未来文字

凰太郎

【未来文字】

 今日は比較的気温も安定し、昨日までの猛暑が嘘のように過ごし易い。それでも、まだまだ夏の暑さは健在なのだが、気だるい不快さよりも内在する生命の力強さを実感させる後味の良い暑さだった。

 散歩がてらに足を運んだ自然公園は、移り行く時代にふさわしい景観を意識して昨年末にリニューアルしたばかりだった。しかし、私は押していた自己研究の進展に取り憑かれて今まで自宅に籠もりきりだったので、改装後は初めて訪れた形になる。

 前俗世の遺産であった庶民風情なくすみは一掃され、低い縁石分かれに整った歩道と植林が互いの領地を区画主張していた。小綺麗なアスファルト舗装が続く歩道は歩行者優先の意向を提示してあるものの、公共マナーを軽視する輩が何食わぬ顔で御自慢の自転車を湾走させている。円盆形の噴水中央に据えられているのは、オブジェ代わりの意味合いを持つ微笑ましい親子像だ。それが定期的な水飛沫を上げると、無邪気な子供達がキャアキャアとはしゃぎながら水鉄砲戦争を勃発させていた。付き添いの母親達は、我が子が通行人に迷惑を掛けないように見守りながらも、他愛ない世間話に興じ続ける。

 その横を通り過ぎた私は、考え事に集中できる静かな場所を求めて更に奥へと足を急かした。しばらく行くと、お誂え向きに木陰のベンチが見える。私は常時持ち歩いている除菌ウェットティッシュで座椅子表面を軽く拭き払い、ようやく腰を落ち着けた。

 夏の日差しを手翳しに見上げると、頭上に繁る楠がサワサワと微風に遊んだ。運ばれる香りは透き通るような緑を含んでいたものの、カラッとした夏の気温は熱気にそれを崩し霞めていく。

 しかし、そうした自然の息吹や爽快さは、私が抱く憂鬱とは正反対に在るものだ。正直言って、気持ちの靄は一向に晴れない。

 長い月日を掛けた私的研究は、二日前に結論着いたばかりだ。ようやく缶詰状態からは解放されたものの、総ては取り返しの着かない虚無感へと結実していた。

 この研究は前例すら無い事象を対象としていたから、先人達による英知の蓄えも存在していない。総てを私の孤立無援的な独学に頼るしかないままに、暗中模索の中でどうにか辿り着いたものだ。

 例えば〈新たに発掘された古代文字の解析〉が、どのくらいの労力を要するかを想像してもらえば、私が熱意のままに解き明かした〈未来文字の解析〉が、その何十倍も困難な偉業か皆にも伝わるだろう。

 この幾何学的な光文を最初に見始めたのは、今から約一年前になる。


 その頃の私は、しがない三流雑誌の専属記者だった。編集部の意向に従って、下らない芸能ゴシップやら裏社会の不正を無責任に暴く取材やらに身を捧げ続けていた。家路に就く事さえ侭ならない理不尽な労働環境を強いられていても、従順に働かざる得ない状況なのである。

 だから、家庭の不和が大きな歪みを膨らませていても、そうとは気付かぬまま──或いは、利己的に黙殺しながら──放置していたのだ。結果として、夫婦間の亀裂を増長させたのは、自業自得なのかもしれない。

 そんなギスギスとした日々の中で、私は突如〈文字〉を見るようになった。

 それは石版に刻まれた碑文でもなければ、紙に書かれたインク文字でもない。

 脳内に直接映像として浮かぶ不可思議な現象そのものであった。

 最初の頃は、不安定気味の精神状態が見せる夢想にも思えた。精神科にも通い、診察結果も出された。だが結局は無い物ねだりの長期療養を促された後に、精神安定剤を処方されるだけである。具体的な解決には繋がらなかった。

 光輝く〈文字〉は昼夜構わず私に呼び掛け、決まって〈夢〉の中でのみ存在を鮮明にする。日中の場合は、まるで白昼夢患者のようにふと誘眠に呑まれ、仕事中でも意識を途切れさせる事が珍しくなくなっていた。

 〈夢〉の中では、まるで渡り鳥の視界のように星々が流れ過ぎ、私は大宇宙の中心へ投げ出されたかのような感覚に襲われる。けれども、恐怖や不安といったものは、不思議と一切感じなかった。例えるならば、まるでプールの流動に身を任せているような緩やかな浮遊感にある。幾多もの星の瞬きは白光の流星群として四方八方を走り滑るのに対し、私の周りは強固な不可視バリアで守られたかのように時間の流れが安定しているのだ。

 この劇的な〈夢〉の中では自らの自由で動くというよりも、何か深遠なる意思によって紡がれたシナリオを演じさせられているような感覚に近かった。それは〈駒〉としての役割を負っているともいえるが、それでも掌で踊らされている感覚は全く無い。むしろ私自身の視点でちゃんと事柄が進むから、小説や映画の主人公のように自主的な臨場感に包まれていた……少なくとも〈夢〉を見ている間は。

 そして、放射的に展開する白線の中で、あの幾何学的な〈文字〉が眼前一杯に羅列されるのだ。

 最初は意味不明な前衛的模様にも見えた光の象形が〈文字〉だと認識できたのは、さながらヒエログラフやルーン文字のような不可思議な記号集合列の中にも幾つかの反復的縛りを持つ法則性に気付いたからだ。それはつまり、我々の目から見て非言語的に映る刻印も、何らかのメッセージを込めた異文化記録の可能性があるという史実定石を想起させたからである。

 更に補足を加えるなら、文章に時折紛れている〈数字〉も有力な判断材料となった。それは我々が現在公用数字としている〈英数字〉の崩し筆体に間違いない。文脈の最後にある年号と日にち──恐らく、この文の作成日を示しているのだろう──は、現在から二十二年後を刻んでいた。

 これが〈未来文字〉たる由縁である。

 しかし、こんな誘眠状態が日常茶飯事で生じると、到底仕事が手に着かなくなるのは当然だ。だから、疾患による保障を恐れた出版社側は、私を自主退社させる流れへ体よく追いやったのだ。

 生活の糧を失った不安は言いようもなく、しばらくはこの神秘なる現象を憎み疎んで安酒浸りに溺れもした。

 だが、よくよく考えてみれば、退社によって時間がたっぷりと使える事実に気が付いたのである。それならば……と、私は〈未来文字〉の解析に寝食を忘れるほど没頭した。傍目から見れば、失業のショックで奇人化したとも思えただろう。

 とにかく無我夢中で没頭した。こんなにも我を忘れて熱中できるものは、子供時代に河川敷で毎日探したキラキラ光る小石の収集以来だ。

 時として、対象テキストが手元に無いのが、歯痒く感じる事もあった。けれど、毎夜のように見る〈夢〉は──〈未来文字〉の文面までもが──寸分狂わず同じであったから、目覚めると夢日記さながらに記憶へ残る断片を書き留めていく。それを参考資料にして、独自の解析を続けたのである。

 未知なる単語一文字ずつの解析を重ね、文章として再構築するという気が遠くなる作業の繰り返しではあった。

 だが、もはや病的ともいえる固執の甲斐あって〈未来からのメッセージ〉は断片的ながらも着実に解析されていった。


 籠もり尽くしの解析作業が、大凡の折り返しを迎えた頃の事だ。

 まだ二歳になったばかりの娘を連れ、妻は家を出て行った。先の見えない生活苦に加え、私の研究が子供だましの道楽に溺れる情けない姿として映ったのにも違いない。今まで我慢し続けてきた夫婦間の擦れ違いに、鬱積が爆発したのも大きい。

 離婚届へと判を押す前に、私は幾度となく直談判もした。「この研究が実れば億万長者も夢じゃないんだ」と、思い直すよう説得も試みた。しかし、そうした努力も軟化の肥料にならないほど、彼女の心は冷えきっていたようだ。

 結果、取り残された私は、まだ改築したてのシステムハウスにポツンと置かれるだけの存在になっていた。抗菌衛生に飾られた真っ白なリビングには温かな雰囲気は無く、ただ科学理論を日常応用した赤外線センサーだけが無表情な灯りで慰め──虚しく寂しい日々が繰り返される。

 以前にも増して、私は〈未来文字〉に魅入られた。

 現実を認識するための行為は、現実から逃避するための行為に刷り変わり……。 


『コ・ノ・マ・マ・デ・ハ──』

 このままでは──だって? このままでは、何だ?

 ようやく意向を読み取れ始めた翻訳文に、私は意気高揚を隠せなかった。

 もしかしたら、これは人類の行く末を啓示するメッセージかもしれない。

 思えば、人類は常に環境破壊に起因する滅亡論を自己示唆する傍ら、その可能性に対しては真剣に向き合おうともしていない。地球資源や自然に対して手綱を弛なければならないという自覚が、未だ一向に芽生えていないのだ。

 遙か彼方の未来人は、深刻な状況が一刻の猶予も無い事実を我々にまざまざと突き付けるつもりではあるまいか?

 そうした切羽詰まった思いを込めて、このメッセージを愚かなる現人類へ送っていたのかもしれないのだ!

 だとすると、これは一攫千金やノーベル賞などという下世話レベルの話じゃ済まなくなる。全地球人類そのものの存続問題であり、ともすれば、私は〝救世主〟として歴史に名を残す事にも成り得るだろう。

『──カ・ナ・イ・コ・ト・二──』

 クソッ! まだ足りない翻訳単語がある!

 逸る気持ちをホットミルクで鎮め、私は解析プログラムの応急修正を行った。この作業だけで、また半日は費やす事になるだろう。早く全貌を暴きたかったが、急いては事を仕損じる……精力的且つ慎重に作業を進めつつも、確実な翻訳を心掛けるよう肝に命じた。焦る必要はない。

 だが、この内容を完全把握する日はそう遠くない事を、私は既に確信していた。

 ただひとつ気になるのは、何故一般人である私に、このような大事が課せれられたのか……だ。

 その鍵は、この未来メッセージの発信者にあるように思える。はたして、その名前が刻まれていると良いのだが……。



 黄昏時の夕暮れが、芝生の地平を赤く染めていた。

 気が付けば、もう誰もが家路に就く時刻だ。

 元気良く噴水付近で駆け回っていた子供達の遠い影も、今はまばらとなり……。



 解読した未来文字は、概ね以下のようなものだった。

『このまま行けば、取り返しの付かない事になります。早く、今の内に手を打たねば、きっと永遠の後悔に囚われるでしょう。悔い改める事です。時には自分のエゴイズムと正面から向き合い、打ち勝つ勇気も必要なのです。貴方の救済は、私の救済でもあります。どうか、もう一度見つめなおして……手遅れになる前に!』

 正直言って、私は気持ちの整理に困惑した。

 あまりにも内容が抽象的過ぎるので、何を云わんとしているかが解らなかったのだ。

 しかし、末尾に刻まれた差出人の名前を見た瞬間、私は背筋に衝撃が走ったのを今でも克明に覚えている。

 だが残念な事に、総てが手遅れだった。

 このメッセージを受け取るのが──或いは私の解析着手が──もう少し早ければ、目の前にある情景に虚無感を覚える事もなかっただろう。導き出された運命は既に決定付けられており、もはや修正の余地すらないのだ。

 最後に翻訳された差出人は──私の娘の名前であった。

 あれは〈未来文字〉などではなく、未来の娘が過去の父親へと送った〈写真記憶型テレパシー〉だったのだ!

 温かい家庭を渇望する我が子のメッセージだったのだ!



 帰宅を促す役所放送が耳遠く聞こえ、正面に歪む夕陽が虚脱な意識を浅く呑んだ。

 私も帰ろう……誰も待たない我が家へ。

 頬を伝う乾いた涙は何だか可笑しく、私は明日からの生き甲斐を模索するのも面倒になってきていた。


 



[終]

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