居住区 ー最後の住人ー
岩田へいきち
居住区 ―最後の住人―
「こんな簡単なミスしたら困るなあ」
「はい、すみません気をつけます」
「今日はもういいですから明日から気を付けて作業進めて下さい」
「はい、ありがとうございます。それでは申し訳ありませんが今日は失礼します」
正樹はいつものように仕事のミスを課長から注意されていた。しかし、特に落ち込むでもなく課長も軽く注意するだけなので負担にもなっていない。丁度いいぐらいの課長の厳しさだ。五時になれば家に帰れるし、美人で優しい奥さんと可愛い四歳の娘が待っている。まさに幸せ絶頂期だ。こんな幸せな生活を送れるのもこの居住区に住めたおかげ、ここの住人として選ばれたおかげだ。
休みの日には家族で居住区に人工的に造られた海に行ったり山へ行ったりすることもできるが環境も管理されているため遭難するようなことはない。そして何よりも素晴らしいのは居住出来る人口が制限されているのでその昔まで多くの家族や恋人たちを悩ませていた交通渋滞にあうことがないことである。海へ行こうとすれば砂浜は直ぐそこにあり、山へ行こうとしても登山口は直ぐそこにある。会社も割り当てられたマンションの2LDKのドアを開けると廊下を挟んで目の前にあるのだ。食べたいもののために以前のように長い行列に並ぶ必要もなくなった。食べたいものがあればそこに行けばだいたい注文して直ぐに食べられる。会社に勤めてさえいればそこで代金を払う必要もないのだ。
こんな夢のような暮らしが出来るようになったのは約10年前からである。正樹は、市の環境整備課に勤務して、し尿汲み取りのためバキュームカーを運転していた。
「まったく、こんな人里離れたところにわざわざ住んでいるじいさんひとりのためにどうして俺たちが命をかけなきゃいけないんだ」
「そうだな、怖いなあ。この道大丈夫かな?」
ひとつ間違えれば谷底に転落しそうな細い山道を運転しながら正樹は同僚の泰に声をかけた。2時間をかけてやっと目的地まで着くとおじいさんはふたりを優しく迎えてくれた。
「こんな遠くまですまんね、ありがとうね」
「ほんとですよ、こんな山の中にいつまで住んでるんですか。今日も谷底に落ちそうになりましたよ」
正樹はおじいさんに悪いなと思いながらも冷や汗をぬぐいつつ嫌味を言った。
「悪いなあ、浄化槽をつけたいんだけど今の年金じゃなあ10年経ってもそんなお金は貯まりゃしないんだよ」
実際、ますます進んだ高齢化社会でおじいさんたちの年金はなお一層押さえつけられていた。おじいさんがこの山の中を離れようとしないのもお金を使いたくないからなのかもしれない。
汲み取りを終えた正樹たちはまた同じ細い山道を引返した。
「みんな一箇所に集まって住めばいいんだよ。そしたらこんな遠くまで汲み取りに行く必要ないし、下水道にみんな繋げるじゃないか」「バカだなあ、そうなったら俺たちの仕事なくなるじゃないか」正樹の提案に泰が待ったをかけた。
「あつ、そっか、でもなあ、汲み取りだけじゃないぜ、水道だって電気だって超短くて済むんじゃないか」「そうだな、無駄がなくなるな」「そんなこと政府のやつら気づかないのかね」
やっと山道を抜けた正樹はそんな結論になった。そう、政府や世界はそのことにとっくに気づいており、世界各国、各地域でその計画は密かに進められ、正樹や泰の住む市にも建造されていた。その周りは白い高さ30mはあろうかという壁に囲われていた。泰はその存在を知っていたが、正樹はそれを知らなかった。
「正樹知らないのか、そんなのとっくに出来てるぞ、あのでかい白い壁見たことないのか」
「ええっ、西山町の向こうにあるあれがそうなのか、でかいし、高いし、壁長いなとは思ってたけど、あれかあ、もう人が住んでるのかなあ」
「ああ、もう住んでいるらしいよ。噂で聞いた話だけど、政府や市政はあえてあの白い壁のことや居住区になっていることを公表してないらしい。そして中に住まわせる人間も密かに選ばれた人を入れているらしいぞ。さながら現代版ノアの方舟だな」
正樹は泰の話を知らされていないどころか既に実行に移していた政府と市政に驚いたと同時に腹も立てた。
「なんでそんなの俺らに黙ってやがるんだ、政府は」
「世の中に必要な選ばれし人のみ入れますとか公表されたらお前、怒るだろ。こんなところで汲み取りやらされてる俺らが選ばれる訳ないもんな」
「そうなのか、俺らは選ばれないのか」
「無理だろうね、なんでも中に入れた人には仕事も住む家も与えられるらしいぞ」
「ええ、俺らが毎月苦労してアパート代払ってるのに」
正樹はます腹を立てていた。そしてバキュームカーの中身をし尿処理場に届けて市役所のバキュームカー置き場に駐車するとそのまま市役所の住民課へ怒鳴り込んだ。
「居住区つくってんだって? 住人選別してるんだって? 家くれるだって? なんで俺ら苦労している人間が選ばれないんだよ」
「居住区? なんのお話でしようか」
住民課の窓口の臨時職員の女性は本当に知らない様子で答えた。
「あのでかい白い壁があるだろ、知らないとは言わせないぞ」
「ああ、あの壁なら存じております。分かりました。課長に相談してまいりますので、お名前とご住所をこれにお書き下さい」
窓口の女性は正樹が書いた紙を手にすると奥の課長の席へと向かい、その紙を渡しながらしばらく話をしていた。
「お待たせいたしました。たいへん失礼しました。確かにそのような建物があるそうでございます。ご希望はお伝えし、上野様で登録いたしましたのでご連絡があるまでお待ち願います。結果は郵送されるそうですから郵便物には気を付けておいて下さい。だいたい三週間くらいでお届けできるそうです」
「ええっ、そんなに早く、俺らでもいいんですか」
「俺ら? 上野さん家族がいらっしゃるんですか」
「いいえ、いませんが俺ら市民のためにこれまで苦労してきてるんでどうかお願いします」
正樹は泰の分も含めたつもりで俺らと言ってしまった。無理だろうけど少し変るかもしれないとそう言い切って市役所を離れた。
それから三週間、正樹は住民課に居住区への希望を出したことを泰に言えずにいた。どうせだめだろうし、泰に「俺たちなんかが選ばれる訳ないじゃないか」と馬鹿にされると思っていたのだ。
そして月曜日の夕方、仕事から帰ると郵便が届いてた。案内状には次のように書いてあった。『貴方は居住区の特別住人として厳正なる審査を経て選ばれました。同封の居住区特別住人認定証を持って10月1日火曜日10時に市役所ホールにお集まり下さい。特別住人ですから部屋の手配、家具、電化製品等生活に必要な物(衣服も含む)はすべて揃っております。荷物は最小限にまとめてお越し下さい。なお、一度居住区に入りますとしばらくの間戻れませんがこの特別住人に貴方が選ばれたことはご家族をはじめ他にも内密にして下さい。これは特別なことですからもし他に漏れたりすると居住区外の住人の暴動等につながるとも限りません。最悪の場合、貴方の居住権を剥奪せねばならなくなることもありえます。また、貴方は独身ですが居住区では積極的に貴方の希望にかなったお相手を紹介してまいりますので良ければご利用ください。それでは幸福な未来をお祈りします』
その他に携帯品の注意事項、居住した後の生活の方法などを記したパンフレットのようなもの、新しい仕事の案内とカード状の居住認定証が入っていた。
「やったあ、マジかこれでこのオンボロアパートともおさらばだ。谷底を見ながら命がけで山道を運転して汲み取りに行く必要もなくなるぞ」
正樹は嬉しさのあまりひとりきりなのに大きな声で叫んでしまった。この時ほど彼女がいなくて良かったと思うことはなかった。居住が始まる10月1日まではあと二週間しかなかったが仕事は休まず行くべきだと思った。なにしろ俺は選ばれた人間なのである。スーパーな人間なのだ。と思ったからだ。泰はどう考えても選ばれてないだろう。泰と一緒に仕事をして俺はお前と違う選ばれた人間なんだという優越感を味わおうとも思った。
翌朝、正樹は何事もなかったように市役所のバキュームカー置き場へ向かった。泰も既に到着していて、車の点検を始めていた。
「おはよう」「おはよう」正樹は自分でもびっくりするぐらい爽やかにすっきりと挨拶をしたが、泰は何時もの返答だった。
――まあいい、俺は選ばれてるからなあ。お前は可哀想だけどもう少しここで頑張ってな。
そんなことを心の中で呟きながら正樹は運転席に乗り込みハンドルを握った。今まで、今日もかあといやいやながら握ってたハンドルがあと二週間足らずかと思うと新鮮で愛おしくも感じた。
「さあ、行こうか」「はい、行きましょ。行くしかないですな」
――俺も二週間後行くけどな。いかん、いかん、つい言ってしまいそうになる。
正樹はそれから二週間、話題を居住区の建物にもっていきたいがもっていけないもどかしい気持ちのまま仕事を毎日続け、遂に来週の火曜日に移住するという前の週末の金曜日になった。正樹はこれまでなんとかごまかしてきたが、あの白い居住区の壁について話をしてしまう。
「前さあ、あのでかい白い壁の居住区について話してたよな。あれどこから聞いたんだ?」
「ああ、友だちから聞いたけどその友だちも友だちから聞いたって言ってた。なんでだい?」
「俺たちはとうてい選ばれっこないと言ってたよな、どんなやつが選ばれるのかなあ?」
「そうだな、頭のいいやつ、お金持ってるやつ、税金たくさん納めてるやつ、将来人類にとって役に立ちそうなやつ、そんなところだろうな。だから俺たちとは違うやつらさ」
――でも俺は選ばれた。どうしてなんだ。泰が間違った情報をもらってる?自 分らじゃだめだと思い込んでいる? 俺はそんなことあまり考えずに申込んだから選ばれた? いや、泰は申し込めることすら知らないんだ。そうか、俺が直ぐに申し込めたぞと伝えてやれば泰も申込んで一緒に選ばれたかもしれない。いやいや、俺は特別だったんだ。俺は選ばれて泰は選ばれなかったとなったら泰は傷ついたかもしれない。これで良かったのか?
正樹は最初、泰に少しは自分の特別さを自慢出来るかと切り出した壁の話だったが、自慢することよりも何も知らない泰がかわいそうになってきた。そして自分の認定が取り消されるかもしれないリスクをおかしてでも泰にこのことを伝えるべきか悩んだ。そして市役所職員としての最後の仕事となるし尿処理場から市役所のバキュームカー置き場に向かう途中、正樹は悩んだあげく、他言無用を約束にこっそり泰に打ち明けた。
「俺、居住区の住人に選ばれた。来週移住する。お金も家も電化製品も何もいらない。持っていかなくていい。新しい仕事も彼女も向こうで紹介してもらえる。向こう行ったらしばらくはこちらに戻れない。元気でな。お前も申し込めば選ばれるかもしれない。申し込めるんだ。俺たちでも。知らなかっただろ?」
「ああ、そんなの全然知らなかった。お前いつのまに申し込んでたんだい?」
「お前があの壁の話をしてくれた日に住民課に怒鳴り込んだんだ。怒鳴り込まなくても窓口に申し込めば三週間で返事がくる。お前も申込んでみろよ。その代わり俺からこのことを聞いたって絶対に言わないでな。俺の認定が取り消されてしまうかもしれないんだ」
「ああ、分かった。でも、俺、片想いだけど今、好きな人がいるし、もう少し考えてからにするよ」
「ええ、なんでだい? 家も新しい仕事も彼女だってついてくるんだぜ。もう申し込まない手はないと思うけどな。お前だって選ばれるかもしれないじゃないか」
正樹はやや上から目線になってしまっていた。
「だって向こうに行ったらしばらく戻れないんだろ? 何年なんだい?」
「分からない。一年か二年じゃないかな、まあ、戻りたいとも思わないけどね。だって俺は選ばれた人間だからね」
正樹は益々上からになってしまった。
「お前、こっちに未練はないのか? 友だちとかいないのか? 好きな人とか?」
「いない、恋人もいない。両親とも俺が市役所に入ってから亡くなった。兄弟は元々いない。親戚も遠方だからほとんど付き合いはない」
「そうなんだ。お前、孤独だったんだな」
そう言えば普段話をするのは同僚の泰と汲み取り先の住人と挨拶をするぐらいだったことに正樹は初めて気づいた。
バキュームカーを置き場にとめると正樹の最後の仕事は終わった。
「じゃなあ、泰、元気でな」「ああ、正樹こそ向こうで嫁さん見つけろよ。俺もこちらで見つからなかったらそっちへ行くよ」
――選ばれなきゃ行けないのになあ。
正樹はそう思ったが口には出さなかった。
翌週の火曜日、いよいよ正樹は市役所ホールへと向った。所持品は説明書にあったとおり少なめにお気に入りの服と下着類をリュックに詰めただけだ。貯金もほとんど無かったが全額を下ろし、封筒に入れてチャック付きのポケットに入れた。ホールへは集合時刻の10時より30分も早く着いた。最初は男女合わせにて5.6人しかいなくて改めて優越感を感じた正樹だったが5分前になると6.70人になり特別感は薄れた。集まった人たちを見渡すと家族連れはおらず、子どもお年寄りの姿もなかった。
10時を過ぎると市役所の職員と思える係りの人が「男性の方はこちら、女性の方はあちらにお願いします」と叫んだ。手で示した先にはどちらもプラカードをもった男性と女性がそれぞれに立っていた。男性側にいち早く列らんだ正樹だったが女性側のプラカードを持った子が気になった。
――可愛い、あの子も一緒に行くのだろうか? 集まった人たちにあんなに笑顔で接している。いいなあ。あんな人を居住区で紹介してくれたらいいのになあ。
やがて正樹たちは男性、女性と別れて大型バスに乗せられ西山町にある白い壁へと向かった。
バスが入り口の前に着くと壁の大きな扉がスライドしてバスごと入れるようになった。入り口を通り抜けると男性を乗せたバスは右側、女性のバスは左側へと向った。
――壁自体がビルになっているんだ。
壁の内側に幅40mはあろうかという建物が続いていた。そのまた内側には人工なのかも知れないが海や山が広がっていた。
正樹たちは内側の入り口と思えるところでバスを降ろされ、建物の中に入った。プラカードを持っていた男性がカードを確認して各人のマンションの部屋番号を伝え、移住者たちはそれぞれの部屋へと散って行った。それぞれの部屋の入り口の前に廊下を挟んでそれそれぞれが仕事をする会社の入り口があるということだった。カギはカードをかざすことで解除出来た。
食事は近くのレストランで食べてもいいし部屋から注文すれば内部搬送システムを使って部屋まで届けられるということである。もちろん料理を作りたい人たちには注文した材料が届けられ自分たちで作って食べることも出来た。
仕事は、若干、事務関係に不安はあったが、正樹のレベルでも難なくこなせる程度のものだった。職場の雰囲気も良く、ギスギスすることもなかった。人員は課長がひとり、同僚が男性三人、女性二人とこぢんまりとしていたが、フロアはそんなに狭くなく、ゆとりがあった。女性は二人とも30歳くらいに見えたがひとりは独身で、もうひとりは既婚者ということだった。
仕事もひととおり覚え、作業も慣れてきた、勤め始めて一週間たった頃、正樹は課長に呼びだされた。
「上野くん、毎日食事はどうしてますか?」
「はい、最初の頃はレストランへ行ってたんですがこの頃は部屋で注文して食べています」
「そうか、ひとりじゃ寂しいでしょう。今日、君のお見合いの相手が3時にここに来ることになってるんですけど、会ってみますか? いやなら今からでも断れますよ」
「えっ、もう紹介してもらえるんですか? まだ一週間しか働いてないのに」
「いやですか? 君は特別に選ばれた人間です。綺麗な人が来ますよ」
「いえ、断りません。是非お願いします。部屋で寂しいなと思ってたところなんです」
「じゃ決まりだね。お見合いの場所がこんなところで悪いですが応接室を貸し切って構わないのでリラックスして臨んでください。成功を祈ってますよ」
「ありがとうございます」
――やった。部屋で寂しいなと思った次の日にお見合い、なんてタイミングがいいし、至れり尽くせりなんだ。
正樹は、大きな声で叫びそうになるのをこらえながら同時に泰のことを思い出していた。
――片想いの人を追いかけるよりこっちがやっぱり早かったかな? いや、まだお見合いが上手くいくとは限らないか。
正樹はそれから昼ご飯を済ませ、午後からの仕事はほとんど手に付かなかったが、課長もそれを微笑ましく見逃していた。
3時になって課長が再び正樹を呼んだ。
「さあ、上野くん、みえたようだよ。行こうか」
「はっ、はい」
―あれ、いつの間に見えたんだろう。
正樹は、仕事はそっちのけで応接室の周りを監視していたつもりだったが見逃してしまっていたようである。
コンコンコン 「はあい」
課長が応接室のドアをノックすると中から明るい声が返って来た。課長に続いて中に入ると正樹は目を疑った。そこに立っていたのはまぎれもなくあの時プラカードを持って移住者を明るく案内していたあの女性だったのである。
「上川麗華さんだ。以前はここの職場でも働いていたことがあるんだけど今は別の部署で働いておられる」
――へえ、ここで働いていたこともあるんだ。
正樹は遠くの存在だと思っていた女性が意外と近くだったことと自分のお見合い相手にまでなってることに驚いた。
「上野正樹くんだよ。先週からここで勤めてもらってる」
「はい、存じております」
正樹は、麗華の思いもよらぬ返事にますます驚いた。
「ぼ、ぼくも麗華さんのこと知ってます。市役所のホールに集まった時から麗華さんのこと気になっていました」正樹も勢いに任せてそう答えた。
「なんだ、二人とも知り合いだったのか。じゃ、もう私は要りませんね。ごゆっくりどうぞ」一時間は出てきちゃだめですよ」
課長はそう言うとさっさと自分の席に戻っていった。
「あれ? 出て行っちゃいましたね。とりあえず座りましようか」「はい、そうですね」
正樹と麗華は応接室の椅子に向かいあって座った。
「私も上野さんのこと気にしてたんですよ。若くてかっこいい人が入って来たなと」
「そうなんですか、嘘でしょ? そんなこと言われたことぼく、今まで一度もないですよ。ドッキリかなんかですか?」
「そんなことないですよ。だって上野さんここに選ばれた人なんでしょ。それだけでも凄いですよ」
「へえ、そうなんですか。選ばれただけでも凄いんですか?」
正樹はそう言われてまんざらでもなくなった。
「そう言う麗華さんも選ばれたからここにいるんでしょ? ぼくなんかよりもっと立派な相手がたくさんいるんじゃないですか?」
「いいえ、私はここの職員として試験を受けて勤めているだけなんですよ。誰かが私をもらってくれたら上野さんの所みたいなマンションに住めるんですけどね」
「そうなんですか、居住申し込みはしてないんですか?」
私たち職員は出来ないんです。居住した人と結婚したら住めるんですけどね」
「ぼく、麗華さんみたいな人、凄くタイプなんですけどぼくじゃだめなんですかね?」
「えーっ、本当ですか? じゃお願いします。今年中に結婚しないと勤務期間が終わってしまうんです。上野さんは救世主です」
「こちらこそお願いします。今年中に結婚しましょう」正樹はまたドッキリかと思った。
――こんなことはいくら俺が選ばれた人間だといってもないだろ。泰すまんなあ。俺こんな綺麗な人と結婚することになったよ。どう思う? やっぱりドッキリか?
「えっ、どうかしたんですか?」もごもご言っている正樹に麗華が声をかけた。
「ああ、すみません。ぼくだけこんなに幸せになっていいのかなって元同僚に申し訳ないと思い出していました」
「上野さん優しいんですね。でもそこは割り切らないとだめですよ。上野さんは選ばれた人間なのですから。同僚の方は選ばれなかったんでしょ? 選ばれた人がいないと人類は増える一方で滅亡するからね。同僚の人には諦めてもらうしかないわね」
「そんなもんなんですかね。同僚の泰も一緒に市民のために苦労してきたんですけどね」
正樹はその後、前の環境整備課の仕事の苦労話を次から次に話した。面白く話したのか麗華もニコニコしながら聞いていた。女性とこんなに喋れるとは正樹も思いもよらないことだった。
そして、なんて楽しい時間なんだと思っていたらいつの間にか約束の一時間が過ぎていた。
「そろそろ私戻らないといけない時間になってきました」
「そうですね。ぼくも仕事に戻らないといけないかな? 楽しかったな。また会って下さい」
「もちろんですよ。結婚してくれるんでしょ?」
「ああ、そうでした」
正樹たちは二人で応接室を出ると課長の席まで挨拶に行った。
「おお、出てきましたね。話は上手くいきましたか?」
「はい、上手くいき過ぎて怖いくらいでした。ぼく騙されてないですよね?」
「誰が騙すんですか? 麗華さんはそんな人じゃないですよ。とても忠実な人ですよ」「はい、そうですね。こんな人を紹介してくださってありがとうございます。大切にします」
「そうですか、結婚の約束まで出来ましたか。やりましたね。じゃ、明日結婚式をしましよう。上の教会予約しておいて良かった。10時からですが大丈夫ですか? お仕事は休んでいいですよ。職場のみんなも結婚式参列いたしますから。家族がいないから参列者もいなくて寂しいでしょ」
「はい、確かにそうです。よろしくお願いします。」
「麗華さんもそれでよろしいですか?」
「はい、私も家族いないし、よろしくお願いします」
というわけで翌日ふたりは正樹の職場の同僚たちに立ち会ってもらい、無事結婚式を済ませた。そして、その晩から正樹のマンションで一緒に暮らすことになった。
ふたりはその後喧嘩することもなく仲睦まじい新婚生活を送り、仕事も順調に勤め上げ、5年後、可愛い娘、舞も授かった。
そして今日である。もうすっかり居住区の生活にも慣れ、泰や山奥のおじいさんたちのことは忘れかけていた。もう直ぐ結婚して10年だ。正樹が仕事のミスをしたのも結婚10周年でどんな事をして麗華を驚かそうかと考えていたからだった。
正樹はマンションに帰って、仕事で失敗したことや舞にもう一人、妹や弟が欲しいねという話をした。そしたら麗華の方から「そうね、もう直ぐ結婚10年ね。舞には弟がいいかな。今夜いいわよ」
「おお、いいね。弟か、今夜は焼肉食べて頑張ろう」
だが、一緒に焼肉を食べたせいか今夜にかぎって舞がなかなか寝てくれない。11時半を過ぎてやっと眠りについた舞を見届けて正樹と麗華はベッドに入った。そして、ふたりはこの10年の思い出を語り合い始めた。初めて会った市役所のホール、見合いの翌日会社の同僚だけが立ち会った結婚式、舞が生まれた日、家族三人で行った海水浴、山登り、ついつい話が盛り上がり、子作りを忘れかけそうになっていた。
正樹は気を取り直し、なんとかムードのある話に持っていき麗華に抱きついた。麗華は10年前と少しも変わらず綺麗なままである。正樹はいつものように興奮し、息がだんだん荒くなってきた。が、何時もと何かが違っていた。
「あっ、苦しい。どうしたんだろ? 息が出来ない感じがする。麗華、お前苦しくないかい? 空気が薄くなってる気がするんだけど」
「いいえ、私は感じないわ、きっと期限がきたのね」
「期限? 期限って?」
正樹は必死で息をしながら麗華に尋ねた。
「12時を回ったから、今日は10月1日、あなたがこの居住区に来てから丁度10年よ。ここの期限は10年なの」
「ええ、そんなあ、なんとかならないの、延長出来ないの?」
「私と舞はアンドロイドだから酸素が無くても大丈夫よ」
「ア、ア、アンドロイド」
正樹はもう息も絶え絶えになっていた。
「延長は無理、あなたたちはこの居住区の最後の住人よ。あなたひとりのためにこの巨大な施設を動かすような無駄をするお金は政府に残ってないわ。私と舞も次の居住区へ明日送られる。あなたはもう諦めるしかないわね。今まで幸せだったでしょ? だってあなたは選ばれた人間だもん」
正樹は静かに息を引き取った。
一方、そのころ相変わらず、汲み取りの仕事を続けていた泰は正樹が移住した一ヶ月後片想いの彼女に振られ、住民課に居住区への移住を申し込みに行ったが、もう一切受付ていないと断られていたのであった。
終わり
居住区 ー最後の住人ー 岩田へいきち @iwatahei
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