第20話

「あ、ミスったぁ。ごめんね」


黒い液体がシーツの上にポタリと落ちた。

その女が肘関節に刺さった太い針を左右に振ると、血液が垂れるのをそのままに、寝たきりの患者の顔が苦悶でゆがんだ。

無精ひげに白髪が混ざり、粉をふいた瞼の周りには目ヤニがついて、もう何日も顔を拭いてもらっていない。

女はほくそ笑みながら、もう一度針を別の血管に刺した。


「血管の細い人は大変なのよ、あ、また間違えた。駄目ね、また明日」


男の皮膚にはいたるところに、青い痣が残っていた。こうして何度も針を刺され、刺されては血管をつぶされ、そのたびに苦悶の皺が刻まれた。

彼だけが、、そう彼だけが、採血用とは別の、図太い針で何度も皮膚に穴をあけられていた。

腕だけではない。

見えない所にはそれこそ無数に。

背中にも、大腿にも、ふくら脛にも、踵にも、頭皮にも、致命傷を与えない程度に、残酷な針の跡が残っていた。


乾いた頬に向かって、涙が流れた。痛みに耐えかねて、幼子のように泣きだしていた。せいぜい甲高い嗚咽が、助けを求めるように部屋の天井に向かって微かに広がるくらいだ。耳は聞こえるが言葉が出ない。大学病院の担当医が、脳の損傷部を指して研修医にそう説明していた。


4人部屋には、彼と同じように寝たきりの人間がすやすやと眠っていた。鼻に管を通され、ゴロゴロと唾液が喉の奥にたまる音が四六時中、鳴っている。

ここに来て、2年、カーテンは閉じられ、入院して以来、太陽を見たことがない。うす暗い病室の風景にはまるで変化がない。変わったものといえば蛍光灯が古くなって、時折忘れたようにチラつくくらいだった。光の周りにはどこから忍び込んだのか、カゲロウの数匹が舞い、やがて白いシーツの上に力尽きて落ちてくる。ベット柵の周りに虫の死骸が点々と置き去りにされ、なぜか彼のところだけがそうやって汚いままだ。


誰も彼の立場を気にしなかった。食べる力以外に残されていない口や喉を使って必死に助けを呼ぼうとしたが、言葉そのものが頭に上らず、やはりその口も、喉も彼の命の叫びを聞く様子がない。


「Sさん、あの患者さん、お父さんの依頼だったからお受けしたけど」


中年のでっぷりした女が声をかけた。


「もとは有名な精神科のお医者様だったようね」

「ドクターとは聞いてましたけど」


Sはステーションの丸テーブルに散らかった、患者の名前が打たれた紫とオレンジのスピッツを丁寧に鉄柵に並べていた。太った女の声を聞き流し、今度はスピッツの名前と番号を順序良く確認していた。


「もうちょっとましな病院があったはずよね、よりによってこんな…あら、院長先生、おはようございます」

太った方は口をすぼめ、さっと立ち上がり、深く首をたれた。

「どうかな?」

「はい、今、定期採血が終わって、でもMさん、相変わらず血管がとりにくいみたいで」

「まあ、のんびりいこうや」


髪は黒いが、曲がった背中が年を伝えるその男は、気にすることもなく、電子カルテの前に座った。

「さて、さて、」


彼は不器用にキーボードを叩いて、リターンキーをつよく、トンと鳴らした。そして誰それに遠慮なく、大きな欠伸をした。

古いパソコンは前任の院長が導入して以来、バージョンはかわらず、モニターの四隅には年期の入ったほこりが堆積していた。


「ところで、Sさん、お父さんは元気かね」

彼女はにっこり笑って、

「はい、あいかわらずお酒が好きで」

「ふむ、彼はもうすぐ退官じゃろ、前に会ったときは、うむ、確か中性脂肪がどうの」

「ええ、とうとう堪忍して、薬、のんでるみたいです」

「次の法医学教授は誰じゃろうなぁ、お父さんみたいに優秀な後輩はなかなかおらんからなぁ」

「院長先生、たまには父にお付き合いください」

「いやぁ、わしなぞ。大学を退官して15年になるし、おいぼれと酒を酌み交わしてものう。それにこんな病院…大学から天下って、お情けで雇ってもらってはいるが、いつ解雇されるかもわからん、いまのうちに稼がないと」

老人の背後で、太った女はなにか言いたげだったが、口をもぞもぞするだけであきらめたように離れていった。


年寄のくせに性欲が衰えず、若い看護師が来るたび、色目を使うことで有名な男だった。経営者である理事長からは注意するように申し渡されていた。


「頭の定期検査もあったな、」


男は面倒くさそうに、マウスをクリックした。

「患者の、Mセンセイの、、えーっと。画像、アレ、2年もとってない。前のは、えっと…ひょっとしてまだ取り込んでなかったかな」

「お持ちします」

Sは甲斐甲斐しく、世話焼きの女を演じ、ラックからフィルムを取り出した。

「ありがとう。おう、そうじゃった。前頭葉の損傷がひどい。頚髄も、こりゃ、またひどい。ほれ、君も見なさい」


そうやって老人はSの瞳に視線を定め、キャスター椅子を近づけた。

Sは父親の所属する大学病院で撮影された、それをかつて食い入るように眺めたことを思い出した。老人の前では初めて見たふりをして、貧弱な知識を誉めそやすために何度も頷いてあげた。

優秀で誰からも愛された兄。医師になることを拒んで、母校の教師となり、教育者として夢見た人生。

どうして…

復讐はまだ終わっていない。

あの、ねたきりを…

許してはいけない。

いたぶり、貶め、たとえ命乞いをしても、許してはいけない。


Sは画像を眺めつつ、講釈をうっすら遮って、胸の内にこもる誓いを反芻した。

すべての人が安堵するまで。


「Sさん、電話。外線はいってるわよ」


演説の途中で、肥満体が遮るように呼んだ。

「あ、はぁい。先生、失礼します」


演説を中断された老人は、不満げに肥満体をにらんだ。皺枯れた手がすんでのところで、若い女の膝に触れるところだった。

Sは明るい声で受話器をとった。


「お待たせしました。はい…かまいません、皆さまおいでください。お母さまも…いえ、どうぞ、ご兄弟もお連れください。人数が多い方が。以前お話したように…すべてのご家族に連絡しています。ええ、罰を…小学校でよく使う彫刻刀…そういうご家族もいました…」


受話器の横で古株が視野に入ると、彼女は切り立った明るい表情に戻った。

「……M先生、とてもお喜びになると思います…」



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Mの殺意 おっさん @tz893cs2

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