平凡な自殺考

井ノ下功

第1話

 自殺

 について、考えてみる。

 私のように、虐めも虐待も受けたことのない人間にとって、それらは想像しがたいきっかけである。

 だから反対に、何も無かったのに突然命を絶った、という感覚は分かるような気がするのだった。

 思い通りにいかない。――そもそも思うほどの熱量もない。

 認められない。――認めてほしいと切実に願っているわけでもない。

 理想に近づけない。――理想とは遠くから眺めるものである。

 生きている必要がない。――といって、死ぬ必要もないのだが。

 息詰まるこの世界から、ちょっと足を延ばして、羽を広げて、踏み外して飛び出して、別の世界へ行ってみたい。――別の世界がある、などという夢想はとても信じられるものではないけれど。

 ある種の変身願望に近しいだろう。

 こんな息詰まるこの世界で、

 私はすでに、私を殺しているのだ。

   ☆

 一週間前に夏休みが明けたばかりの中学校は、なんともいえない気だるさに満ちていた。詩人が虎になってしまう物語を先生が朗読している。少年は文面を目で追いながら、ふいに先日のニュースを思い出した。

『女優のAさんが自宅で死亡しているのが確認されました。自殺とみられています』

 有名人の自殺報道は繰り返さないのが鉄則だ、と、そのとき少年は友人から聞いたのだった。後追い自殺が増えるから。だから最近はどの番組も、まるで不可視の障壁に阻まれるかのように、そのことには触れないでいる。

 少年は考える。こうやって忘れ去られていくのだろうな、と。あれだけ有名な人でもそうなのだから、もし平凡な自分が死んだら、二日もしない内に忘れられるだろう。

「――彼は咄嗟に思い当たって、叫んだ。『その声は、我が友、李徴子ではないか?』――」

 こんなふうに名前を呼ばれることなどない。

 少年はさらに考える。それにしても、彼女はどうして死んだのだろう。主演を射止めた映画の撮影中に。まだ若くて美しくて、何十年というキャリアが約束されていたというのに。それなのにどうして自殺なんてしたのか。遺書はなかったというから想像するほかないが、周囲の人間は口を揃えて「分からない。どうして突然」と首を振るだけだった。

 きっと理由など無かったのだろう、と少年は直感した。平凡な自分とは違って、芸能界という華やかな場所にいたけれど、たぶん彼女からすればその世界が普通で。憎らしいほど日常だったのだろう。

 少年にも時々、消えてしまいたくなる時がある。理由は特に無い。虐められているわけではなく、家族や友人との関係も良好だ。学業も部活も、目立った成績はないが、悪いというわけでもない。何事もない毎日を穏やかに過ごしていて、それに満足飽き飽きしている。

 要するに、少年はどうしようもなく平凡な人間なのだ。幹線道路の横断歩道で、ちょっと車道に踏み出してみたらどうなるかな、と考えてみて、考えるだけで終わる程度に。

 授業が終わって、帰りのホームルームが終わって、少年はしばらく友人たちと雑談した後、席を立った。三年生だから、もう部活はないのだ。そのことを寂しいとは思う。ごくわずかながら。

 図書館へ本を返しに行く。

 カウンターに本を預けた後、次に何を借りようかと書架を見にきて、そこで少年は私と出会う。

 少年は驚いていた。明らかに小学生としか見えない子どもが、当然のように本棚の上に座っているのだ。驚くのは平凡な反応。それから慌てて振り返って、この場所が司書から見えない位置にある、ということを確認してから、口を開く。

「君――」

「君、そんなところに登っていたら危ないよ」

 少年が言おうとしたことをそっくりそのまま先回りしてやると、少年は目を真ん丸にした。

「不思議か? ああ、不思議だろうな。だが、私にとっては普通のことだ」

 少年は私の言動を不可解に思いながら、同時に少しの昂揚を覚えていた。私という存在は彼の日常にとって明らかな異物である。少年は頭の中で、非日常への扉が開くのではないか、なんて空虚な妄想を、近くの小学校の児童が遊びに来ただけだ、という現実的な推測で打ち消していた。

「実に平凡で素晴らしいな」

「えっ?」

「だいたい、私は小学生じゃない。小学生に見えるかもしれないがな」

「……」

「それじゃあ、何者なんだ、って?」

 私は笑って告げる。

「私は魔導師だ」

 少年は私の言葉を理解できていなかった。

「パンドジナモスの魔導師だ。パンドジナモス、とは“万能の”という意味だ。つまり私は万能の魔導師ということだ。分かったか?」

「ええと……」

 少年はどう切り出したらいいものか迷った。子どもを傷付けないようにするには話に乗ってやるのが一番だろう、と考えて、信じた振りをすることに決める。

 だがその決意を私は嘲笑う。

「私の空想じゃない、と証明してやろう」

「えっ」

 私は本棚から飛び降りて、少年の腕を掴んだ。

「《MOVEうごけ》」

 パッと金色の光が散らばって、私と少年を包み込んだ。

 そして次の瞬間には、私たちは屋上にいる。

「え……なんで……」

 少年は呆然と辺りを見回した。汚れた屋上。本来ならば立ち入り禁止の場所。初秋の風がごうと吹いて、少年の髪を掻き乱した。

「分かったか? 私の妄想でないことが」

 少年は先ほど打ち消した空虚な妄想をもう一度引っ張り出してきた。

 私はそれを肯定する。

「そう。これは非日常への扉だ。ただし、行ったら戻ってこれないが」

「行ったら、戻ってこれない……」

「ああ。私と共に来たならば、お前はもはや人間ではなくなる。私という魔導師の弟子になる。しかも、平凡であることからは逃れられない」

「それは、どういう……?」

 私はその問いに答えなかった。

「さあ、どうする、少年? 家族を捨て、友を捨て、平凡な日常を捨てて、人間の道を踏み外し、境界線から飛び出して、平凡な非日常へ来るか?」

 問いかけておきながら、私には彼の答えが分かっていた。魔法を使って思考を読むまでもない。

 彼はわずかに迷った様子を見せた後、私の手を取った。

   ☆

 こうして、少年は普通の世界から消えた。当然、遺書も書き置きも何も残さず。自殺したのだとか誘拐されたのだとか色々と言われたが、やがて神隠しじゃないかと噂が立って、そのうちそれすら消えた。

「なあ、弟子よ」

「なんですか、先生」

「私がお前を連れてくるとき、もしも私が何か書き残すような時間をくれてやっていたら、何か残していったか?」

 弟子は少しだけ考えて、その実何も考えていないような軽さで、答えた。

「いいえ、何も」

 そうだろうな、と私は思う。聞くまでもないことだった。

 残さない、のではなく、残ないのだ。彼は――私も、そうだった。

 平凡な我々にとって、消えることに特別な理由はいらない。

 一方的に会話をやめた私に、気にした様子も見せず弟子はテレビに向き直った。画面には昔の映画。

「懐かしいものを観てるな」

「わりと好きだったんです、この女優さん」

 画面の中には、在りし日の姿がそのまま収められている。

 それはまるで私たちのように。


 おしまい

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