巫探偵蛇子の事件簿 ー猿樂館の復讐ー
@satoutanuki
蛙と蛇と猿
波をかき分け進む小さな漁船の船室に一人の少女がいる。少女は熱心に古い本を読んでいた。皮で装丁されたその本は少女が父から譲り受けた舶来の希少な本である。文字がかすれた背表紙には「B OK OF EVILPR YER」と書かれている。
1隻の船がいま港に入ってきた。
船に乗っているのは二人。眼鏡をかけた日焼けした肌に筋肉のついた太い腕で操舵輪をつかむ漁師風の男と、鮮やかな桜をちりばめた着物に女袴のいかにも女学生といった風体の少女だった。
少女=御蟇巫 蛇子(みばみ へびこ)は探偵である。彼女は帝都の学院に通う若干15歳の少女でありながら探偵としてその道ではしられていた。
もし読者に帝国臣民がいるならば、半年前に帝都を騒がせた「銀座連続駅馬車消失事件」を解決したお手柄女学生といえば知っているかもしれない。蛇子はとある依頼を受け、この関東の果てとでもいうべき太平洋の島へとやってきた。
蛇子が船を降りると、漁師風の男は館の方まで案内しますと蛇子の旅行鞄を持ち、案内を始めた。
この弥七、船乗り然とした若い男が眼鏡をかけているのは珍しい。どういう理由だろうかと考えながらついていく。
なんとなく蛇子は弥七から彼女の叔父に似た雰囲気を感じていた。蛇子の叔父は蛇子のことを大層かわいがっていて、もし陸軍の男なんか連れてきたら船から投げ捨ててやると言っていたのを思い出していた。
蛇子の叔父は海軍の軍人であり似てると感じるのは船乗りの持つ雰囲気なのかもしれないなどと考えていたら、小さな島であったので今回の依頼の舞台となる猿樂館にはすぐにたどり着いた。
「弥七、ここまででいいわ」
「わかりやした。お嬢、3日後の朝また来やす。」
そういうと漁師風の男は旅行鞄を館の門の前に置いて去っていった。どうやら弥七はこの島の住民ではないようだ。
蛇子は事前調査について思い出す。
猿樂館は、佐瑠樂化学工業で知られる製剤業で富を築いた佐瑠家(さりゅうけ)の別荘である。佐瑠家の先代の当主であった佐瑠源一は妻とともに2年前の火事で亡くなった。源一の代に佐瑠家は事業を拡大し大きく成功していた。陸軍にも商品を卸しているらしい。
現在、佐瑠家の実権は源一の兄弟たちが握っている。猿楽館はその火事が起きた屋敷跡に建てられたレンガやコンクリートで作られた西洋風の建物である。
蛇子がドアベルを鳴らすとすぐに家政婦が出てきた。
「おまちしておりました、みばみさま。どうぞなかへ」と家政婦は旅行鞄を拾い上げ、蛇子を中へ案内した。
ふぅ、と蛇子はため息をついた。島に着いたのが日が傾き始めたころ。依頼は明日からで良いといわれ屋敷の案内を受け、島を散策し、猿楽館の面々と晩餐に参加し客室に戻ってきた。
この猿樂館には蛇子を除いて現在5人の人物がいる。まずは最初に蛇子を案内した家政婦の三木佐代子、その夫の三木昭介、源一の弟である佐瑠要次(ようじ)、源一の姉淑子(よしこ)、そして源一の息子である源一郎。
源一郎は12歳になるというが先の火事により大怪我を負い今でも自力では動けないという。頭から毛布をかぶっており姿を見ることはできなかったが、佐代子の押す車椅子にのり晩餐の前にあいさつに来ていた。
もっとも後遺症があるのか話すことはなかったが。普段から部屋の外に長くはいないらしく、晩餐の時には姿を見せなかった。
佐代子は珍しいことに棒寧人であり。佐瑠家は印度の近くにあるという棒寧で薬の原料となる珍しい植物を調査していたらしい。源一が現地で家政婦として雇い。日本まで連れてきたというのだ。
そもそも今回の依頼とは、源一郎に帝都の事や探偵の話を聞かせてあげてほしいというものであった。
普段はこの猿樂館には、源一郎と佐代子そして源一郎の主治医でもある佐代子の夫昭介の3人で暮らしているが、晩餐の時に聞いた話によればちょうど今日が源一の命日であり要次と淑子は淑子の提案により猿樂館を訪れていた。逆に佐代子の夫である昭介は島を離れて薬の調達に行っているらしい。佐代子の夫の昭介は源一郎の薬や医療器具の調達のため定期的に帝都に行くという。佐代子は蛇子のことは昭介から伝えられたと話していた。
蛇子がため息をついた理由、それはこれから殺人事件が起きるからである。蛇子の探偵としての本能がこれから起きる事件の顛末を伝えていた。
2年前の火事は源一の姉弟に仕組まれたものである。彼らはまんまと佐瑠家を乗っ取った。彼らはおそらく源一郎が生きていたことを知らなかったのだろう。そのことを知った彼らは後粗末に来たのだ。
蛇子はこれから起こる事件の口封じのため彼らが襲撃することを警戒していたが猿楽館の作りとして外から登ってくることも難しくドアさえ鍵をかけておけばひとまず安心だろうと考える。探偵の習性として事前に見回った感想では2階のほかの部屋も同じ構造である。この条件は2階の客室に止まっている要次、淑子の部屋も同じであろう。
まるで密室殺人を起こすべく作られたような建物だと蛇子は思った。そこできづく、もしかすると要次と淑子は源一郎を餌におびき出されたのかもしれない。何者かが火事の復讐をするために!。蛇子は天井に隠し通路など怪しいところがないか確かめてから寝むりについた。
突然聞こえた悲鳴に蛇子は目を覚ます、蛇子の感は正しく事件が起きたようだ。蛇子は部屋を出て現場に向かう。一階の源一郎の部屋が騒ぎの現場のようだ。
果たしてそこには血の流れる右腕をおさえた要次、その手には手袋がはめられ絞め殺すためだろうか細いロープを持っている。部屋には要次の後ろに淑子がおり、源一郎のベッドの隣には佐代子が立って二人と向き合っている。
ぬるりと毛布のかたまりが起き上がり毛布が剥がれ落ちる。
そこには赤茶色の毛に覆われた人型の何かがいた。腕はひょろ長く、顔には毛がなく皮膚が垂れ下がっている。歯をむき出した口からは噛みついたのであろう要次のものと思われる赤い血が滴っていた。
佐代子が口を開く。
「やっぱり殺しに来たな!あの日、お前たちが 旦那様を殺したんだ」
「見てたのか」要次が苦々しく吐き捨てる。
「見てはいない でもあの人に聞いた!」
なるほど源一郎は本当はあの猿の事なのであろうと蛇子は一人ごちる。
佐代子は懐から佐瑠樂化学工業の印の入った箱を取り出すと中から注射器を取り出しおもむろに猿に注射した。
なんということか、猿は苦しみ始めた。しかし猿の体からはミチミチゴキゴキと音が鳴り始めみるみるうちに猿の体が膨らみ始める。
すべてが終わったときそこにいたのは優に2.5Mはあろうかという巨大な猿だった。その眼は血走り、目の前の人間に対する明確な憎悪が伝わってくるものだった。
佐代子は叫ぶ「お前達の望んだ新製品だ 味わえ!」
要次が一目散に部屋を飛び出し廊下から覗く蛇子の側を通り抜けていった。恐怖で動けない淑子の方へ猿が腕を伸ばす。ベチャっと嫌な湿った音が響く、つかまれた淑子の腕は容易くひしゃげ潰れていた。
淑子の悲鳴が上がる!猿は薙ぎ払うように右腕を動かし淑子の頭をつかみそのまま壁に叩きつける。ゴチャッ 猿が手をはなすと淑子の体は脳漿を壁にこすりつけるように崩れ落ちた。
蛇子はここにきてようやく動く気になったようだ。探偵とは事件が起きてから解決するものだ。人が死んだことで動くことにしたのだろう。
猿は窓を割り外へ飛び出していった、館の外に逃げた要次を追いかけているようだ。なるほどあれほど大きな化け物猿なら足がかりのない3階分相当の高さでも平気で上り下りできるだろう。蛇子は密室が破られたと一人で感心していた。
蛇子は佐代子に対し自分の推理を話すと佐代子はそれを認めた。蛇子は続ける。
「佐代子さん、あなたが私を呼んだ真の目的は源一さんの死の真相を私にあばかせるためもう一つは……」
その時、物凄い音がした。要次が再び館に逃げ込んできたようだ。家具や木材が壊れる音が聞こえてくる。
佐代子は部屋の外に歩き出す。どうせなら復讐の瞬間を見ようというわけだろう。蛇子もそれについていく。
「佐代子さんが棒寧からわざわざこの国まできたのはあの棒寧原産の珍しい猿の世話をするためですよね」
「ええ、でもそれだけじゃない。私、旦那様を愛していた。だからどうしてもあの2人を許せなかったの。」
一階の大広間では猿と要次の命がけの鬼ごっこが続いていた。要次は必死に考えを巡らせていた。どうしてこんなことになったのか、それもこれもあの兄貴のせいだと、おとなしく製薬事業だけをしていればよかったのだ。
猿は少しづつ要次が隠れているテーブルに近づいてくる。わざと一つづつテーブルの下を検めその顔には嗜虐の色がうかんでいた。もはや要次は青くなって震えたまま身動き一つとることはできない。はたして、ついにその時が来た猿がテーブルの下をのぞき込んでくる。
その時、広間に佐代子と蛇子が入ってきた。猿が振り向き犬歯をむき出し佐代子と蛇子に向かって飛び掛からんばかりに近づいてくる。佐代子は蛇子の前にでて手で猿を制した。
「止まって源一…」
が、猿は止まらないおもむろに振り上げた腕がしなるように佐代子の体に叩きつけられる。
蛇子は一歩飛びのく、どうやら佐代子は猿を御すことができなかったようだと判断し着物の袖口に手を入れる。
佐代子が蛇子を呼んだもう一つの目的それは復讐の完了後に猿を始末することだろう。
蛇子が袖から取り出したのは手のひらに乗る大きさの蛙の石像だった。顔の前に掲げつぶやく。
「偉大なる通董宮様、偉大なる通董宮様に願い奉る。あの者を捧げます。」蛇子は要次を指さした。
すると、蛇子の足元から黒い液体がまるで染み出すように溢れて出た。
猿は先ほどまでの勢いを失いよろよろと蛇子から距離をとる。
黒い液体はまるで意志があるかのようにおぞましくぬらぬらと猿の方に流れていく。
その様子を見ていた要次は言いようのない不快感を感じ嘔吐する。
黒い液体は猿の体にまとわりつき顔を覆う。猿が苦悶の叫びをあげる。黒い液体が猿の皮と肉をとろかし、骨をかじる。少しずつ黒い液体が増え代わりにみるみる猿の体は消えていく。
要次はテーブルの下から這い出してきた。
「助かった……」要次はつぶやく。
「いえ、もうだめです」
蛇子が要次に向かって囁く。
黒い液体が要次の方に流れていく。逃げることができない。からだが理解している頭はそれを理解できない、要次は逃げることができない。要次は抵抗することもせず呆けたように黒い水たまりに沈んでいき見えなくなった。やがて黒い液体は床に染みこむように消えていった。
すべてを終えたとき蛇子は気が付いた。ここから2日間島には迎えの船が来ないということに。しかし、これだけの事件だ。屋敷中を調べまわれば2日くらい潰せるだろうと思いなおし館の散策を始めた。
3日後の早朝、蛇子は迎えの弥七を待っていた。
2日間の調査により、佐瑠化学工業が陸軍の新兵器を開発していたことをつきとめ蛇子はそれなりに満足していた。
港に船が入ってきたのを見た時、そこで初めてある可能性に気付く。今回の事件の黒幕についてだ。蛇子は自分の未熟さを痛感しながら袖口へ手をいれ、それを取り出した。
「偉大なる通董宮様、偉大なる通董宮様…」
警視庁の船が1つの島にたどりつく、2人の行方不明者を探すために。その島には破壊された跡が残る館があるのみであり、不思議なことに島では一人も発見されなかった。
世間では一飛的に謎の集団失踪事件として話題になったが人の噂もなんとやら、次第に一部の好事家以外は興味を失っていった。
以下 付録
陸軍省兵器開発室記録【抹消済み】
動物兵器【 】猿(強化措置)
戦力倍増計画に従い計画されたもので東南亜細亜の【 】島にて発見された猿の一種を同じ地域で発見された植物の作用を利用し知能、筋力を増強し訓練を行い兵士の代用として運用する。
作用の不安定さ、攻撃性の強化が問題とされ改良がなされていたが開発元の【 】樂化学工業の経営混乱により開発が凍結された。
海軍情報局機密【抹消済み】
作戦報告
陸軍の戦力倍増計画を妨害するため、【 】情報少佐が作戦を実行。偽名を用い【 】化学工業に潜入した。
火災に見せかけ経営者一族を殺す計画に成功。しかし、動物兵器計画は続行された。その後、研究員として陸軍の新兵器の技師である棒寧人女性に接触。また、動物兵器計画に反対する経営者を扇動しおびき寄せ【 】島にて殺害。棒寧人技師の死亡により動物兵器計画は凍結された。
また今回の火消しのため民間の人員を利用し痕跡を抹消。【 】情報少佐は【 】島に民間人を回収に赴くも現在行方不明。
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