クロック・タイム・マネー

東雲一

時の商売人

 お金があれば、何でも手に入る。何でも思い通りにできる。地位も、名誉も、幸せも。全部、全部、手に入るものだと思っていた。


 この日まではーー。


 妻が突然、倒れ、病院に運ばれ、なんとか、一命はとりとめた。医者に個室に呼ばれ、二人で妻の話をした。


「あなたの妻は、もって数ヶ月ぐらいしか、生きられない」


「そんな、嘘だろ!金なら、いくらでも、出す!いくらでも出すから、妻を救ってくれ、お願いだ!お願いだ!」


 俺は、医者の華奢な腕に激しく掴みかかり、目を血走らせて、頼んだ。医者は、視線を反らし、言った。


「残念だが、それは出来ない。今の医療では、あなたの妻を救う術はない」


「ふざけるな!はい、分かりましたって、納得できるわけないだろ!妻のアキエは、唯一、俺を、理解してくれた人なんだ。救ってくれ!諦めないでくれ!」


「無理だ、諦めてくれ。いくら、お金を出しても無理なものは無理だ。お金でも、どうにでもならないこともあるんだよ」


 俺は、個室から出ると、やるせなさと悲しみの波に飲まれて、血がにじみ出そうなくらい思いっきり、拳を握った。


 どうしてだ。ずっと、妻と過ごせると思っていた。なのに、どうしてだよ......君は、いっぱい、俺に幸せをくれた。俺はどうだ......何もしてやれてない。君が死にそうだっていうのに何も何もしてやれない。俺は、なんて無力なんだ。


 俺は、アキエのいる病室に寄った。すると、妻は、病室に入った俺を見て、微笑んだ。アキエの笑顔は、美しく、繊細で、愛らしかった。何度、その笑顔に救われただろう。


 彼女の命はもって数ヶ月ーー。


 医者の言葉が過る。心の中で、悲しみが蠢いたが、アキエの前で、悲しい顔は見せられない。せめて、妻の前では、笑っていたい。


「お医者さん、何て言ってた?」


「......数ヶ月もすれば、前みたいな生活に戻れるはずだ」


 俺は、嘘をついた。医者が言っていたことと全く逆だ。アキエを悲しむ姿を見たくはなかった。少しでも、彼女には幸せな時を過ごして欲しかった。


「そうなの。よかった!また、二人で、食事に行ったり、旅行に行ったりできるね」


 窓から、春の心地よい風が吹いて、アキエの長髪が靡いた。儚く切ない光景に、思わず、今までの思いが込み上がってきて止まらなくなった。彼女の前では、笑っていようと思ったけれど、無理だ。出来ない。


 俺は、頬を伝う涙をアキエに見られないように、ベッドの上の彼女を優しく抱き締めて、包み込んだ。アキエの髪を優しく撫でた。


「アキエ、頼む。今は、そのまま、俺の顔を見ないでくれ。頼む」


 感情が沸き上がってきて、堰を切ったかのように、目から涙が出てきて、俺の顔はぐしゃぐしゃになっていた。


「分かった。あなたは、嘘が下手ね。私、そんなに長くないのね」


 彼女は、抱き締められながら、優しい声で言った。


「ごめん。ごめんよ。俺じゃあ、君を救ってあげられない。ごめん、ごめん」


 しばらく、病室に、俺の声が響き渡っていた。一番、泣きたいのは、彼女のはずだ。なのに、彼女は、涙を出さず、それどころか、俺の嘆きをいつまでも聞いてくれた。


 それから、病院を出て、自宅に帰ろうと、街のなかを歩いた。


 このまま、妻が、亡くなるのを俺を待つしかないのか。なにもしないなど到底、できない。何が何でも、彼女を救い出す方法をみつけてやる。絶対にだ。


夕暮れ時、静寂に包まれた街中をあてもなく歩いていると、紫の服装をした細身の男性に一癖ある口調で話しかけられた。


「おやおや、お金の匂いが、しますね。あなた、結構なお金持ってますね。私、下道丸金子といいます。お金の匂いには、敏感でしてついつい反応してしまうんです」


「誰だ。お前は。お金に困っているのか......」


「そうです、そうです。お金を貸していただけませんかねー。お金を貸してもらえればあなたにとっていい情報を提供できますよ」


 この男は、怪し過ぎる。正直、面倒くさそうなので、あまり絡みたくはない。ここは、無視して、家に帰るとしよう。そう思い、金子を無視して、歩き始めると、金子は、すかさず話しかけてきた。


「あれれ、いいんですか。あなたの奥さんの名前、アキエさんでしたっけ。ご病気で、命が短いんじゃありませんか?」


 目の前の男が、妻のことを知っていることに、俺は、底知れない恐怖と不安を感じ、思わず足を止めた。


「なぜ、俺の妻のことを知っている?」


「私は何でもお見通しなんですよ。びっくりしましたよね。そうだ。そうだ。そんなことよりも、あなたの妻、今日の夜、お亡くなりますよ。きっと」


 俺にとって、今、最も不安に感じていて、現実に起こってほしくないことを平然と悪怯れることなく金子は言った。無神経な金子の発言に苛立ち、嫌悪感を抱かざるを得なかった。


「妻が、今日の夜、亡くなるだって。もう一回そんなふざけたことを言ってみろ。お前をただでは済まさないぞ!」


 脅迫じみた言葉を浴びせかけられた金子はまるで猛獣にでも襲われたかのようにひどく怯えた様子を見せる。先ほどの落ち着いて余裕な様子はない。


「ひぃ、ひぃぃぃぃー。暴力、反対ですよ。わ、わかりました。あなたがお望みでないなら、この場を去りましょう」


 金子は、そう言うと、足早に離れ、最後に、またあの不気味な笑顔を浮かべてこちらを振り向いた。


「きっと、あなたは、私を求めて、私にすがるようになる。その時は、よろしくお願いしますね」


 金子は、そう言い残した後、笑いながら姿を消した。


 今日の夜ーー。


 病院から、突然、電話がかかってきて、妻の容態が悪化して、かなり危ない状態だと告げられた。


 そんな......。


 手持ちの携帯を地面に落とし、画面にひびが入る。


 命を削る勢いで腕と足を動かし、病院へと駆ける。呼吸が乱れ、肺が悲鳴をあげる。苦しい。苦しくても、急がなければならない。アキエはもっと苦しい思いをしているんだ。


 アキエ、生きていてくれ。もっと、一緒にいよう。一緒に笑ったり話したりしよう。まだまだ二人でしたいことがたくさんあるんだ。数えきれないくらいたくさん。 


 胸の中を渦巻く不安に飲まれそうになりながら、ただひたすらに、突き進んだ。


 病院にたどり着くと、階段をかけあがり、アキエがいる手術室に向かった。だが、手術室のランプはすでに消えていた。


「残念ながら、手を尽くしたのですが、息を引き取られました」


 手術室の前にいた医者に淡々と妻の死を告げられた。


 妻が死んだ。そんなわけがない。嘘に決まってる。あんなに、美しくて、優しくて、暖かい心を持った人が死ぬわけがない。何かの間違いだ。


 なあ、そうだろ......間違いだよな。


 にわかに、現実を受け入れることができず、頭が混乱していた。


 個室に眠る彼女に触れる。暖かった手は、すっかり冷めきっていて、ぬくもりを感じとることが出来ない。いつだって話しかければ、優しく話返してくれたのに、今は、なにも返事がかえってこない。反応がない。


 結局、救えなかった。俺は何を君にしたあげられただろうか。何もしてあげられていない。君にもう一度、会いたい。話がしたい。


 放心状態で家に帰った。家にある、ありとあらゆるお酒を取り出しては、どばどばと体の中に、流し込んで、意識が朦朧とするまで飲んだ。それでも、彼女を失った悲しみは、癒えることはなかった。何度も何度も涙を流した。だけど、心の傷は一向にふさがることはなかった。苛立ちが渦巻いて、髪をかきむしる。部屋のなかは、お酒の瓶が散乱し、鼻を刺すような強烈な異臭が漂う。


 いっそのこと、彼女と同じところに行ってしまいたい。そしたら、今よりずっと楽だ。


 吸い寄せられるように、踏切まで来ていた。踏切が、音を響かせると、左奥から夜の暗闇を照らしながら、電車が迫ってきた。


 ここから、遮断機を越えて、線路がある方へ行けば、死ねる。命をたつことが出来るんだ。俺は、魂が抜けたようにふらふらした状態で、まっすぐ、踏切のなかへ近づいていく。 


「また、会いましたね。こんなところで何してるんですか。まさか、自殺ですか。いいですよ。構わず続けてください」


 俺は、虚ろな目で、声をした方を見ると、不気味な笑顔を浮かべた金子が立っていた。踏切の方ばかりを見ていたから、金子が近づいていることに気づかなかった。


 この男に構ってる暇などない。俺は彼女のもとに行くんだ。そのために、ここに来たのだから。


 金子から目線を反らし再び踏切に向かおうとしたが、電車が激しい音とともに風を切るように走り過ぎ去ってしまった。


「あれ、すみません。自殺し損ねましたね」


 無気力になっていた俺は、素っ気なく答えた。


「なんのようだ」


「あなたの妻ともう一度会いたいですか?」


 金子の言葉に、押さえ込んでいた感情がぶくぶくと溢れ出て、心が瞬く間に黒く染め上げる。頭を抱えて、目を大きく見開くと、狂ったように嘆き叫んだ。


「や、やめてくれ!妻のことを言うな!妻は、今日、死んだんだ。会いたいさ、でも、もう会えないだよ。もう、彼女の笑顔を見ることさえできないんだよ」


「会えますよ。お金さえいただければ、彼女が生きていた時間まで巻き戻してあげますよ。そうですね、時を戻すのに一千万でどうです?」


「もうどうだっていい。1千万円がほしいのか。そんなものくれてやる。ほら、小切手だ。それで気が済んだだろう。ささっと去ってくれ」


 小切手に金額を書いて、金子に渡した。すると、喜びに満ちた様子で、華麗に踊り始めた。


「承りましたよ。それじゃあ、はじめましょう!クロックタイムです!」


 金子が、一周、体を回転させ、踊りを終えると、懐中時計を取り出すと、時計の針を動かし始めた。


「しばらく、お別れですね。また、今日、会いましょう。そうそう、いい忘れてましたが、時間は戻ってもお金は戻りませんから、あしからず」


 そう言って、金子が懐中時計の針を回し終えると、音がした。


 カチッ、カチッ、カチャッ。


 ※※※


「おはよう」


 聞き覚えのある暖かい声がした。この声は、まさか......いや、間違いようがなかった。何度も、耳にして、この声に、救われてきた。


 さっと、振り向くと、病室のベッドに眠るアキエが、こちらを優しく微笑んでいた。


 何が起こったというのだろう。俺は、踏切の金子と近くにいたはずだ。なのに、突然、病院にいるし、亡くなったはずの妻が生きている。あの金子という男、本当に時を戻すことができるのか。


 もう、そんなことはどうでもいい。彼女に会えただけで十分だ。


「アキエ」


 思わず、妻の名前が口からこぼれた。ベッドの上にいる彼女のところまで行き、抱き締めた。


「な、何!?いきなり、抱きついたりして」


「会いたかった。君に会いたかったんだ。こうして、また、会えるなんて思わなかった。話せるなんて思わなかった」


「そんな大袈裟ね。まだ、元気だから、大丈夫よ」


「そうか。そうだよな。元気なんだよな」


 悪夢を見ていたのかもしれない。そうだ。あれは、悪夢だ。悪夢に違いない。この世に、あんな恐ろしい出来事があってたまるものか。


「そういえば、お医者さんがあなたを呼んでいたわよ」


「何だって......アキエ、今日は、何月何日だ?」


 胸を抉られるような嫌な予感が全身を駆け抜け、直感的に、俺はアキエに、聞いていた。


「二月二十九日だけど、それがどうしたの?」


 それを聞いて、さらに嫌な予感がして動揺した。二月二十九日は、夜に、アキエが息を引き取った日だ。朝に、同じように、医者に呼ばれた。まさか、同じことが繰り返されるのではないのか。


「ちょっと、医者のところに行ってくる」


 俺は個室で医者と話をして、分かった。やはり、予感は的中した。あの日、聞いた話と全く同じ内容を聞かされた。このままでは、また、同じことが夜に起こってしまう。嫌だ。それだけは嫌だ。あんな悪夢二度と見たくはない。


 ふと、不気味な笑みを浮かべた金子が頭を過った。金子を、いち早く探さなければならない。あいつなら、お金を渡せば、時を戻してくれる。


 思い当たる所を探した。初めて会った場所、踏切。だが、いずれにも、見つけ出すことはできなかった。


 そうこうしているうちに、橋の上を歩いていると、携帯が鳴り始めた。来た。ついに来てしまった。地獄への招待状。震え出す手で、携帯に出る。


 案の定、電話は病院からだった。前に聞いた内容そのままだ。俺は、手に力が入らなくなり、携帯を落とした。


「まただ。やはり、アキエの病状が急に悪化した。このままでは、このままでは、彼女は」


 すると、橋に、革靴の音が鳴り響き、欲望にまみれた声が聞こえた。


「嘆いてますね。嘆いてますね。私の出番ですね」


 タイミングよく金子が現れ、俺に話しかけてきた。相変わらず、不気味な笑顔を浮かべ、紫の服を着ていた。


「金子!頼む、頼む!妻を助けてくれ。時を戻してくれ。金ならいくらでも払う」


「いいですよ。いいですよ。私はお金の奴隷なんです。金さえ払っていただけば、何でもしますよ。三千万でどうです。三千万あれば、今度は、あなたの奥さんの寿命を一日伸ばしましょう」


「お願いします」


 俺は、金子にすがりつき、懇願した。金子は、その様子を見てほくそ笑み言った。


「よく言えました」


 カチッ、カチッ、カチャッ。


 ※※※


「おはよう」


 いつもと変わらない妻の声がした。愛らしくいとおしい、その声を聞くだけで、黒く染まった心を一瞬に透き通らせてくれる。俺は、いくら真っ黒に染まったっていい。アキエが、アキエだけが、この理不尽な世界で真っ白で美しく清くいてくれたなら、それだけでいい。そのためなら、いくらだって黒く染まってやる。


「おはよう、アキエ。また、会えた」


「会えて良かったわ。昨日、病状が悪化して、死ぬんじゃないかと思ったわ」


「ああ、本当に良かった。君は生きてる。いつまでも、一緒にいよう」


 アキエの手を優しく握った。暖かみを感じた。彼女が生きているのだと、実感できた。あの冷たくなった手に触れるのはもう嫌だ。


「今日は、お仕事ね」


「ああ、この後、会社に行ってくるよ」


「いつもお疲れ様」


「ありがとう」


 アキエは生きていた。本来なら、彼女は昨日の晩、亡くなっていた。金さえあれば、彼女と一緒にいられる。その事実だけで、頑張れる。


 数十年前。まだ、アキエに会っていない時、俺は、世界的な大不況の波に飲まれて職を失った。一文無しになり、目の輝きを失った俺は、街の中でうずくまっていた時だった。


「大丈夫ですか?」


 アキエに話しかけられたんだ。その時の笑顔に救われたんだ。彼女こそが、俺の生きる意味だと思えた。彼女と一緒なら、何でも乗り越えられる。そう思ったんだ。


 それから、競争は激しいが、今後需要が見込めるITの会社を起業した。幸いなことに、事業は成功し、多額のお金が入るようになった。金。金。金。経営者になってから、ずっと会社とお金のことばかり考えていた気がする。アキエが倒れるまでは。


 会社に行く途中、携帯が鳴った。なんだろうかと、電話に出ると、焦った声が耳をつんざく。


「大変です!社長、監査で、不正会計が見つかりました」


「なんだと」


「ど、どうしましょう」


「急いで会社に行く」


 突然の出来事だった。どうしてこう、不幸は立て続けに、起こるのだろうか。世界は、不幸な人間をさらにいたぶるのが好きらしい。


 結局、不正会計を公表することにした。変に隠すよりは、公表してしまった方がいい。しかし、会社の信頼は、失われ、一気に経営が傾き始めた。ただでさえ、競争が激しい業界だ。信頼を失えば、致命傷になった。


 ーーー


 数ヶ月後。


 経営していたIT会社が、倒産した。他社の競争に負け、商品が売れなくなったからだ。完全に収入がたたれた。


 お金が逃げていく。俺には、金が必要なんだ。アキエの寿命を伸ばすために、ずっと3千万円を払い続けていた。口座の残高は、みるみるうちに減っていった。


 お金が払えなければ、妻が死んでしまう。自分はどうだっていい。妻だけが、君だけが生きていれば、それだけでいい。


 そう思って、今までやって来た。でも、もう限界が見えてきた。


 今日、三千万円を使えば


 残りは、二千万円。


 明日は、寿命の延長が使えない。


 君が命を失う、その日が来たら


 君と一緒に死のう。


 カチッ、カチッ、カチャッ。


 ※※※


「おはよう」


 今日も、妻の声がした。この瞬間だけが、俺にとっての、唯一の楽しみになっていた。



「おはよう」



 元気のない声に、アキエは、心配そうに言った。



「大丈夫?日に日に、疲れた顔をしてる。悩み事があるなら、言って。何でも力になるから」


 


 苦しむのは、俺だけでいい。俺は、悩みを打ち明けることができなかった。



「大丈夫だ......。心配しないでくれ......」



 すると、めったに怒らないアキエが、強い口調で言った。



「本当のこと、言ってよ!あなたが、どんどん疲れた顔をして、限界に近づいているのを気づかないとでも思った?気づかないわけないじゃない!ずっと、あなたを一番そばで見てきた。 私は、あなたのお荷物なの。そんなことない。女だからってなめないでよ。私も、あなたの力になれる。二人なら、どんな困難だって乗り越えられるはずよ!」



 こんなにも、感情的になるアキエは、初めて見た。思わず吃驚してしまった。彼女にこんなにも心配をかけさせていたとは知らなかった。



「アキエ、君は、俺のことをずっと見ていてくれたんだね。だが、俺の話を信じられるかどうか......」



 言うか言うまいか、迷っていると、彼女の力強い声が聞こえた。



「いいから、話して!あなたの話を信じない訳ないじゃない!」



 彼女の力強い一言に、抑えてきた感情がどっと溢れて、涙が頬を伝う。ずっと、彼女に心配かけたくないから、彼女の前では、大丈夫なふりをしていた。涙を流す俺の右手をアキエは、両手で優しく握ってくれた。


「大丈夫、話して」


 アキエは、俺のことを気遣って、声をかけた。



「分かったよ。話そう 」


 俺は、涙をぬぐうと言った。


 俺は、今までの経緯と今ある情報について、一から説明した。にわかには、信じられないない話だ。だが、アキエは、俺のことを信じて最後まで聞いてくれた。


「なるほど、私は、今日の晩、病状が悪化して死ぬのね」


 彼女にとって、受け入れがたい事実だ。それでも、受け入れてくれた。


「ああ、二千万円しかない。寿命を延長するには、三千万円必要なんだ。一千万円足りない」 


「他に手段はないの?話に出てきた時戻しなら一千万円で行けるんでしょ」


「その通りだ。だが、時戻しでも、一時しのぎにしかならない。すぐに、所持金がゼロになって、時戻しすら、できなくなる。それに、時戻しすると、全てが戻ってしまうんだ。俺のお金を除いて」


「そうなの」


「いや、待てよ......戻らないのは本当にお金だけか」


「どうしたの?」


 アキエが問いかけた後、いい考えが、突然、浮かんだ。


「そうだ!なんで、こんなことに気が付かなかったんだろう。この方法なら、負の連鎖をたちきることができるかもしれない」


 俺は、自分の考えを妻と話した。ようやく、希望の光が差し込んできた気がした。


 ーーー


 夜中、風が吹き抜けるビルの屋上で、金子の声が響く。


「いよいよ、先がなくなってきました。あなたの所持金は二千万円、分かっているとは、思いますが、寿命の延長は使えませんよ。いよいよ、あなたの妻も、お亡くなりですか」


 人を嘲笑うような声にも、俺は動じず言った。


「いや、今回は、寿命の延長は使わない。時戻しで頼む」


「ほほう、そう来ましたか。この際、言いますが、私は人の不幸を見るのが大好きなんです。あなた方が、絶望するところを、今日見れると思ったのに残念、残念。時戻しといっても、一時しのぎにしか、なりませんよ、お二人の......」


 長々と、話をする金子を、遮るように叫んだ。


「黙れーー!!この豚野郎。四の五の言わず、ささっとやれーー!!前にお金の奴隷だとか言ったよな。お金を払えば、なんでもしてくれるんだろ。お金は払う、ささっと時を戻せ!」


「なっ!?豚野郎ですって。なんて失礼な。あなた、今日は、随分と威勢がいいみたいですね!」


「もう一人じゃない!彼女がいる!」


「ふん、いいでしょう。時を戻しましょう。次で最後ですね」


 そう言うと、金子は、高笑いをした。次が最終決戦だ。


 カチッ、カチッ、カチャッ。


※※※


「おはよう」


 彼女が、優しく声をかけてくる。幾度となく、聞いてきた彼女の言葉。その一言だけで、元気になって前に踏み出そうとする気持ちになるんだ。


「おはよう、アキエ」


「今日は、なんだかいつもと違って、逞しく見えるわ」


 そうだ。彼女は、時戻しを使ってるから、俺と話した記憶がなくなっているんだ。


「そうかな。今日、どうしても、やっておかないといけないことがあるんだ」


 アキエと、ゆっくり話をした。あえて、今日、何をするのかは、話さなかった。


 今日で負の連鎖をたちきる。あの男に、俺たちの人生を翻弄されるのは、今日で終わりにする。


 俺が、病室を出る際、アキエが、言った。


「頑張ってね」


「ああ」


 そう言うと、病院を出て目的の場所に向かった。


 ーーー


 夜中、前回と同じビルの屋上で金子と会った。今日は、風が強く、風の通り過ぎる音が響いた。


「ついにこの時間が来ましたね。今日で残高は、ゼロです。楽しみですね。でっ、今日はもちろん、時戻しをお望みですね」


「いや、寿命の延長で頼む」


「な、何を言ってるんですか。冗談は止めてください。あなた、一千万円しか、持ってないでしょ。寿命の延長には三千万円かかるんですよ」


「三千万円なら、ここにある」


 俺は、アタッシュケースを金子に渡した。


「まさか、そんなはずがない。偽札だ、偽札に決まってる」


「中身を確かめて見ろ。全部、本物だ」


 金子は、アタッシュケースを開け、中にある紙幣をひとつずつ確かめる。


「うーん、全部、本物だ。どうして、これほどの大金を......」


 実は、俺は、アキエとの会話の中で、あることに気づいた。時戻しをしても、お金の他に、自分自身の記憶もまた戻っていないことに。


 俺は、すぐさま、時戻しをする直前まで、アキエと一緒に、競馬や、競輪などの結果を覚えた。そして、今朝、アキエと別れた後、一千万円を全て賭けに行き、お金を増やすことができたのだ。


「さあ、お金は払った。寿命の延長をしてくれ」 


 俺が、そういった直後、屋上に凄まじい勢いで風が吹き抜け、大量の紙幣が風で吹き飛ばされていく。


「わ、わたしのお金が......」


 金子は、俺はそっちのけで、紙幣にあわてて、取りに行く。


「おい、そっちは危ないぞ!」


 お金にとらわれた金子は、屋上の柵に上り、お金に手を伸ばす。


 その時だったーー。


 突風が吹き、金子はバランスを崩すと、ビルからまっ逆さまに落ちた。


 俺は、あわててビルから落ちた金子を見ると、奇妙な光景を目にした。金子の身体が、砂になっていく。


 あの男は、人間ではなかったのか......。


 金子だけでなく、懐中時計も消えていく。あれがなければ、寿命の延長ができない。取りに行こうと思ったが、その前に時計は、完全に消えてなくなってしまった。 


 ああ、どうしよう。彼女が、今日、死んでしまう。


 タイミングよく、携帯が鳴った。いつもの電話だ。彼女の病状が悪化したことを告げられるのか。


「なぜか分かりませんが、奥さんの病気が回復に向かっています」


 医者からの思いもよらない言葉に全てを察した。妻の病気は、あの男が原因だったのだ。


「なんとか無事に終わった......」


 俺は、全身の力が抜け、壁にもたれた。


 やったよ。アキエ。二人の力で、世界の理不尽に打ち勝ったんだ。


 夜の闇に包まれていた街に、山から日が上り、朝日が差し込む。


 行こう、彼女のもとへ。


 俺は、いつものように、病室の扉を開けた。すると、彼女は優しい笑みを浮かべて言った。


 おはよう。


 

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