第2話
数か月前の私のお酒の大失敗というのは、昨年末の職場の忘年会の帰りのことだ。
普段なら送迎を買って出てくれる男性もその日は飲み会があり、先に終わった方が 彼のマンションで待つことになっていた。
ビンゴ大会で高級タルト屋の5千円のギフトカードを当て上機嫌な私は、親しい数人との2次会に参加し(実は忘年会が始まる前に同じメンバーと、チャージ料もかからない安い焼き鳥屋ですでに0次会というものをしていた)。
「今から亨一くんのマンションに行っているね。私の方が早いかな」
自宅とは反対方向の地下鉄に乗り、彼へメールを送る。
後から知ったことだが、ご機嫌な酔っぱらいは、いい歳をして地下鉄の中ひとり、はなうたをうたっていたという。
地下鉄を降りたところで、男性から声をかけられた。全くの見たままであろう、
「ずいぶんご機嫌ですね」
気が大きくなっている私は惜しみなく笑顔を返したそうだ。
もともと普段から誰にでもいい顔をする八方美人なのだ。
「一杯飲んでいきませんか?」
返信のない亨一を、面白くもない彼の部屋で飲みながら待つのはつまらないなと思っていたところだった。
ちょうど、最寄り駅を降りてすぐ、亨一のマンションとの間にできた立ち飲み屋が気になってもいた。
ちなみにこのとき声をかけてきた男性はとてもいい人で、その立ち飲み屋でべろんべろんになった私の分も多めに支払いを置いていき、方向が同じだという安牌な感じの男性に私を送り届けることを約束して帰っていったそうな。
その後も度々店に顔を出しては、私の話を肴にして一杯やっていくそうだが、何故か私と彼とが会うことはなかった。
問題は、その安牌な感じの彼の自宅に私が寄ってしまったことだ。
帰りの道すがら、たがだか数分の間にいい感じになってしまい、彼の自宅で映画を観ようと盛り上がってしまったのだ。
だがしかし、彼のアパートに入るなり、ふと今日は鞄の中に全財産が入っていることを急に思い出したのだ。その日は年末のボーナスの支給日で、お金の振り分けのため全ての通帳とキャッシュカードを持ってきていたのだ。
殺されるかも知れない………犯されるくらいは何ともないが、殺されたり、監禁されたりするかも知れないという恐怖で凍りつく頃には、安牌なはずの男性が私の上着をハンガーにかけてくれているところだった。
気取られては、いけない………逃げるチャンスを見つけるのだ。
映画で学んだ知識をここで活かすのだ。
そしてまさにちょうどそこで、彼は自分の腹をさすり出したのだ。
「何だかお腹の調子が悪くて」
そして、テレビをつけ、私の分の飲み物を用意してからトイレへ入った。
絶対口など付けるものかとグラスをにらみ、いそいそ動き回る安牌に、早くトイレへ行けと念じていると、そのときがきたのだ。
私は一目散に部屋を出た。
手間のかかるブーツは端から諦めるつもりだったので裸足で、荷物はちょうどトイレの近くにあったことと、後で誰かと取りにくればいい、とにかく命が大事だ……と、これもまた諦めた。
今まで観てきた映画や小説を教訓にすれば、ここでもたついてしまうと取り返しのつかないことになると決まっているのだ。調子が悪いと腹をさする安牌の仕草さえ私を試す演技と疑っていた。
ドアを開け、振り返らず一目散に走った。
しかし棟と道との間にはフェンスがあり、一向に公道に出られない。まるで悪い夢のようだった。
フェンスの高さは私の背丈よりやや高い程度だったので、おそらく防犯用であろうそれによじ登る。
そして何とかフェンスを乗り越えた酔っぱらいは着地に失敗し、しこたま顔をコンクリートに打ちつけた。ふらふらする頭と同じようにふらふらと、しかしできる限りの早歩きで亨一のマンションを目指す。
途中前方から買い物袋を提げた男性がこちらに目をやりぎょっとし、勇敢にも声を掛けてきた。
「大丈夫ですか?血が出てるけど」
向こうがジェスチャーで鼻のあたりをさするので、自分の鼻に手をやるとべっとりとした血が、歩道の電灯でしっかり見えた。
「大丈夫です」
こいつだっていかれたサイコパスかも知れないと、裸足で(タイツは履いていた)すれ違う私の方が、誰が見たっていかれていただろう。
亨一のマンションの鍵は置いてきた鞄の中だ。
エントランスに着いた私は、ゆっくり確実にインターホンを押す。
部屋番号を忘れていないのは、彼の苗字「佐藤」にちなんだ310号室だからだ。
私を見るなり、絶句した彼は警察を呼んだ。
「違うの、大丈夫なの」
必死で止めたが、破れたタイツの足元には靴も履いておらず、鼻血がこびりついた顔の私が、誰かから暴力を受けたと亨一は思い込んだのだ。
男女ペアで来てくれた警察官は気を利かせ、男性警官と亨一を別の部屋にやってから話を聞いてくれたが、聞いているうちに完全に呆れた表情になり亨一たちをこちらに呼び戻した。
困ったのは、相手の部屋が思い出せないことだ。
最後に立ち寄った近くの店に電話を掛けてもらったがすでに閉まっており、まだアルコールも残っているだろうし時間も遅いということで、警察官は帰っていった。
「何もされていないならよかった」
と言った亨一に、だから警察など呼ぶ必要はなかったのだという言葉が出かかったが、ついさっき飲み屋で知り合ったばかりの男性の部屋へ上がってしまったという私の説明を、隣で聞いていた彼の表情を思い出し素直に謝った。
翌朝目が覚めてから、店の開店時間までの間が自己嫌悪で地獄だったが、店に行くと爆笑する店主と安牌の彼に迎えられた。
亨一は店の外で待っていたが、全て無事に戻ってきた荷物(ボーナスが支給されたばかりの通帳も!)のお礼にせめて一杯くらいご馳走しないとなんて思いつき、みんなでビールを飲んだ。
「トイレから戻ったら居なくて、バッグもコートもブーツもあるから隠れているのかと思ったよ。電話番号もまだ聞いていなかったし」
中は一切見ていないと誓った安牌に、実は携帯電話もバッグの中だったのだと言うとそれでもまだ笑っていたが、多めに支払いをしていこうと会計を頼んだときに財布もそのバッグの中にあったことを知ると、引き気味な顔を店主と見合わせた。
またゆっくり、今度は1軒目に来ることを約束し外に出ると、
「信じられない、この状況で何でお酒飲めるの」
亨一にも引かれてしまった。
三ばんめの星の王子さま @shiro_mori_2
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