしても私はユニットバスへ入ったでしょう。

もう制服を脱ぐのも惜しくて、私はブラウスとスカートを着たままお湯を被りました。そして制服の上から石鹸を擦り付けました。

菫の香りが、とても強く香っておりました。菫があんなに恐ろしくも香るだなんて……!

 ……私にはもう、あの少女からの強い悲しみが、そして気持ちを弄んだ私への憎しみが、菫の匂いを強くしてしまったのだと嗚咽しました。

シャワーから出る生温かな優しいお湯は、私の涙とその石鹸を共に溶かし流してくれました。

 次の朝からミサで何度も初回生の列を見ても、あの少女はおりませんでした。

まだぷくりとした両頬を赤く染め、小さな唇をきゅっと横一文字に結んでいて。おかっぱ頭が愛らしい少女は、潤んだ黒曜石の瞳を持つあの初回生は、あの初回生は、もうそこにはおりませんでした。

 私はもう懺悔をする気さえ起きませんでした。せめて彼女の赤いリボンだけでもこの小指に巻きつけていたかった。せめてもう一度会話を交わして一度だけでも名前を尋ねて、そして呼んで差し上げたかった。

 私はそれからあの石鹸を使わなくなりました。

あの冬のはじまりの日、彼女が石鹸と共に渡してくれた黄色い絹に丸めて、自分の机の引き出しへ入れて鍵をしてしまったの。

せめてあの時のあの子の白い魂だけは自分だけのものにしておきたかった。あの子の魂を閉じ込めるように私は卒業するまでその引き出しからあの子の石鹸だけは出さなかった。

 ……沢山お喋りしてしまったわね。ごめんなさい。もう喉がかすれてきてしまって、私がお話出来るのはここまで。

もう私、疲れてしまったのよ。あの時の思いをもう一度味わう事に、この年老いた身体には少し重過ぎてしまって。

 え、あの石鹸でしょうか? 土に埋めてしまいましたわ。

桜……いえ、赤い梅の木の下だったでしょうか。ねえ、そんな事よりもその初回生のお名前、知りたくなあい?

実はね、卒業した後に知ったんだけれど私驚いたのよ。あのね、その子お名前はね――。

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