籠の鳥の遺言

染井由乃

籠の鳥の遺言

 幽霊になった。

「君」が縛って奪って踏み躙るから、あっけなく死んでしまった。


 半透明の体で、長いこと暮らした部屋の中を漂う。今はちらちらと雪の舞う季節なのに、暖炉に火はなく寒々しいままだ。


 私の体を、腐らせたくないのかな、と、寝台に寄り縋る青年を見下ろして思う。銀に近い灰色の髪と獣のような金の瞳。普段から明るいとは言い難い整った顔立ちには、いっそう翳りが増していた。おそらくは、私のせいなのだろうけれど。


「ジゼル、目を開けてくれ、ジゼル……」

 

 馬鹿の一つ覚えみたいに、彼は私が死んだ三日前から同じ言葉を繰り返している。絶望に翳りきった金の瞳を見ていると、ほんのすこしだけ胸がすく思いだ。思わず唇を歪ませずにはいられない。


 昔、お母さまが言っていた。この国では、人は亡くなると一週間だけ幽霊になるらしい。幼子に向けた御伽噺だと思っていたのだが、実際、死んだ私はこうして幽霊になっている。誰にも見られない、半透明の存在に。


 幽霊の体で、できることなんてないに等しい。この体でできることといえば、せいぜいほんのすこし風を起こして薄絹のカーテンを揺らすくらいだ。彼を驚かせようにも、彼は私の死体に縋り付いているばかりで見向きもしないから一日で飽きた。


「ジゼル……こんな場所で、死なせてごめん」

 

 掠れるような悔恨の言葉は、それこそ風のような軽さで通り抜けていった。


 何を今更。私はここから出して欲しいと、何年も前から訴えていた。でも、一向に耳を貸さなかったのは君の方じゃないか。


 私と彼は、幼馴染のはずだった。お互いにお互いを大切にしていて、なんでも語り合える特別な絆を持っていた。私にとっては、彼は兄のような存在ですらあった。

 

 関係が拗れ始めたのは、私に縁談が持ち上がった三年前だ。子爵令嬢として生まれた私は、家のためにとある男爵家に嫁ぐことになった。格下の家に嫁ぐわけは、言ってしまえばお金のためだ。それでも、傾きかけた実家を救えるのなら悪くない話だと思っていた。


 けれどたった一人、彼だけはこの縁談に猛反対したのだ。「どこにもいかせない」とよくわからない独占欲を剥き出しにして。


 伯爵令息である彼にだって、立派な婚約者がいるというのに何を言っているのかと、思わなかったといえば嘘になる。でもそれ以上に、幼馴染だと思っていた相手から突然に向けられた身を焦がすような熱が怖かった。

 

 だから私は逃げるように嫁ぐことにしたのだ。何かが変わってしまう前に、彼のそばから離れたかった。「またいつでも会えるから」という言い訳を盾にして、挨拶もそこそこに彼のもとから立ち去った。


 結果的にそれが、よくなかったのかもしれない。私は男爵家に向かう途中の馬車で「何者か」に襲われて、気がついたらこの部屋の中にいた。まるで初めから令嬢を招くことがわかっていたかのような、豪奢で愛らしいこの閉ざされた部屋の中に。


 彼は私を暴漢から救ったのだと笑ったが、その建前は長くは続かなかった。何日経っても、彼は私を部屋の外に出そうとしなかったのだ。「家に帰りたい」と泣き叫んだ言葉は、彼のくちづけでかき消されてしまった。


 一週間後には、私の死の知らせを彼が運んできた。どうやら表向きには、私は馬車の事故で死んだことになっているらしい。満ち足りた表情で報告する彼が憎たらしくて、本を投げつけて彼を拒絶した。そうして彼が負った傷のぶんだけ、くちづけを強要された。


 一月が経ったころには、もう二度と帰れないのだと悟った。だからいっそ死のうと決めたのだが、あっけなく彼に見つかって願いは遂げられなかった。その罰として、朝晩のくちづけが義務になってしまった。

 

 なんの愛情も伴わない、触れるだけのくちづけのいったい何が気に入ったのか、彼はいつでも嬉しそうだった。その顔が憎たらしくて、また手近な物を投げつけて、彼にできた傷口の数だけくちづけをする。その繰り返しだった。


 そんな代わり映えのない毎日を三年分やり過ごして、三日前、ついに死神が私を迎えにきた。自ら命を経ったわけではない。突然に下腹部が痛くなって、気づいたら幽霊になっていたのだ。ほとんど、事故みたいな死に様だった。


 二十歳になろうか否かという若さで死んでしまったことは虚しかったけれど、それ以上に、ようやく三年にも及ぶ彼の束縛から解放された、と晴れやかに思う気持ちの方が強かった。この世の終わりのような声で泣き叫ぶ彼を見ているのも、それはもう楽しくてたまらない。


 いい気味だ。いつまでもそうやって泣き続ければいい。私を閉じ込めてこんなところで死なせた報いを、君は受けるべきなのだ。


 こんなに愉快な気分は実に三年ぶりだ。そのまま、君が再起不能なまでに壊れてしまえばなおのこと、私の心を軽くするはずだった。君の涙で、私の未練が溶けていく。


「ざまあみろ」


 誰にも届かない声で笑って、ゆらゆらと薄絹を揺らす。


 私に縋り付いている君は、やっぱり「私」に気づかない。


 ◇


「ジゼル、綺麗だよ。君の好きなカトレアをたくさん取り寄せたんだ。君のはちみつ色の髪には、どんな色もよく似合うね」


 私の死後五日目になると、彼はひどく穏やかな表情で私に語りかけ始めた。


 無論、死体の私のほうにだ。私が死んでいるのを忘れてしまったのかと疑うほどに、彼は上機嫌だった。


 ゆるやかに、彼の心が病んでいく。私の望んでいたことだ。


「ジゼル……朝のくちづけがまだだったね」


 すっかり硬直した私の指に自らの指を絡めて、彼は唇を重ねた。まるで宝物に触れるかのように丁寧なその仕草から視線を逸らしながら、まだ冬でよかった、と溜息をついた。夏ならそろそろ体が崩れ始めていてもおかしくない。もっとも、この調子では、幽霊の私が消えた後も遺体に縋っているだろうから、それも時間の問題なのだろうけれど。


 せめて見られる姿のうちに棺に収めて欲しいものだが、身勝手な彼にそんな思いやりは期待するだけ無駄だろう。ため息をついて、私の周りに敷き詰められたカトレアを風で揺らした。


「ジゼル、今日は何をしようか。ピアノを弾いたら、また君は歌ってくれるかな」

 

 彼は憎たらしいことに器用なたちだ。大抵の楽器は弾けるし、機知に富んだ会話もできる。これといった取り柄のない私に執着せずとも、彼と関わりたいひとは大勢いるだろうに、彼はどうしてかこんな破滅的な道を選んだ。幼馴染を監禁するなんて、正気の沙汰じゃない。


「君のいちばん好きな曲を弾くよ」


 彼がピアノに向き合えば、途端に寒々しい冬にふさわしくない柔らかな音色があふれ出す。びりびりと空気が震える様すらわからなくて、ああ、私はやっぱり死んでしまったのだな、と思い知らされた。


 この部屋に囚われている間、私の気が向いたほんの何回かだけ、彼のピアノに合わせて歌を歌ったことがある。健全な幼馴染だったころは、よくそうして二人でひとつの音楽を奏でたから、そう難しいことでもなかった。ピアノと歌に関しては、私たちは不思議なくらいに息がぴったりで、昔から彼とする遊びの中では一、二を争うほどに好きだった。


 それを、恋しく思っていた私の気持ちに、君はすこしくらい気づいていただろうか。


 らしくもない感傷に浸ってから、これも最後だろうと思い至り、慣れ親しんだ音色を口ずさむ。目の前の彼に、届くはずもないけれど。


「ジゼル……やっぱり、君の声は綺麗だな。いつまでも聴いていたい」


 ぴたりとピアノの音が止む。まさか私に気づいたのかとはっとしたが、彼の金の瞳は冷たくなった私を眺めていた。恍惚の滲んだ笑みを浮かべ、とろけるような幸福を味わっているようにも見えた。


 やっぱり、君は気づかない。君が心に抱いた熱は、「私」の姿すらも歪ませる。


 ふっと、燭台のあかりが落ちる。雪が降りしきっているせいで、昼間でも室内は薄暗い。


「……いつまで、君の声を留めていられるかな」


 翳りが、思い出したように彼の正気を呼び覚ました。


 ぽろぽろと彼の双眸から涙があふれ出す。薄暗闇の中で静かに泣く彼は、いつになく危うく見えた。


 なんとなく目を逸らしたくなって、腕を組みながら顔を背ける。


 だがその直前で、彼の周りを漂う半透明の光に目を奪われた。


 淡く発光するようなその姿は、蛍のようにも見える。ちかちかと淡く点滅する光は儚げで、本能的に私と同じものだと察した。


 この部屋に、私以外の幽霊がいたなんて。ちっとも気が付かなかった。


 思わず彼のそばに近寄って、淡い光に手を伸ばす。


 私と同じ半透明だけれど、この光にはしっかりとした形がない。私は、生前と変わらぬ見た目をしているのに。


「あなたは、いったいどこからきたの……?」

 

 そっと手を伸ばせば、光はじゃれつくように私の指先に絡みついた。


 光が触れた箇所から、不思議な温もりがじわりと広がっていく。とくとくと、私よりもずいぶん早い鼓動のようなものを感じた。


 幽霊に相応しくない、まるで命の始まりのような力強さだ。


「っ……」


 思えば、月のものはいつから来ていなかっただろうか。もう何も生み出すことはない下腹部に手を当てて、一瞬だけ考え込む。


 そっと手のひらを上に向ければ、光はまるで眠るように私の掌の上で丸くなった。


「そう……そうなのね」


 彼のすすり泣く声が聞こえる。死んでしまってから初めて、私も泣きたいような衝動に駆られていた。


 ◇


 小さな光と戯れているうちに、七日目の朝が来た。お母さまが語ってくれたお伽話の通りなら、幽霊として過ごせる最後の一日だ。


 彼は相変わらず私に話しかけたり、ピアノを演奏したりを繰り返している。夜には腐り始めた私の死体のそばで眠る始末だ。


 この一週間で、彼もずいぶんやつれたように思う。最低限の水くらいは口にしているようだが、まともに食事をとっている様子を見たことがない。


「……困ったひとね」


 あくまでも小さな光に向かって語りかけ、深いため息をつく。光はちょろちょろと彼の周りを漂っては、励ますようにきらきらと輝いていた。どうやら私にも彼にも似ず、とてもいい子のようだ。


 七日目の彼は、ただ黙って私を眺めていた。カトレアを敷き詰めた寝台の上で、何度も私の髪を梳いては毛先に口付ける。


 この期に及んで、彼は朝と晩のくちづけ以外で私と唇を重ねようとはしない。変なところで律儀なのも気味が悪いと思っていたが、私のよく知る幼馴染らしいといえばそうだった。


「ジゼル」


 噛み締めるように、彼は私の名を呼んだ。だが、昨日までとは違ってずいぶん意思がはっきりしているように思う。


「ジゼル」


 祈るように、彼は私の名を繰り返す。彼の周りを飛び回っていた小さな光が、憐れむように彼の肩に舞い降りた。まだ小さいくせに、思いやりなんてものを持ちあわせているらしい。それとも、相手が彼だからできることなのだろうか。


「ジゼル、ごめんね、許して欲しいなんて言わない」


 彼は、ぽつぽつと力のない声で囁いていた。その様子がどうにも不穏で、嫌でも視線を引きつけられる。


「ジゼル。ごめん、それでも愛していた。今も、愛している」


 それは、彼から聞く初めての愛の告白らしい告白だった。散々私を苛んだくせに、こんなことになってから口にするなんて、やっぱり彼は性格が悪い。


「僕は、君と同じ場所へはいけないだろうな」


 彼はゆらりと立ち上がると、しんしんと雪の降り積もる外に窓を開け放ってつぶやいた。牡丹のような雪が、彼の高い鼻梁に触れては溶けていく。


「誰にもやりたくなかった、本当に、それだけだ。病ませるつもりもなかった。いつまでも、君だけは健やかに生きていて欲しかったのに」


 後悔にしかならない言葉を紡いで、彼は銀世界を見下ろした。


 いつか、彼と雪遊びをした銀の雪。寄り添い合えば、凍てつく雪の季節も寒くはないのだと知った幼いあの冬の日々。


「ギルベルト……」


 彼には届かぬ声で、そっと名前を呼ぶ。ざあ、と大気が揺れ動いて、彼の灰色の髪を靡かせた。


 そうして彼はゆっくりと、窓から身を乗り出した。ここはずいぶんと高いから、飛び降りればまず助からない。きっと、私と同じ末路になる。


「ギルベルト……! やめて!」


 あいにくだが、私は君を連れて行ってやるほど優しくない。それほど君に焦がれてもいない。私の後追いなんて、側から見れば悲恋のような真似をして、君の人生を綺麗なまま終わらせて欲しくない。


「死なないでちょうだい」


 届かない声で語りかけながら、そっと彼と距離を詰める。しんしんと降り積もる雪が、不気味なくらいに清廉だった。


「ここで死んだら、二度と口をきいてあげないんだから」


 可愛くない脅しも、すこしも通じない。彼は静かに瞼を閉じて、私の冥福を祈る言葉を唱えていた。


 君は、どこまでいっても愚か者だ。そんなふうに祈るくらいなら、初めから私を閉じ込めなければよかったのに。


「ギル……!」


 かつての愛称を口にして、半透明の手で身を乗り出した彼の肩を掴む。指先は、虚しくすり抜けていくばかりだ。


「ジゼル、愛している」


「……私は大嫌いよ、ギルのことなんて」


 そう告げて、私はそっと彼に唇を重ねた。


 ほのかな風を呼び起こし、雪を舞いあげながら、死者にふさわしい氷のようなくちづけをする。


 思えば、私から彼にくちづけたのはこれが初めてかもしれない。


 いつからか、唇を重ねることは別に嫌ではなくなっていたのに、私は頑なだった。嫌いでいるふりをすることでしか、君と向き合う術を知らなかった。


 心底君を嫌っていたならば、この小さな光も生まれなかった。流されるような形だったとしても、君と、夜を重ねることはしなかった。


 小さな光をそっと胸に抱きしめ、一粒の涙をこぼす。


 私から、生まれるはずだった新しい未来。私が死んでしまったばかりに、この世に溢れるすてきなものを何一つ見せられなかった。


 もしも気づいていたのなら、私たちはきっと変わっていたはずだ。この小さな命を慈しむために、向き合うことができたはずだ。


「……ジゼル?」


 彼が、戸惑うように金の瞳を揺らがせる。たったそれだけだけれども、初めて彼が「私」を見てくれたような気がした。


「ジゼル!」


 どうやら、私のいちどきりのくちづけは十分役目を果たしたらしい。思わず勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、まっすぐに彼と向き合った。


「……もしも」


 そっと、彼の手に半透明の指先を重ね、金の瞳を見据える。


「もしも、来世があるのなら……」


 小さな光が、名残惜しいとでも叫ぶように私たちの間を舞っていた。


 決して、二度とは生まれない光。もしもこの光が生を受けていたら、私たちには想像もつかない未来が待ち構えていただろう。それはきっと春のように暖かで、優しい日々だったに違いない。


 ぽたぽたと幽霊の涙が雪に溶けていく。感覚などなくとも、ぎゅっと、指先を絡めるように彼の手を固く握った。


「また、巡り会うことがあればそのときは、きっと籠の外の空の下で。……次こそ一緒に、幸せになるのよ」


 これは、私から君へ送る誓いの言葉であり、遺言だ。


 たぶん、私たちはまたきっと出会える。


 今度は、明るい空の下で笑いあう幸せな恋人として。


「愛している、とは、今生ではとても言えないけれど……それでも、嫌いじゃなかったのよ」


 すくなくとも、君との間に生まれた命に、無償の愛を注ぐくらいには。そのくらいには、君のことも嫌いじゃなかった。嫌いじゃなくなった。爛れて歪み切った、この三年間のうちに。


「さようなら」


 さようなら、私の、大好きになるはずだったひと。


 さようなら、私と君の、大切なあの子。生まれなかった小さな命。

 

 ざあ、と大きな風が吹き抜ける。雪が舞い上がって、彼と私を隔絶した。


 目を開けば、白い世界に私と小さな光だけが残されていた。


 彼の姿はもう見えないけれど、きっと、思いとどまってくれたはずだ。ある種の確信を抱きながら、ちらちらと舞う光を指先でくすぐる。


「さて、あなたに名前をつけてあげましょうか」


 指先から伝わる鼓動を愛おしく思いながら、頬を緩ませる。


「性別はよくわからないけれど、アステル、って名前はどう? 星って意味よ。あなたのお父さまが弾いてた曲も、お星さまにまつわるものなのよ」


 彼とふたりで歌った旋律を思い出して、すこしだけ胸が切なくなる。あの日々は、どうあってももう、二度と戻らないのだ。


 小さな光は、気に入ったと言わんばかりにくるくると私の周りを回った。無邪気なその様子が可愛らしくて、思わずくすくすと笑ってしまう。


「ふふ、気に入ったようでよかった。……生まれる前に、お星さまにしちゃってごめんなさい。せめて、私と一緒に行きましょうね」


 手を繋ぐように小さな光を受け止めて、雪の降りしきる道を歩く。


 遠くには、雪解け水の湖が、金と銀の星空を映し出していた。

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籠の鳥の遺言 染井由乃 @Yoshino02

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