夜の鱗
東江間カリマ
夜の鱗
僕たちは生き返るんだ。きっと一緒に
16歳の普通の少年として生きていたあの8月、嫌なことがあって眠れなかった夜、家をそっと抜け出して海まで歩みを進めた。
堤防の上から海を見つめる。昼間の猛暑とは打って変わってひんやりした風のが背中に当たっている。今となっては小さく些細なことで傷ついてはこうして海を見つめていた。
海は黒く、月の光を反射した波が魚の鱗のように見えた。夜の海は巨大な黒い魚。遠くの浜辺に波が打ちつける荘厳な音だけが心を支配する。視界が揺らぐ。
その時突然波の音が聞こえなくなった。辺りが真っ暗で何も見えない。女性の声が聞こえる。
「あなたは生きてくれる?」
何も状況が読めず呆然としていると後ろから顔を押さえられ口に何か柔らかいものを押し込まれた。必死に抵抗しようとしても力が入らず、その塊を飲み込んでしまった。
「あなたなら...私と......」
機械音と慌ただしい人の声で目が覚めた。
狭く、何やら機械でごちゃごちゃした空間に寝かされている。体中が痛い。ここが救急車であることを理解するのに少し時間を要した。
血の味がする、と思った途端、吐き気に襲われた。僕はあの時よくわからないものを飲み込んでしまったのだ、吐き出さないと。焦る救急隊員を横目に僕は嘔吐き続けた。
僕が波に打ち上げられたかのように海岸で倒れていたところを通りかかった人が見つけたらしい。夜の陸風に押されて海に落ちて頭を打ち、意識を失ったが運良く波に運ばれ溺れずに済んだのではないか、というのが医者の見解だった。
あの出来事は夢だったのだろうか。夢にしてはあの声と口に入れられた何かの味が鮮明に残っていた。それは形容しがたいほど美味な肉塊だった。得体の知れないものを体に取り込んでしまった気持ち悪さが勝っていたが。それ以来夜の海に近づくことはなかった。
自分の体が歳をとっていないことに気づいたのは36歳で中学の同窓会に参加したときだった。周りは全く変わらない見た目の僕を見て驚いていた。逆に僕は他の同級生たちがあまりにも変わっていたことに驚いた。
古くから八百比丘尼伝説というものがある。人魚の肉を食べた16の娘が不老不死となり、800歳まで生きたという伝説だ。そう、僕があの時飲み込んでしまった肉塊は紛れもない人魚の肉だったのだ。
不老の体で人並みの幸せを試みた。愛する人ができた。子供もいた。
「一緒に歳をとろうって約束したのにあなたは全然変わらないんだから」
40になったとき妻は笑ってそう言った。僕も妻と一緒に老人になりたかった。
妻は80で死んだ。悲しかった。愛する子供も孫も至極普通の人生を全うして死んだ。
友もみんな死んでその度に悲しかった。
いつしか僕は人と親しくすることをやめた。それから世の中は絶えず変わり続けた。学生時代よく行っていた喫茶店やあの時は新しかったショッピングモールはもう面影も残っていない。政権も何度交代したかわからない。生きとし生けるもの全ては変わり続け、いつか終わりを迎える。変わらないものなど生きていると言えない。美しくもない。いつか読んだ本に書いてあった言葉は多くの人を救ったことだろう。僕はひどく傷ついたのだけど。何度もあの女を呪った。
216歳という世界で未確認な長寿、それも見た目は16歳。どれだけ隠れても世間は僕を放っておいてくれない。世の中は様々な噂をでっち上げては好き勝手に騒いだ。
もうどうでもよかった。この地獄が子供や孫に遺伝しなくてよかったな、と今となっては思う。
316回目の8月、300年ぶりに訪れたあの時の海岸。嫌なことがあった。不覚にもとっくに慣れていたはずの世の中の声に傷ついた。
あれから海は随分汚れてしまって魚たちが激減した。今はまたその環境を改善する技術が開発され、その効果が出るのを人々は待っている。しかし海の色など見えない夜闇で月の光を反射する波とその音はあの時と変わらない、それでも美しい夜の鱗。海も僕と同じで生きているとは言えないのかも知れない。目の前に広がる巨大な黒い魚に親近感のようなものを覚えた。
「やっと、あなたが」
あの時と同じ声が聞こえて恐怖と吐き気に襲われる。目を固くつぶった。また波の音が聞こえなくなった。
「目を...開けて.....」
いやだ、開けたくない。なのに体は言うことを聞かなかった。そこに立っていたのは髪も顔も真っ白な少女だった。顔は亡き妻にどこか似ている。あの時僕に人魚の肉を食わせた女か。もはや怒りも湧いてこなかった。
「ごめんなさい、私は仲間が欲しかった。みんなみんな私を置いて死んでしまう。あなたを待っていた。この世を見飽きてもあなたの涙だけが美しかった。あなたが欲しかった。だから人魚をもう1人殺した。黒い鱗の素敵な人魚だった。ごめんなさい、本当にごめんなさい。」
身勝手すぎる理由で彼女は僕の生を歪めた。彼女を許さなくても罰は当たらないだろう。しかしその悲しみを僕は300年かけて知ってしまった。彼女への複雑な思いが交錯する。変わらないものなんて美しくない。そんな言葉は嘘だと知った。海も彼女もこんなに美しいのだから。その時急に息が苦しくなった。頭上がきらきらと光った。にっこりと笑った少女の目尻に皺が刻まれてゆく。
「僕たちは生き返るんだ。きっと一緒に」
ある8月の朝、老人と老婆の水死体が発見された。
夜の鱗 東江間カリマ @1704mm
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