冰の瞳 -Леденеочи-

ペン子

第一章 コソボ紛争編

第1話 父の葛藤

「なんであんなブスが選ばれるのよっ!」

 1979年、9月。ユーゴスラビア(※1)の首都・ベオグラードでめでたい結婚式会場のそこここで、多数の美女たちが、新婦を恨みを込めた目で睨みつける。美しく着飾った彼女たちの美しいはずの顔は、嫉妬と憎悪で醜く歪んでいる。

 その横で、新郎の親戚や友人たちは

「おめでとう、ドラガン!」

「こんないい奥さんもらって、この幸せ者がー!」

 と祝福し囃し立てる。ドラガン、イェレナ、共に23歳。

 しかし新婚初夜のピロートークは、イェレナの安全とこれから生まれる家族の為、一刻も早くベオグラードを離れる計画についてだった。


 ドラガン・ミロシェヴィッチは、太陽の様に光り輝く金髪と、凍てついたバイカル湖にヒスイとアメジストを閉じ込めたかの様な、神秘的なアイスブルーの瞳を持った、ユーゴスラビアの若きバイオリン演奏者である。セルビア語で「慈愛」を表す名のとおり、争いを好まない、細身で長身の優男。音楽大学でイェレナと出会った頃、イェレナは彼女の才能を評価したプラハの楽団から、スカウトの連絡を受けていた。

 ただでさえその才能に嫉妬されていたのに、誰もが振り向く美貌と聖職者の様な人格を持つドラガンの愛を手に入れたことで、周囲の女性達から嫉妬どころか憎悪や殺意まで持たれてしまった。どんなに美女たちが色を仕掛けても靡かず表情すら変えないのに、地味で平凡な容姿のイェレナと語らう時のドラガンは、頬を紅潮させ、その美しく輝く瞳を潤ませながら、うっとりと彼女を見つめていた。

「彼にあんな顔、誰もさせたことが無かったのに……!」

 イェレナに激しい嫉妬の炎を燃やす美女たちは、全くドラガンの事を理解しようとしなかった。ドラガンの事を理解していたイェレナただ一人が、図らずともドラガンの愛を射止めたのだった。


「君とこれから生まれてくる子供たちの為に、できるだけ早くプラハへ行こうね。私はすぐ言葉を覚えられるから大丈夫」

 自分とは反対の、射干玉ぬばたまの髪を撫でながら、ドナウ川とサバ川が交わるあたりにかかるブランコ橋、そのそばに見えるベオグラード要塞に目をやる。

「そう……ね。今週中に出発しましょう」


 若い二人は、閉ざされた鉄のカーテンの内側で、かたく誓い合った。



 二人がプラハに根を下ろして18年、ヴァーツラフ広場へ子供たちを連れ、家族でショッピングに行く。長子のウルシュラ、次子のヴラダンが生まれてから、1989年にビロード革命が、1991年モスクワでクーデターが起こり、鉄のカーテンが無くなったことで、民衆は自由を勝ち取った。末子のコヴァーチは、まさにビロード革命の当日、「自由を勝ち取った日」1989年11月17日に生まれた子であった。


「父さん父さん! 僕、本が欲しいな! これ!」

 8歳になったコヴァーチは走り寄って来て、手に取った本を両親に見せた。それは絵本でも童話でもなく、医学の専門書。ぎょっとして目を見開く。

「な、なんでこの本が欲しいんだい? 大人だって読むのが大変な本だよ?」

 作り笑いで質問してくる父親にきょとんとするコヴァーチ。

「僕はもっともっと、たくさんのことを知りたいんだ!」

 両腕を広げ、明るく答えるコヴァーチの肩に手を置き、イェレナが続ける。

「あなたあのね、実はこの子、ウルシュラの教科書を読んでたのよ。高校の数学の教科書よ? ウルシュラが私に教えてほしい、って訊きに来た時、隣でリンゴを食べてたコヴァーチがすらすらと解いて見せたのよ」

 唐突な妻の激白に、ドラガンは悟った。

「そうだったのか……コヴァーチは普通の子よりかしこいんだね。お前は私たちの前では、いつも虫を捕まえたり、犬や猫と泥だらけになりながら遊んでたから、全然わからなかったよ。頭の良さはお母さんに似たんだね」

 目線を合わせる様にしゃがみ、自分の幼い頃に生き写しなわが子の頭を、優しくなでる。無邪気に笑うわが子に目を細めつつ、今内戦が激化しているユーゴスラビアへは、まだ連れて帰れない……と改めて思った。



 1998年、2月。ドラガンは自宅のテレビで、長野冬季五輪のダイジェスト番組を観ていた。おりしもアイスホッケーでチェコが宿敵ロシアを破り金メダルを獲得、チェコ中が勝利に沸いていた時だった。

「日本かぁ。コヴァーチが4歳の頃に、コンサートでウエノへ行ったっきりだったからなぁ」

「そうね、また行きたいわね。私、サースカパラータ皇居に行きたいわ」

 そう懐かしんでいると、長子のウルシュラが

「ねぇ……なんでコヴァーチだけハンガリー式の名前なの? あたしもヴラダンもチェコ式の名前なのに。しかもコヴァーチってハンガリーでは姓でしょ?」

 ドラガンとイェレナは、ひきつった笑いで顔を見合わせる。

「うん……それは、ね……。お父さんもお母さんも、勘違いしてたんだよ。ユーゴスラビアにはコヴァーチという名前の知り合いはいなかったし、ハンガリーで初めて見て、それが名前だと思ってたんだよ。コヴァーチが生まれた時、ベオグラードの教会で洗礼を受けさせて(※2)プラハに戻る途中、ハンガリーで知人から、それはわが国では鉄職人という意味の姓だ、と言われてさ……」

 勘違いで名前をつけられた当のコヴァーチは、クルテクのぬいぐるみを抱きしめながら、一人で眠っている。


 翌日、楽団から帰ってくると、ハンガリーのセゲドの郵便局から送られてきていた手紙があった。確かにハンガリーの知人はいるが、手紙を出してくる様な相手はセゲドにはいない。誰かと思っていると、ベオグラードに住んでいた筈の弟からだった。


「兄さん、どうか帰って来てくれないだろうか。スレブレニツァの事件から、ユーゴスラビアが各国から非難されているのは知っているだろう? セルビア人とアルバニア人の復讐合戦がずっと続いている。叔父さんの一家は皆殺されてしまった。俺と家族もずっと逃亡生活だ。もしかしたら、この手紙が着いた頃には、俺たちもアルバニア兵に見つかって殺されているかもしれない。できるだけ早く帰ってくるか、せめてセゲドにいるセレシュ・ゲルゴという男に物資を送ってほしい」


 ため息をつくドラガン。達筆な弟が、こんなにも乱れた字で綴った手紙をみれば、どれだけ弟一家が苦しい思いをしているか、容易に想像がつく。しかし助けてやりたいとは思っていても、帰ってしまえば、愛する妻子に危険が及ぶ。そもそも自分自身銃を持ったことすらない、荒事に適性がない、全く以て頼りない男である。今の彼にできることは、食料や衣料、医薬品を送ることぐらいだった。

 憂慮しているのは、よしんばそのセレシュという男に物資を送っても、ハンガリーとユーゴスラビアは対立関係にあることから、本当に物資が弟一家の手に渡るのだろうか? 葛藤に苦しみながら、手紙を寝室の引き出しにしまい込む。




 1998年、11月17日。コヴァーチ9歳の誕生日。今日は家に着いたら、可愛いわが子の誕生日のため、すぐにお祝いの準備をしなくては。


 故郷の戦禍が、遠く離れた平和なプラハに暮らす一家に忍び寄っているとも知らず。






 ※1…現在のセルビアを含む、バルカン半島の国々を集めた連邦国。1979年当時の正式名称はユーゴスラビア社会主義連邦共和国。モスクワのクーデター後、社会主義の部分が消え、2003年2月5日に、セルビア・モンテネグロという名称になり、ユーゴスラビアの名前が完全に消えた。

 ※2…セルビア人は一般的に、キリスト教の中でも正教を信仰している。しかしチェコでは歴史上の経緯から宗教に対する信仰心が薄く、無宗教の人が多い。教会や聖堂は多数あるが、2011年度の調査ではキリスト教徒だと申告した国民は総合してもわずか13.9%だと報告されており、その中に正教は含まれていなかった。作中ではこの時代、チェコでは正教の教会が無く洗礼が受けられないので、子の洗礼の為にベオグラードへ行った、という設定である。

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