砂になった街

@2258319

第1話

6時27分。私が起きるのはいつもその時間だ。いつもこの時間に目が覚める。いつも通り7時間睡眠。淡々と、毎日のルーティンをこなしていく。トイレに行ってそのあとシャワーを浴びて、朝ごはん。決まってトースト1枚。バターを塗って食べる。バターの付け方も決まっている。食パンの手前から奥へ、左から右へとバターを交差させて塗っていく。この塗り方でしか出せない味があるのだ。家族に言ったら不思議がられたけども。もしかしたら、毎日の朝のルーティンを守れている安心感からくる独特な味なのかもしれない。そんなことを考えていたらもう7時半だ。急いで歯磨きをし、家を出る。いや大丈夫だ、いつも使っているあのバスはいつも遅れるんだから。そんなことを考えながらリュックを背負い、マンションから出て、坂を駆け降りる。道中のパン屋の香ばしい匂いに思わずほおが緩む。これが毎日の密かな楽しみになっていた。坂を下って右は曲がるとバス停に着いた。いつもの交差点と信号。ほら、あと10秒で信号が青に変わって...ほらバスが来た。高校生活も2年目に突入して、もうすっかりバスの時間にも慣れっこだ。バス停に並ぶ人も、いつもと同じ。私は先頭から数えて4番目だ。先頭は若くて髪の長い女性。いつも小さなバッグを下げている。2番目は若い男性。私より少し年上。新入社員だろうか。ピカピカのスーツを着ている。3番目は年老いた男性。白髪で、しかもプルプル震えて杖をついていてなんだか心配だ。いつもの日常。ICカードをかざしてバスに乗り込む。いつもの運転手。30代くらいの、髭のある男性。私はそのまま進んで、バスの真ん中あたりで座った。これもいつものルーティンだ。私の前に立ったのは、さっきの新入社員らしき男性。スマホをいじっている。「出発、しんこうー。」運転手が、いつものトーンでバスを出発させた。チラリとバスの時計を見る。7時45分。全くもって、予定調和。あと2分で次のバス停。そう考えていたときだった。何か得体の知れない違和感が私の中を通り抜けた。少し、何かがズレる感覚。何だ?おかしいところは何もないはずだ。あたりを見渡してみたが、これといっておかしいところはない。なんだ、もしかしてあまりにもいつも通りすぎて逆に気持ち悪くなったのか?もしかしたら深層心理で、このいつもどおりの日常から少し外れてみたいと思っているのかも知れないな。そんな阿呆なことを考えていると、次のバス停に着いた。乗り込んでくる客の顔も全て覚えてしまった。車掌がまたバスを走らせる。...ん?ポツポツポツザアアアア。急に激しい雨が降り出した。おかしいな、天気予報では今日は晴れだったはず...誰も傘を持っていない。もちろん、私も。前の若い男性が舌打ちをする。その怒気が私にも伝染し、少しの間は雨を不快に感じていたが、しばらくすると雨が面白く感じられ始めた。非日常。何もかもいつも通りだった日常に飛び込んで来た雨粒に私の心は揺さぶられていた。ザアアアア。さらに雨が強くなる。窓から外の景色が見えなくなるほど雨粒は叩きつけるように降っていた。この世には雨とこのバスしかないように思われた。あ、面白い。外界と断絶されている。そう考えた時だった。先ほど感じた違和感がまた私を通り抜ける。そうだ、次のバス停に着かないぞ?何故?バスが遅れているのか?後ろの若い男性が貧乏ゆすりを始めた。ゆっくりと徐行運転するバスに苛立っているのだろう。でも仕方がない。ワイパーを使ってもまともに前が見られない状態なんだから。人でも飛び出してきたら危ない。でも学校に置かれるのは困るな。いや、それでもいいか。遅延証明書でも貰えば。いつも時間通りに行く学校に遅れてみるというのも、それはそれでアリだな、少しはみんなに注目してもらえるかも、と少し心を弾ませた。そんなことを考えながら、しばらくバスに揺られていた。バス停には着かない。次第に私も焦り始めた。学校に遅れてもいいとは思ったが、流石に遅れすぎるのも困りものだ。授業に遅れてしまう...だんだんと焦りで顔が熱くなってきた。その瞬間、私のほおにサラサラと砂が触れた。なんだ?見ると、前に立っていたあの男性の腕が、足が、顔が、砂と化して崩れ落ちているではないか。血の気が引き、思わず声をあげそうになったが、その瞬間に凍りつくような違和感に気づき声すら引っ込んでしまった。なぜ、他の誰も驚いていないんだ?バスの中は、雨が降る音以外は静寂そのものだ。崩れてゆくあの男性は声をあげて驚くでもなく、ただただ崩れ落ちている。もう、首から上と腕と足は崩れ落ちて...支えられなくなった胴体がゴトッという音を立てて倒れる。私は異常事態だと認識していたにもかかわらず、何処か冷静に一部始終を見ていた。人は驚きすぎると声も出なくなるのか、と考えながら硬直していた。不意に周りに目をやると、他でも崩壊が始まっていた。あの小さいバッグを下げた若い女性も崩れ出した。それも急速に。あっという間に胴から上が崩れ落ち、バッグがドサッという音を立てて落ちた。ああ、あの白髪のご老人も、もう服と杖しか残っていない。他の乗客も砂と化しはじめた。いいや、乗客だけではない。このバスもだ...取手や屋根が砂になる。足元がぐらついてきた。そのうち、ザザザザッという音と共に、バスが崩壊し、天井が落ちてきた。私は砂に埋もれた。このままでは生き埋めになる。そう恐怖を感じた私は必死に砂をかき分け、なんとか砂の外に出た。ペッペッ。砂が口の中に入った。いつの間にか雨は止んでいた。水分を含んだ砂は泥になっており、私の体にまとわりつく。砂と泥をはらってふと周りを見渡して驚いた。バスの中だけじゃなかったのか。周りのビルや、雑踏を形成していた通行人たちは、もうその形を保っていなかった。ザアアアア!砂と化したビルが一気に崩れ去る。その風圧で私のところにも砂嵐が襲ってきた。うあっ。必死に両手で顔を守る。目が開かない。程なくして砂嵐は止み、私は目を開けた。見渡して見ると、周りは砂、砂、砂。ここは、何処だ?ところどころヒトの持ち物だと思われる物がちらついている。一体なんなんだ?何でビルやバスは砂になって、服やバッグは砂にならない?いや、服やバッグもサラサラと砂に変わってゆく。私が習ってきた原子というものは一体何だったんだ?私の知識が通じない。そもそも何で私だけ砂になっていないんだ?もうすぐ、私も風に吹かれて崩れ去ってしまうのではないか...?私のいう存在が、ぐらつくのを感じた。途方に暮れる一方で、私の中の冷静な部分はこう考えていた。もはや学校というものは存在しないだろう。クラスメートも、先生も、砂になったに違いない。何処へ行こう?何処へ...帰るところがない。私は歩き出していた。あの場所に留まっていては、自分も砂になってしまうかも知れないと考え、気が狂ってしまいそうだったからだ。歩きながら、こう考えた。ここは、何処だ?本当に地球か?もしかしてあの雨で外が見えなかったあの時間に、いつのまにか別の世界へ連れて行かれてしまったのか?ふと我に帰る。私のリュックはまだ無事だ。携帯を取り出してみる。圏外だ。他に入っているものは...あ、お弁当...お弁当は砂になっていた。ご飯やおかずのハンバーグは見る目もない。あ...携帯も、リュックもサラサラという音を立てて風に吹かれてなくなってしまった。周りの風景に同化してしまった。嗚呼、周りの風景がどんどん砂と化していく...私は考えた。それにしても、なぜ私だけ砂にならなかった...?もしかして、私だけ砂にならない遺伝子か何かを持っていたとか...?なら私の家族は無事かも知れない。家に向かって歩こう。そう決めた。歩き出す。私の他に生き残っているヒトがいるという微かな希望を胸にしながら。いや、正確にはその場にいては自分というものが崩れてしまいそうだったから、無理矢理歩く口実を作ったというのが正しいか。ぬかるみや足が沈む砂の上を歩き続け、足が疲れてきた。そういえばこのところ全然歩いてなかったな...そんなことを考えながら歩き続けた。周りの景色はずっと変わらず砂の山で、自分が今何処にいるのかも分からない。日が照りつける。ただ、家までは一本道だったはず。このまま真っ直ぐ歩けば家に着くに違いない。歩き続けた。いつまで経っても代わり映えのしない景色。私は歩き続ける。疲れた。もうこれ以上、一歩も歩けない。もうとっくに家を通り越しているはずなのに、何もない。砂と泥しかない。もう私以外、この世には残っていないのか。この世界に私と砂しかないというのなら、私は一体なんなんだ...?男性?女性が存在しないこの世界で、男性というカテゴリー分類に意味はあるのか?私の他のアイデンティティもそう。身体の形も、考え方も、私と類似した、もしくは差別化された他者がいなければ私のアイデンティティというのは意味を持たないだろう。私が何者かを決めるのは常に他者だ。脳が結合されない限り、自分と他者がもつ「私」というものの存在のイメージは常に乖離している。他者が私を意味付けて解釈することで私という存在が他者の中で完成する。つまり、周りが砂になった時点で砂にならずとも私の存在は砂となってどこかへ消えてしまったに等しいのではないか...?私は今、存在していると言えるのだろうか。何も私を認識しない、無機質なこの世界で。周りが砂となって消えたとき、私という存在もまた、砂になったに等しいのだ...そんなことを考えていると、もう歩くことに意味を見出せない。果てしなく続く道を歩くことに、意味なんてあるのか...?うっ、なんだ?途端にバランスを崩した。見ると、私の右足がだんだんと砂に変わっていく。ああ、やはりか。私とは一体なんだったのだろう?いつ崩れるかも分からない、一つのか細い生命体だったのか?生きているとは、一体どういうことだったのだろう?日常がこんなに簡単に崩れ去ってしまうなんて。ともかく、やっとこれで休めるのだ...悪夢が、終わる。いや、悪夢ではないか。バスが崩れ落ちた瞬間、少し心躍ったんだ。日常の向こう側に行ける気がして。でももう戻りたいよ...周りにヒトがいて、「クラスメイト」で、「生徒」でいられたあの世界へ。何者でもないこの世界から、戻りたい。抜け出したがっていたあの世界に戻りたいと思う日が来るなんて。無い物ねだりだな。ああ、胴体も、頭も砂になり始めた。私とは、一体なんなのだろう。「事実など存在しない。あるのは解釈のみである。」というニーチェの言葉を思い出していた。嗚呼、私という存在が、崩れていく...程なくして、私の意識は途切れた。







「もしもし?もしもーし!」ん...?聞き慣れた、あの髭のついた運転手の声で目を覚ました。「終点ですよ、お客さん。」あ...どうやら眠ってしまったのか。そうか夢オチか...良かった...ふふふ。自然に笑いが込み上げる。良かった。さあ、いつものクラスメイトと先生が待っている。学校へ行こう。いつもの日常へ。バスを降りる。舗装された硬いアスファルトを踏みしめた。沈まない。あの、歩くごとに足が砂へ沈んでいく世界とはおさらばだ。その時だった。ビュオオ。強い風が吹いた。砂埃が舞った。まごうこと無き、あの世界の砂の感触...夢なんかじゃ、無かったのか...?私は本当に、人間なのだろうか。今も、突然自分が崩れ出すんじゃないかという馬鹿げた考えが頭をよぎるのである。私とは、一体なんなのだろう?

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