第8話 侵食する悪魔
ウィリアム・シェイクスピアによる「ロミオとジュリエット」に代表される様に、互いに強く深く想い合っていていも、結ばれず引き裂かれる男女はままいる。
「そ……んな……。私、私……ドラグア様に初めてを捧げましたのに……」
不安に涙するヌールを、優しく抱きしめるドラガン。
「……ヌール様、貴女との一夜は本当に素晴らしかった。貴女の大切なここに注げた時、私も男の喜びに打ち震えました。私もずっとこの愛が続けばいい、と望んでおります。貴女を愛しているから」
愛らしい栗色の瞳から零れる涙をそっとぬぐってやり、ゆっくり諭す。
「体調は問題ありませんか? 私も精いっぱい、ヌール様の愛に応えます。僅かな可能性にかけて、努力します。貴女のお側にいたいから。今晩も……ヌール様にお悦びいただける様、私の持てる限りを尽くします。私達の愛を育てましょう、私達の子を成すために」
ドラガンの透き通るアイスブルーの瞳は、冰の色のまま、南国の海の様に温かく微笑み、乙女の心を包み込む。
ファティマが呼ぶ声がする。
「お嬢様ー! もう夕食のお時間ですわよー!」
「あらファティマが呼んでいるわ。そろそろ参りましょう、ドラグア様」
腕をほどいてもらい、二人は手をつないで歩き出す。
「これで味を調えたら、すぐ召し上がれますよ!」
ファティマがハーブの様な粉を料理にかけ、二人にふるまった。
二人は食事の後に湯浴み、ドラガンは背中の湿布薬を変え、その後、寝所でまた愛欲の限りを尽くす。二人の子を成す為。
ドラガンは自らが奏でる乙女の嬌声でより猛り、自らが果てるまで、乙女に愛の種を注ぎ続ける。
タスッ と軽い音を立てて突き刺さる、小さいナイフ。何度も何度も反復練習して、もう反射運動もしなくなるほど、放った刃は何度も突き刺さった。
「……これぐらいなら、もう後ろを向いていても当てられるな。大したガキだぜ」
抜き取ったナイフから、赤黒く変色した、粘度の高い血液が滴り落ちる。何度もナイフを投げて刺し続けられた、アルバニア兵の遺体だ。コヴァーチは凍てついた冰の瞳のまま、極寒の目つきで、面倒そうにタバコをくゆらす男へ言い放つ。
「師が優秀な上に僕も優秀なので。断じてあなたのおかげではありません」
「口の減らねぇガキだ。いつの間にかロシア語も覚えやがって」
男の言葉を無視し、ナイフの汚れを丁寧にふき取るコヴァーチ。大きなどすどすという足音が聞こえ、コヴァーチは振り返って足音の主に手を振る。
「コヴァーチ君……君が特別な子供だというのはよくわかってる。確かに君は全てに於いて普通ではない。しかし今回の様な事は認められない。君は一、民間人だ。我々軍人や警察には、君を保護する義務がある。君が自ら戦場に降り立ち、敵対勢力に挑むのはもうやめたまえ!」
イゴールの説得に眉を顰めるコヴァーチ。
「何故です? あのアルバニア兵は、女性を襲ってました。処刑するのが当たり前でしょ。……でもまぁ、イゴールさんがそうおっしゃるなら、僕も次からは自重しますよ」
「おいボグダノフ少尉。あのガキをさっさとセルビアの軍か、セルビアの警察に引き渡せ。あいつは厄の種だぞ。メチャクチャだ。明らかにキリスト教の白人だとわかる外見で八端十字架を首からかけているのに、アルバニア兵やムジャヒディーンの前でコーランの開端章(※1)を詠唱して、整ってる分、余計に薄気味悪い顔で笑いながら、小型拳銃を撃ちまくりナイフで刺しまくる。しかも必ず致命傷を避け、苦痛が長続きする様に選んで攻撃していやがる。そのくせ、すばしっこいからなかなか捕まらん」
もうすぐセルビア警察が拠点を構えている地域に入る。そうしたら、この不思議な美しい少年をセルビア警察に引き渡し保護してもらい、我々も本来の任務に戻ることになるだろう。
「あの子の気持ちもわかりますが……いつまでもこんな場に置いておくわけにはいきません」
身の守り方自体は確かに教えたが、まさか勝手に戦闘に紛れ込んで、しかも我々スペツナズの隊にいながら戦果をあげるほどになるとは、全くの予想外だった。とんでもない少年兵になってしまったものだ……これも連れ去られた父親を救い出す為なのか。
「コヴァーチ君、きたまえ。食事の時間だ」
「どうせまたレーションでしょ? 食べなければ死ぬからいただきますけどね」
大きな体のイゴールと、小柄で痩せているコヴァーチが、並んで座りレーションを食べる。
「君をもういい加減、セルビア側に引き渡せ、と上官から命令が下った。君を保護してからもう3か月経っているからね。近いうち、この近辺に拠点を置くセルビア警察に引き渡す予定だ。その後はベオグラードまで送り届けてもらいなさい」
コヴァーチは黙って食べており、返事をしない。
「……君はベオグラードへついたら、ご家族の墓をつくると言っていたね。その後はどうするんだい? プラハへ帰ろうにも、子供一人で行ける様な状態ではないぞ」
「僕は……家族の墓を作ったら、しばらく児童養護施設にいて、保護でもしてもらいます。そういう施設なら、本の1冊や2冊あるでしょう。18歳になったら軍か警察に入るつもりです。多分軍かな。軍なら何でもできますから」
本? 本が読みたいのか? 確かにこの部隊にある本と言えば、低俗なアダルト雑誌や軍事論文などしかない。どちらも子供が読むようなものではない。
「どうして本なのかな?」
「プラハの家には、僕が買ってもらった本がたくさんありました。医学書、天文学、経済書、思想、文学、数学、科学、歴史……色々です。僕は本を読むのが好きですから」
なるほど、賢いのは本のおかげなのか……。
「そうなのか。最近読んだ本で面白かったのは、なんだった?」
「カーマ・スートラ(※2)という本です」
「なんだいその本は? どんな内容なのかな?」
ずっと冰の様な無表情だったコヴァーチが、突然年相応の、いたずらっ子の様な顔で笑い、イゴールを驚かせた。
「知りたいですか? カーマ・スートラの内容。ふふふっ。男女の性や営みに関する指南書ですよ」
「んなっ……! き、君はまだ9歳だろう! いくら知能が高いとは言え、君には大分早いのではないかな!」
まったく!そんなものまで読むとは、とんでもないことだ。
軍医の簡易的な検査では、コヴァーチのIQは150程度ではないか、とのこと。はっきり言ってこの子供は、天才である。10年も生きていない子供が、大人以上の思慮分別を持ち、精鋭部隊である我々の戦闘技術を目の当たりにし、自分の力として吸収していく。
しかしまだ幼く、経験も浅い。手痛いしっぺ返しをくらう前に、早く普通の生活に戻してあげるべきなのだ。
「イゴールさんは……ふふふっ 誠実ですけど、女性の機微には疎そうですね。でも、そういう人こそ、本当は幸せになるべきじゃないかな」
少し悲し気な目でイゴールを見るコヴァーチ。
コヴァーチはこの3か月間、ずっとイゴールを観察してきた。高い実力と統率力を持っているのに、真面目過ぎて損な役回りばかり押し付けられている。そこには大体があの中尉が関わってる。
あの中尉は曲者だ。イゴールや他の隊員と何かが大きく違う。実力はある、だが何かこの隊の任務とは、別の目的を持っていそうだ。奴に隙を見せてはいけない。それに、あの男が吸うたばこ……種類が違うものがある。匂いが違う。時々、その「匂いが違うたばこ」を、他の隊員にも勧めていることがある。あの男の前では、用心するに越したことはない。
コヴァーチの警戒心は更に高まり、ますますイゴールや信頼できそうな隊員から離れなくなった。
「ヌールお嬢様、お食事の時間ですよ! 沢山召し上がっていただいて、早く子を成していただきませんとね」
「もう、ファティマったら……。こんなに食べられないわ。私、妊娠前に太ったら、ドラグア様に嫌われてしまうわ。嫌よ、そんなの」
戦働きをする男ばかりのむさ苦しい場所で花咲く、女子の会話。そこに周囲の兵士とは一線を画す男が加わる。
「ドラグア様、一緒にいただきましょうね。今日もファティマが腕によりをかけて作ってくれましたよ」
「……あ、……はい……」
ここ最近、日中のドラガンは元気がない。夜の営みで疲れているのかと思ってみれば、それはきちんと行われている。しかし以前と大分様相が違ってきている。
「ねぇファティマ、最近ドラグア様のご様子が変なの……。日中、なんだかお元気がない様に見えてしまうわ。……それに、最近夜の方もちっともお優しくないの……どうしてなのかしら……」
以前は、ヌールの傍によりそい守るように慈しみ、優しく微笑んでいたが、ここ3か月経つうち、ずっと座って虚空を見つめていたり、起きてもベッドから起き上がらない事が増えた。話しかけても上の空の事が多い。
しかも夜になると、以前の様に愛し合い互いを高め合う営みではなく、自分だけ満足したらさっさと寝てしまう事が増えた。それも、以前の様なヌールを慮り優しさにあふれた営みではなく、乱暴なレイプを思わせる、女の体を使った自慰行為をしているかの様な、身勝手なやり方になってしまった。
「あの、ドラグア様がしてくださってる最中、稀におかしなことおっしゃるの。イェレナ、イェレナ、私を許してくれって」
ドラガン自身も、自分に何かが起きている自覚が、うっすらあった。何故か無気力で、何においても食指が動かない。あんなに嬉しく満足し励んでいた、可愛いヌールとの愛の営みも、何故か面倒になって来ていた。マンネリ…という訳ではない。彼女の愛らしい肢体を見ると昂ぶり、猛り狂う。しかし、自分が満足したらもうどうでもよくなり、さっさと寝たかった。
いつからこうなったのか。思い当たる事がないか、ぼんやりと考えているうちに、いつの間にか寝てしまった。
「あなた、あなた! 大丈夫ですか?」
「父さん! しっかりして!」
夢の中で、愛しい妻と娘の声が聞こえてくる。私に会いに来てくれたのか?妻と娘の姿を探すが、見当たらない。
「父さん! 何やってんだよ!」
真後ろからヴラダンの声が聞こえ、振り返った。ヴラダンが厳しい顔をして詰め寄ってくる。ドラガンとそう変わらない身長の息子が、父の襟首をつかんで叫ぶ。
「コヴァーチはどうしたんだよ、忘れてんじゃねーよ父さん! 今のままじゃ父さんは殺されるぞ! 母さんの事も、姉ちゃんの事も、俺の事も……まだ生きてるコヴァーチの事も忘れて、死んだ人間になって殺されるんだぞ! 早く逃げろよ! 子供なら、コヴァーチがいるだろうが!」
亡き息子の叫びで飛び起きるドラガン。
激しい息切れと動悸。
「私が殺される? 誰に? ヌール様が? いやそんなことはない。私もヌール様もお互い愛し合ってるはず。では何故?最近の私は何故、ヌール様に優しく振舞えない? 何故気力がわかない? おかしい。おかしいおかしい。私は一体……どうしてしまったんだ?」
枕元に用意された水差しの水を飲んで落ち着かねば。
水を一口飲んだ途端、強烈な違和感で口から吐き出してしまった。全身の血流が逆流したかのような、焼け付く衝撃、錐を刺されたかのような、心臓の痛みがドラガンを襲い、そこから意識が暗転し、体が水差しと共に床へ落ちる。
水差しが割れた高い音と、ヌールの悲鳴が遠くに聞こえたのを最後に、ドラガンは闇に堕ちて行った。
※1…コーランの最初の部分。イスラム圏の心霊系・廃墟突撃系YouTuberが詠唱すると、ポルターガイスト現象が激化することで有名なのが、この開端章。YouTuber達が唱えている開端章の冒頭部は、筆者を含めた一部の日本人ファンからは「スミラー」と呼ばれている。
※2…ヴァーツヤーヤナ著作。4世紀から5世紀にかけてインドで成立したと言われている、世界3大性典の一つ。7つの章にわたり男女の営みについて書かれており、特に第2章は性行為そのものについて綴られていて、男性には大変有名な書と言われている。
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