8時15分の悪戯
ちびゴリ
第1話
「おかぁさ~ん。行ってきま~す」
「行ってらっしゃい。あ、貴子。運転には気を付けなさいよ」
午前8時。母とのお約束のような挨拶を済ませた私は、職場へ向かってお決まりの道を走りはじめた。好きな音楽を聴きながらつかの間のドライブ。一見どこにでもある光景も、早いもので半年が過ぎ去ろうとしていて、不慣れな運転で緊張した30分足らずの通勤時間も、いつしか車窓に映る季節の移り変わりや、歩く人の顔まで眺められるようになったのですから、慣れとは本当に凄いことだと思います。
ほぼ中間となる二丁目の交差点を通り過ぎる8時15分。
それが私にとって早い遅いを判断する目安で、いつも通りの時間を確認した後、珍しく混みあった反対車線をぼんやり眺めていました。そんな時です。ふとどこからか視線を感じ、何げなくその方向に目を移したところ、こちらをロン毛で茶髪の男の人がじっと見ているではありませんか。もちろん単なる偶然と私はすぐにそらしました。しかし、不思議なことに白いワゴンからの視線はその日だけではなかったのです。
(あ・・今日もまたこっちを見てる・・・・厭らしい)
物欲しそうな目付きに不快な朝になったこともありますが、私はもっぱら見て見ぬふりで、コースも時間も変えず通い続けました。決まって同じような場所ですれ違う彼も同じ道で通勤しているのか、しばらく経つとその時間に几帳面とも言える性格を垣間見たのでした。
そんなある日のこと。
(ヘェ~髪切ったんだ)
一瞬に通り過ぎる車内に見えた彼の一転した風貌に、真っすぐ前を見たままそんなことも思ったでしょうか。彼からの視線は雨の日も、枯れ葉が道路を散歩する季節になっても変わることはなく、迎えた水曜日の朝。時計と景色とを私は交互に眺めていました。それは彼のワゴンがいつもの時間に現れなかったからで、知らぬ間に白い車が時計がわりになっていたことに気づかされたのでした。
(今日は休みなのかな?・・・・もしかして仕事・・・・)
遠い前方を見つめこんなことを考えながら運転していると、
(あ・・来た・・)
やがて足早に飛ばす車が風のように通過して行く。視線も一瞬でした。
(きっと寝坊したのね)
と、ルームミラーに消えて行く車に、私はほんのり微笑みを浮かべたりしたのです。だから偶然寄ったコンビニのレジでばったり出くわした時は、
「あ・・・・」
と言ったまま固まってしまい、彼も同じように私を見て立ち尽くしている。気まずいってきっとあんな時のことを言うのでしょう。
「どうぞ」
って聞こえたのは慌てた私の聞き違いかもしれず、支払うお金を間違える上レシートも忘れ店を出たのでした。むろんそれ以上の会話はありませんでしたが、とても新鮮な距離であったことは確かです。
(別に好きでもないのになんで慌てなくちゃならないの!)
それでも戸惑う自分に腹を立てながら、夕方混み合う道路に車と気持ちを紛らせたのでした。ちょっとした異変が起こったのは次の日の朝で、すれ違いざま視線を送るだけの彼が至って控えめでしたが、サッと手を上げて見せたのです。
(偶然顔を合わせたくらいで、馴れ馴れしい・・・・ひょっとして口説こうって気じゃないかしら)
と彼のとった行動を冷ややかに受け止めながら、次の木曜日も金曜日も何食わぬ素振りを続けました。どのくらいそんなことが続いたでしょう。特に浮かれた気分もない月曜日の朝、ついなんとなく私も手を上げてしまったのです。一人で手を上げ続ける彼が、気の毒に思えたと言うのは私なりの言い訳で、実のところどうしてなのか今でもわかりません。窓越しにわずか指が覗く程度でした。
(きっと見えない・・・・でも気づいてくれたかな?)
気持ちのどこかでそう思って彼を見ていたのかもしれません。
火曜日。彼は上げた手を今度は左右に少し振って見せました。
(きっと昨日の私の手が・・・・)
さりげない挨拶に過ぎなくても、何かが通じたことが微笑ましい気分にさせ、次の日は私も少しだけ振ってみたりし、やがては笑いを交わすようにもなって行ったのです。そんなことがいつの間にか日課になってしまうのだからおかしなもので、遅れ気味の朝は慌ただしく家を出たり、少しばかり体調のすぐれない日も無理に仕事に向かったこともあったでしょうか。
不愉快だった視線。
でも今はそうとも言い切れません・・・・。
だってその彼が今の旦那さんなのですから。
8時15分の悪戯 ちびゴリ @tibigori
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