傘の中

たぴ岡

傘の中

 ――ねえ、知ってた? 傘の中ではいつもよりよく相手の声が聞こえるんだってさ。

 いつかの雨の日に、彼はそんなことを言っていた気がする。

 傘の中では、ってことはつまり、それっていわゆる相合傘をしないといけないということ。恥ずかしがり屋の私には、そんなこと一度もできたことがなかった。

 彼はいつも傘を差し出して「入りな?」なんて言ってきたのだけれど、当然断っていた。いつだって折り畳み傘を持ち歩いていたし、持っているのにそれを使わずわざわざ彼の傘に入るなんてバカバカしいと思っていたから。

 ――なぁんだ、つまんないの。

 私が断れば、すぐに彼はそんな風に口を尖らせていたのを覚えている。何とも言えないその顔がとても愛おしくて、それが見たくて断っていたところもあるのかもしれない。やっぱり雨の日の彼は好きだなぁ、なんていつもそう思っていた。

 私が好きだったのはあくまでも「雨の日の彼」であって、雨自体は嫌いだった。ジメジメして髪の毛も思うようにまとまらないし、低気圧で頭痛に悩まされるし、それに傘なんてさしたところでどこかは確実に濡れるし。どうしても好きにはなれなかった。けれど彼はそんな雨を好きだと言った。私の言葉は否定しないで「そうだね」と頷いてくれていた。

 ――でもさ、ほら、耳を澄ましてみてよ。

 彼は目を閉じてそう言った。バタバタと雨粒が窓にぶつかる音が響く。真っ白な中に青が少しずつ垂れて、滲んでいく。美しくもどこか儚い、それでいてずっと見ていたくなるような風景。瞼の裏に浮かぶのはそんな絵画で、でも目を開けてみればそんなものはやっぱり幻想で。

 彼の言いたいことは少し理解できたつもりだったけど、素直にそうは言えなかった。振り向いたときの彼の笑顔が眩しくて、彼の言葉を否定する気にもとてもなれなかった。大好きな彼の笑顔はいつだって綺麗なままであって欲しかったから。

 ――ね、楽しいでしょ?

 彼は微笑んだ。あれが私の記憶に残った最後の彼の笑顔だった。

 あれ以来、彼には会えていない。いや、会えなくなってしまった。どれだけ願っても、夢で抱き締めても、本当の私の腕の中には彼は存在しない。だってきっと、彼はここにいるのだろうから。

 私は傘をさして、濡れた地面につかないようにしゃがみ込む。そして彼に語りかける。

「ねえ、傘の中だけどさ、どうかな。私の声、よく聞こえてる?」

 手を伸ばして彼に触れる。まるで体温なんて感じなくて、優しさも柔らかさもない。あの頃の彼の欠片なんてひとつもない。悲しさも感じられないくらい、それくらいの冷たさ。ただ息苦しさだけが胸を締め付ける。

「どうして返事してくれないの……好きだよ、ねえ、大好きなんだよ」

 私は涙をこらえながら言う。彼に届くと信じて。

 けれど伝わったかどうかは、私にはわからない。どうしようもない。

「ねえってば……」

 傘の中には、彼と私のふたりだけ。未だ彼を信じている私と、ただの石になってしまった彼の、ふたりだけ。

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傘の中 たぴ岡 @milk_tea_oka

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