フィッグおばさん現象

 フィッグおばさん現象、とわれわれ兄妹が呼んでいる現象がある。

 ここで「なるほどそれは非常に興味深い、詳細をお伺いしたいところです」などと学術的好奇心を示してくれる向きはおそらく少数であろう、というのは俺にもまあ、理解はできる。ふざけているのか? 世の中を馬鹿にしているのか? 痴れ者の餓鬼めが。失せやがれ。などといった暴力的なリアクションを、俺が受け手の立場であったとすればするであろう。だって舐めた感じがするからね。見るからに。

 なにがいけないのか? まずネーミングが致命的にまずい。フィッグ現象、ならばこう、理系的というか知性的というか、高等学校の教科書に掲載されていても不思議ではない崇高なオーラを纏っているような感じがするし、「本日はフィッグ現象についてお伝えしたいのです」といって本稿を開始したならば、俺を馬鹿にする者も激減していたに相違ない。

 では上記のメリットが存在するにもかかわらず、あえて「フィッグおばさん現象」というたわけた名前に拘泥するのはなにゆえであるか。それは「フィッグおばさん」というのが一種の固有名詞であり、「フィッグ」と「おばさん」に分割するとすぐさまニュアンスを失ってしまう、という事情に由来する。

 馬鹿なのか、と仰りたい気持ちは分かる。それでもちょっと考えてみてくださいよ。たとえばいきなり「クレア」とだけ言われて、あなた誰を指しているか分かりますか? 分からんと思う。俺は分からない。十人いれば十通りのクレア像が生じると思う。これでは困るのだ。用を成さない。

 そこで「おばさん」の出番となる。クレアおばさん。途端に霧が晴れ、視界がクリアになったのがお分かりだろう。勘違いのしようがない。丸眼鏡にエプロン姿でシチューを作っているあの優しげな婦人の肖像が、誰の脳裡にも即座に浮かぶ。分割するとニュアンスを損なうとは以上のような意味合いである。

 では「フィッグおばさん」とは何者なのか? カレーでも拵えているのか? というとそうではない。具体的になにをしている人物なのかと問われると、俺にも明瞭な回答ができぬのである。

 あのな、小僧。「現象」というからには、なんらかの原理原則があるていど解明されているわけでしょう。それをなんですか? 何者なのか分からない? ちょっと人生を見つめ直したらどうかね。

 うん。説明を続けましょう。「フィッグおばさん現象」というのはですね、この「何者なのかよく分からない」という点がまさに重要なのです。よろしいか? このフィッグおばさんなる人物が、クレアおばさんのごとき鮮明な人物像を有していたんでは、この現象は成立しないのである。

 フィッグおばさんについてわれわれ兄妹が知っていることは、「ハリー・ポッターの登場人物である」という一点のみである。あとのことは分からない。謎に包まれている。読み返したらなにかしら重要な事項が書いてあるのかもしれないが、いまハリー・ポッターが手元にないのでそれも叶わない。それでも説明にはなんら支障がないので、このまま続けさせていただく。

 ハリー・ポッター、という名が出てきた時点で、かなり多くの方が「ああハリー・ポッターね」とあの少年を想起したことと思う。クレアおばさんの知名度をも上回っているに違いない。クレアおばさんもまあ、丸眼鏡の人物全体では比較的健闘しているほうだと思うが、それでもハリー・ポッターと比べてしまうと分が悪い。勝てる可能性があるとしたらそれこそジョン・レノンとかね、そういう人だけではないですか。たぶん。

 で、フィッグおばさんである。少なくともロン・ウィーズリー、ハーマイオニー・グレンジャー、ダンブルドア校長、ドラコ・マルフォイとかそういったキャラクターに匹敵するような、主要な人物ではありえない。だってなにをやった人なのか覚えてないんだからね。そんなんいたっけ? と首を傾げられる向きも多かろう。

 それではなにが楽しくてそれらの主要登場人物を差し置き、かかる得体の知れぬおばさんの名を起用するのか? というポイントをいよいよ解説する。このおばさんは、何巻なのかは忘れたけれどもハリー・ポッターのいずれかの話において、なんだか重要人物のような雰囲気で登場するのである。で、それを読んだわれわれ兄妹は困惑したわけですね。誰だねこの人は。知らん。どこかで出てきたっけ? さあ。よく分からんね。やめやめ。つってわれわれは揃って、ハリー・ポッターを読むのをやめてしまった。そういう次第なのである。

 すなわち「フィッグおばさん現象」とは、「いまひとつ関心の引かれない人物が訳知り顔で場に登場したことによって興ざめし、物語それ自体への興味が失せてしまう」という意味の現象なのです。はい。

 むろん、そこまでは存在感の薄かった人物が実は重要な役割を担っていたことが判明する、といった技法が使用されていたのであろうことは、今ならば理解できる。しかし当時のわれわれは、青洟を垂らしたような田舎の小童に過ぎなかったのであって、そういった文学的なテクニックとは無縁な存在だった。ハリー・ポッターが読みたかったのにロンでもハーマイオニーでもない、なんかよく知らんおばさんが出てきた。やめた。その程度の短絡的、近視眼的な思考しか有しない阿呆だったのである。責めても仕方がないであろうことは、了解していただけることと思う。

 そうしたわけで、この「フィッグおばさん現象」により、われわれ兄妹はハリー・ポッターの結末を今もって知らない。大ヒットして世界中で読まれている本であるから、当時のわれわれと同程度の知能しか有しない人間にも手に取られているのではないか、とは想像できるものの、「フィッグおばさん現象」のために同書を断念した、という話は他に聞いたことがないので、われわれだけが飛びぬけた間抜けであった可能性も否定できず、あれから長い時間を経た今でも、ふと思い出しては不安を覚えるのである。

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殺意日記 下村アンダーソン @simonmoulin

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