肘木藻屑

 私にはもう平静を取り繕うことが難しくなってきた。恐怖が私の手を引いて、孤独へと誘っている。もはや目にすることすら叶わないと覚悟した家族、故郷の人々、手に入れたはずの自由と名声が、私の背中を押して崖へと突き落とそうとしている!


――――――――――――――


 私は初めてその壁を見たとき、これまでに無い焦りを感じた。それは人間の根底から来る恐怖に似ていた。それが私の周囲を徐々に取り囲んで、逃げ場のない袋小路に追い込もうとしているように感じたのだ。


 しかも、私は壁を作っていた。私自身を閉じ込めるための監獄を作り、私自身が私を見張る看守であり、監獄は私と親しい人々とを一つ所に閉じ込める事によって、最後には私を永遠に孤独にした。


 殆どの人々が私を知ることになったあの日、焦りは最高潮に達していた。逃げ出すための条件がぴったりとそろって私の前に提示されていたのだ。失われつつある自由が私の目の前にぶら下がっていた。


「今しかない!今しかない!」


 心臓が早鐘を打ってチャンスの到来を知らせていた。


 私は逃げ出した。自由のために壁を飛び越えた。結局それが正しかったのか、私にはわからない。


 壁の向こう側では男がカメラを構えていて、私が壁を飛び越えたことを大々的に宣伝し、私はその日の内に有名になった。しかし、そのことが私に幸福をもたらしたことは、今日まで唯の一度も無かった。


 私は壁の向こう側の人々の報復を恐れ始めた。今も恐れている。夜に一人で外を歩くことができなかった。無数に届く講演の依頼もすべて断った。それなのに、私は孤独にはなれなかった。

 私は最初に壁を飛び越えた。自由を希求し、壁の向こうの人々に希望を与えた英雄。


 しかし、私は恐怖している。今も私に向けられる好奇の視線のどこかに、私の存在を抹消しようとする何者かの気配を常に感じずにはいられない。自由を求めたはずだったのに。私は私自身という看守までも壁のこちら側へと連れてきてしまった。


 今や壁など無くなったのだ。にも関わらず、私の恐怖はむしろ膨れ上がっている。私のことを恨んでいた人々が、壁から解放された。私を殺しに来る……


 私は、崖から身を投げるのではなく、陸で暮らすでもなく、自由という大海に少しずつ身を浸していき、私自身を孤独という監獄に閉じ込めている。


 近い将来、私は真の自由を得るだろう。恐怖と孤独のない、自由な世界……


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 魂が泣くとき……

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肘木藻屑 @narco64

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